第3話 『羅生門』は、クッキーではない

 昼下がりの国語の時間。

 先生の声が教室に穏やかに響いている中、俺――芝崎しばさき愛翔まなとは教科書を開きながらも、横目で少しだけ隣を見ていた。

 視界に入ったのは、ふわふわとした茶色の髪。

 そして、机の上にちょこんと乗っている丸い消しゴム。

 それを眺めながら、温花さんが真剣な顔をして何か考え込んでいる。

 きっとまた、変なこと考えてるんだろうな……。

 我慢できずに、そっと声を掛ける。


「……どうかした?」


 温花さんは俺の方をパッと向いて、小さな声で答えた。


「愛翔くん、『羅生門』って、お菓子の名前じゃなかったんだね……」

「いや、最初から違うよ」

「でも名前、なんかおいしそうじゃない? 『羅生門クッキー』とか売ってそう」

「売ってたら大変なことになるよ。内容、ちゃんと読んだ?」

「うん……門の下で髪の毛むしってた人がいて、びっくりした」

「でしょ……。それクッキーにしちゃダメなやつだから」


 温花さんは「そっかぁ」と小さく頷いて、また教科書を見たかと思ったら、ひそひそと続けた。


「でも、ちょっと考えてたの。“なぜ『羅生門』に登場する老婆は……”って設問、あれ、答えが“お腹が空いてたから”じゃダメなのかな?」

「……間違ってはないと思うけど、すごくざっくりしてる……かな?」

「じゃあ、"老婆は飢えを凌ぐために、死者の髪をむしっていた"……これ、漢字合ってる?」

「うん、文の内容は怖いけど、字は合ってるし正解に近いと思う」

「やった! 愛翔先生、ありがとう!」


 俺は先生じゃありません。

 温花さんがぱあっと笑うと、その横顔がちょっと眩しくて、俺はまた目を逸らしてしまった。

 それでも気付かれたのか、温花さんはちょっと声を潜めて、囁くように言った。


「愛翔くん、顔ちょっと赤いよ? 『羅生門』こわいから?」

「……うん、多分、そうだね」


「芝崎、さっきから随分と笑っているな。そんなに『羅生門』が面白いか?」


 突然の指名にびっくりする。そして、周りからくすくすと笑い声が聞こえる。

 うっ、恥ずかしい。

 素早く「すいません」と返す。きっと今の俺の顔はゆでだこみたいになっているだろう。

 さっきまで一緒に話していた温花さんを見れば、申し訳なさそうに「ごめんね」と小声で言ってきた。

 笑いが堪え切れていなかったのなら、いらつけていたのだがそんなにしゅんとされると何も言えなくなる。


「そんなに気にしなくていいよ」


 俺がなぜかフォローしていると、温花さんは「私、“羅生門のクッキー缶”作ろっかな~」なんて言っている。

 あ……あんま反省してないっぽい。


「怖いから“食べられません”って注意書きしといたほうがいいかもね」


 一応、反応はしておく。ここで無視するのはなんだか違う気がしたのだ。


「うん。間違っておばあさんが食べちゃうかもしれないしね」

「いや、クッキーは食べてもいいんだよ⁉」


「芝崎!」


「……すいません」


 隣を見れば、さっきと同じような顔をしてこっちを見てくる温花さん。

 彼女には敵わないな、と思いつつも、本日二度目の失態には顔を俯くしかなかった。

 でも、『羅生門』ってそういう話じゃないはずなのに――。

 隣に座っている彼女のせいで、今日だけはなんだか、優しい物語にも思えてくるのだった。



                   ◇


 お馴染みのチャイムが鳴り、授業が終わる。

 先生の「じゃあ、次までに問3を考えておくように」と言うのが聞こえる。

 次の授業は移動教室なので、教材を準備して教室を出る。廊下には夏の午後の厳しい陽光が差し込んでいた。

 そして俺の隣からは、その暑苦しさを緩和してくれるような穏やかな優しい声色が聞こえてくる。

 温花さんは先ほどの話をまだ引きずっているようで――。


「ねぇねぇ、“羅生門キャンディ”とかもありかな?」

「もうお菓子シリーズはやめとこうよ……」

「でも、楽しいでしょ」


 彼女はいたずらっぽく笑う。

 その屈託のない笑顔は、なんだか夏の陽射しを余計に感じさせた。

 と、ここで終わらせてもよかったのだが――。


 「温花さん、授業中はやっぱり止めよっか」


 そう提案する俺に、温花さんは「うん、ちょっと反省してる……」と自重してくれるのであった。






――――――――――――――――――

 やっと出てきましたが、主人公くんの名前は「芝崎しばさき愛翔まなと」です。

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