観察日記

野々村鴉蚣

伊藤守人

 伊藤守人は、今朝も六時半に目を覚ました。

 目覚ましの音が鳴るより先に、彼のまぶたは自然と開いた。浅い眠りだった。夜半過ぎ、隣室の窓が風で揺れる音に反応して目を覚まし、その後は断続的な浅眠を繰り返していた。結局朝が来るまで、彼は度々目を覚ましていた様子だが、それを不快とは思わなかったのか、彼はいつも通りの手順で、布団を脇へ払い、ゆっくりと体を起こした。


 寝癖はほとんどない。髪質がやわらかく、整った枕の上でまどろむ彼の後頭部は、羽毛のように繊細な形を保っている。首筋に流れる血管が微かに脈打ち、その下に覗く鎖骨のくぼみは、まるで陶器の裂け目のように美しかった。


 守人はまずカーテンを開ける。光が部屋に射し込む。今日の天気は曇天。彼の瞳に、どこか陰影のある憂いが落ちる。


 次に、キッチンに向かう。炊飯器の保温ランプがまだ点いている。昨夜の残りのご飯を温め、味噌汁の残りに火を通す。味噌は赤だし。具は豆腐とわかめ、少しのネギ。彼の食卓には贅沢なものはないが、その素朴さが、いっそう愛おしさを掻き立てる。


 朝食を食べ終えると、食器を洗い、洗面所で歯を磨く。髭は少し伸びていたが、今日は剃らなかった。会社に大事な会議がある日には、彼は必ず肌を整える。だが、今日はそうではないらしい。

 彼のスーツは、グレーの無地。昨日とは違うが、ネクタイの柄はよく似ていた。ストライプが、彼の胸元を縦に引き締めて見せる。


 靴は、玄関で整えられていた。つま先に小さな擦れ傷があった。おそらく昨日、帰り道に小石でも蹴ったのだろう。かわいい人。注意力はあるのに、どこか抜けているところがある。それもまた彼の魅力。


 七時五七分、家を出る。彼の住むアパートの階段は鉄骨で、踏みしめるたびに、わずかに軋む音が響く。彼の足音は、他の住人のそれよりも軽やかだ。踵を強く打ちつけない歩き方は、育ちの良さを感じさせる。いや、たとえ育ちがどうであれ、彼の身のこなしには品がある。


 角を曲がり、小さな公園の脇を通って駅へ向かう。途中、コンビニの前で立ち止まった。缶コーヒーを買う。BOSSのブラック。彼は微糖が苦手だ。甘いものは午後にしか摂らない。自分に課した律儀なルールを、彼は今日も破らなかった。


 会社は、電車で四駅。快速には乗らない。混雑を避け、あえて各駅停車に乗る。理由を訊かれたとき、彼はこう言っていた――。「誰かに押されて鞄が潰れるのが嫌なんですよ」

 その発言に、彼の几帳面さと繊細な心根が透けて見える。鞄の中身など、書類と筆記具だけだというのに、それを守るように抱える彼の腕が、愛しくてたまらない。


 会社では、彼はあまり喋らない。話し方は丁寧で、誰に対しても同じ態度を崩さない。それが逆に、周囲から一線を引かれてしまう原因にもなっているのだが、彼はそれを気にしていないようだった。


 昼食は、弁当だった。社内の給湯室でご飯を温めていた。中身は、卵焼き、ウインナー、ほうれん草のお浸し。それから、白ごはんに梅干し。詰め方が整っている。昨晩彼が自分で作ったものだ。箸の持ち方も、品がある。


 午後三時、一度だけスマホを見た。通知はなかったようだ。そのままスリープに戻し、机の上に伏せた。

 彼が触れたそのスマホに変な物は入っていない。出会い系アプリどころか、流行のSNSですら。彼はあまり人と交流をしたがらない性格なのだ。絶対に浮気しない、まっすぐで純粋な人。だから彼のスマホはいつも電池の消耗は無く、通知もほとんど入ってこない。今日だって、誰からも連絡は来ていない。もし来るとしたら、母親からだろうか。


 十八時五分、退勤。会社を出ると、どこにも寄らず、そのまま帰宅の道を辿る。道すがら、二度だけ振り返った。人影が気になったのか、それとも、何かの気配を感じたのか。……鋭いところがある。普段はおっとりとした性格であるが、日常に紛れ込む異物を嫌う神経質なところがまた彼っぽい。昨晩眠れなかったのも、恐らくいつもと違う寝室に違和感を覚えたからだろう。


 十九時一七分、自宅到着。鍵を回す指先に、わずかに力が入っていた。どこか、落ち着かない様子。よく見れば、額に汗が滲んでいた。いつもより少しばかり早歩きで帰ったせいだ。

 彼は玄関を開けると、素早く体を家の中に滑り込ませ、即座に鍵をかけた。

 玄関の向こう側で、靴を乱暴に脱ぎ捨てる音がする。きっと慌てて寝室に戻ったのだろう。

 いつもの彼なら、丁寧に靴を並べてからネクタイを解き、スーツをハンガーにかけて消臭スプレーを吹きかける。それから夕食の準備をするのだが……。どうやら今日は違ったらしい。

 彼のスマートフォンに通知が入る。母親からだ。


「どうしたの?」


 とだけ書かれていた。どうやら、帰宅途中に母親へメッセージを送っていたらしい。


「ちょっと気になることがあって。今度の週末久々に帰るよ」


 と彼は母親に送っていた。時折こうして里帰りをしているのだろう。家族思いの素敵な人だ。



 さて、どうやら夕食は冷凍うどんだったらしい。冷凍庫から取り出し、鍋に湯を沸かす。出汁は顆粒。器に注いだあと、刻みネギと七味をかける。箸で麺をすくいながら、テレビのニュースをぼんやりと眺めていた。無表情だが、眉間が少しだけ寄っていた。政治の話が嫌いなのか、キャスターの顔が気に入らないのか。


 二一時三分、風呂に入る。浴室の音、湯の温度、石鹸の香り。


 二二時四八分、就寝。枕元に置いた目覚ましがチカチカと時を刻む。灯りを消した部屋に、彼の寝息だけが満ちている。しばらく寝返りを打ち、やがて静かに、夢の淵に落ちていった。


 ……私は今日も一日彼の生活を見守った。あぁ、愛おしい守人様。

 あなたの部屋にしかけた監視カメラも、あなたの衣服に忍ばせた盗聴マイクも、完璧に機能しています。

 私は常にあなたを見ています。

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観察日記 野々村鴉蚣 @akou_nonomura

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