電子の亡霊(ショートショート)
雨光
黒い挑戦者
電子の音が、色のついた雨のように絶え間なく降り注いでいる。
私は街の片隅にあるこの寂れたゲームセンターを好んでいた。
黴と煙草の匂いが混じり合った薄暗い空間。
そこは現実から切り離された、美しい箱庭だったからだ。
私はいつも、一番奥に置かれた一台の古い格闘ゲームの前に座る。
ブラウン管のわずかに丸みを帯びた画面は今の平板な液晶とは違う魂を宿したような青白い光を放っていた。
百円玉を投入口に滑り込ませる。
その無機質な金属の感触だけが私をこの虚ろな世界に繋ぎとめる唯一の楔であった。
このゲームには奇妙なバグがあった。
キャラクター選択画面にごく稀に真っ黒なシルエットだけの異質なキャラクターが現れるのだ。
他の客はそれをただのデータ破損だと気にも留めない。
しかし私は、すべてを拒絶するかのようなその黒い虚無の塊に言い知れぬ官能的な魅力を感じていた。
私はいつもその黒いキャラクターを選んだ。
その黒い影を私の指先が操る時私は常勝の神となった。
その動きは他のどのキャラクターよりも滑らかでしなやかでそして残酷なまでに美しかった。
私は勝利の陶酔に溺れていった。
しかし、そのキャラクターで勝ち続けた夜は決まって悪夢にうなされた。
自分がゲームの暗い石畳のステージの上で見知らぬ誰かと延々と闘い続ける夢だ。
夢の中の拳の痛みはひどく生々しい。
負ければ本当に現実の私が死んでしまうかのような絶対的な恐怖があった。
ある日、私はそのゲームのハイスコアランキングに奇妙な言葉が並んでいるのに気づいた。
1st K.S TASUKETE
2nd Y.N KOKOKARADASITE
3rd T.A KARENIKOROSARERU
それはプレイヤーたちのイニシャルに添えられた断末魔の叫びであった。
私はその日から、あの筐体に触れることができなくなった。
そして意を決してこのゲームセンターの古株である痩せた老店員にあの一台のゲーム機について尋ねてみたのだ。
店員は初めはひどく面倒くさそうな顔で首を振っていたが私の尋常ではない目の色を見て、重い口を開いた。
「あの台はね……もう十数年前になるかね。あったんだよ。良くないことがね」
昔、このゲームで誰にも負けたことのない天才的な高校生プレイヤーがいたのだという。
しかしある雨の降る日、ふらりとこの店に現れた一人の見知らぬ喪服のような黒いコートの男に彼は初めて完膚なきまでに打ちのめされた。
その男が使っていたのが、あの誰もその存在さえ知らなかったはずの「黒いキャラクター」だった。
プライドをそのガラスのような自尊心を粉々に引き裂かれた高校生はその数日後、
このゲームセンターの薄汚れたトイレの中で、自らその若い命を絶った。
「それからだよ」と店員は言った。
「あの台で勝ち続けるヤツはあの高校生の成仏できねえ魂に取り憑かれちまうってな。ハイスコアのあの名前はみんなそうさ。ゲームの世界に引きずり込まれちまったヤツらの最後の助けを求める声なんだよ」
そうか。
あの「黒いキャラクター」の正体はあの喪服の男などではなかったのだ。
それは対戦にそのたった一度の敗北に心を折られて死んだあの哀れな高校生の怨念そのものだったのだ。
彼は自分を打ち負かすほどの強いプレイヤーを求めて今もあのブラウン管の暗い闇の中に潜んでいる。
そして自分に勝てるほどの強い相手を見つけるとその魂をゲームの世界に引きずり込み永遠の対戦相手としてその虚ろな空間に閉じ込めてしまうのだ。
私はすべてを知りその日から二度とあのゲームセンターには近づかなかった。
数週間後。
私はただ気まぐれにあの店の前を通りかかった。
そしてガラス越しに見てしまったのだ。
あの忌まわしいゲーム筐体の前で一人の私と同じような若い男が目を血走らせて熱中し、レバーを激しく操作しているのを。
そしてその対戦画面に映っていたのはあの見慣れた「黒いキャラクター」とそれにまるで鏡で写したかのようにそっくりなもう一体の黒いキャラクターだった。
新しくあの台に取り憑かれた若者の隣に。
私のよく知る「黒いキャラクター」がまるで新しい「友達」ができたのが嬉しくてたまらないというようにぴったりと寄り添って並んでいるのを。
私はかろうじて助かったのだ。
しかし、あの呪いの終わりのない対戦はこれからもずっとずっと続いていく。
電子の亡霊(ショートショート) 雨光 @yuko718
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます