夜明けまで、あと少し
浅野じゅんぺい
夜明けまで、あと少し
新幹線の車内は静かで、眠っている人と起きている人の境界が、夜の闇に溶け込んでいた。
窓に映る祐也の顔は、自分でも知らない誰かのようで、目を背けたくなった。
文庫本のページをめくっても、文字は心に届かず、ただ紙の上を滑り落ちていくばかりだった。
小さな舌打ちが前の席から聞こえた。
黒いワンピースの女性がスマホを握りしめ、真っ暗な画面を見つめていた。
その横顔に、微かな疲労が滲んでいた。
「バッテリー、切れちゃった……」
ぽつりとこぼれた言葉に、祐也の胸が不意に締めつけられた。
気がつけば、モバイルバッテリーを差し出していた。
「よかったら、使ってください」
女性は驚いたように祐也を見つめ、それからふっと微笑んだ。
「ありがとう。でも……もう遅いの。今日、この瞬間のために取っておいた曲があったの。でも、バッテリーが切れて……それでよかったのかもしれない。今は、音楽なんて、ただの痛みでしかないから」
「……音のない夜のほうが、救われることもありますよね」
彼女は黙ってうなずいた。しばらくのあいだ、呼吸だけがふたりをつないだ。
「……あなた、日本人?」
「一応。東京生まれの、東京育ちです」
「マリ。パリに住んでる。今日は、大阪に来た。何かを終わらせに。でも結局、何も言えずに帰ってる。バカみたいよね」
「バカじゃないと思いますよ」
「……優しい人って、ズルい」
「優しくなんかないですよ」
言ってから、少し照れた。
マリは目を細めて、かすかに笑った。
「ねえ、次の駅、どこ?」
「名古屋です」
「降りよう? 少しだけ、風に当たりたい。今夜は、ひとりでいたくないの」
ほんの数秒、祐也の心が揺れた。けれど、立ち上がるのに迷いはいらなかった。
*
名古屋の夜は湿っていて、街は眠っているようで、どこか起きているようでもあった。
歩道橋の上で、ふたりは並んで立ち、遠くのビルの明かりをぼんやりと眺めた。
「こんな夜ってあるんだね。泣きたくないのに、涙が近くにある感じ」
「……よくありますよ、そういう夜」
マリが横顔で笑った。その顔は綺麗だった。でも、どこか壊れそうで、祐也は目を逸らせなかった。
「帰ったらね、ただ静かな部屋が待ってるだけなの。誰もいないのに、誰かの影みたいなのが残ってる。わかる?」
「……すごく、わかります」
「なんで人って、壊れる前に“助けて”って言えないんだろうね」
「……言えたらよかったですね」
「ほんとに。強がってるうちに、心って、からっぽになるんだね」
その声は、風にさらわれるようにかすれていった。
「俺も……逃げてました。部屋に帰っても誰もいないのに、そこにいる“誰かの不在”が怖くて。何かを終わらせるのが怖くて、ずっと乗り過ごしてばかりでした」
マリはそれを聞いても、何も言わなかった。
ただ静かに、その場にいてくれた。
*
夜明けが近づくころ、コンビニの灯りの下でマリがスマホを取り出した。
カメラを向けたものの、結局シャッターを押さなかった。
「撮ろうと思ったの。でもやめた。本当に残るものって、画面じゃ切り取れないのかもしれないから」
「……忘れたくない夜なのに?」
「うん。だからこそ、ちゃんと記憶になるんだと思う。痛みも、光も、風も。全部、混ざって」
ふたりは自然と歩き出し、まだ人の気配のない通りを抜けた。
街は静かだったが、遠くで新聞配達のバイクの音が響きはじめていた。
やがて駅の構内が少しずつ明るさを帯びはじめた。
マリが、くしゃくしゃになった紙をポケットから取り出す。破れかけた端に、小さな文字がにじんでいた。
Don’t forget this night. Even if I need to.
「どういう意味だと思う?」
「……あなたが忘れなきゃいけなくても、私は覚えてる。そういうことですよね」
マリはふっと笑い、鞄に紙をしまった。
「……ねえ、祐也くん。ありがとう。たぶん、何かは終わっちゃったけど、ちゃんと夜が明けるって思えた」
「うん。俺も、帰れそうな気がしてます」
「また、どこかで」
そう言ってマリは、改札の向こうに歩き出した。もう振り返らなかった。
*
ベンチにひとり残った祐也は、空を見上げた。
名前も連絡先も、何も知らない。でも、心のどこかに、小さな灯が灯った気がした。
あの夜、マリと過ごした数時間が、消えそうだった彼自身を少しだけ照らしていた。
人はほんの一瞬でも、誰かと心を交わせる。
それが、夜の終わりに希望を残してくれることがある。
夜明けまで、あと少し。
そして、また次の一日がはじまる。
夜明けまで、あと少し 浅野じゅんぺい @junpeynovel
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