Fragment:壊れた心のかけら

@kitsune00

第1話 声が聞こえた日

―夜の街―


夜の街は、ネオンの光に包まれていた。 煌めく看板、絶えず流れる車のヘッドライト、そしてスマホの画面に反射する街のざわめき。


叶蓮『かのう・れん』は、その喧騒の中に身を置きながらも、どこか世界から切り離されたような感覚を抱えて歩いていた。 背広の襟は少し曲がり、シャツのボタンは一つ外れている。 片耳にかけたイヤホンからは音楽すら流れていない。 それは音を聞くためではなく、自分と世界との間に見えない膜を作るためのものだった。


(今日も……誰とも目を合わせなかったな)


心に浮かんだその言葉は、ため息と共に消えていった。 歩道橋の下で信号を待つ群衆の中、蓮はふと空を見上げた。 空は分厚い雲に覆われ、月すら姿を見せない。 まるで、自分の心の中と同じように閉ざされていた。


(俺、生きてるって、言えるのかな)


人混みを離れて、細い裏道を歩き出す。 湿ったコンクリートの壁、どこかカビのようなにおい、地面に溜まった雨水。 感覚だけが頼りのように、ただ歩き続ける。

壁に描かれた落書きに目を奪われた。 口のない人間の顔。その下には、小さくこう書かれていた—— 「聞こえるのに、声を出せない。」 蓮はその絵を、しばらく見つめていた。 まるで、その絵の中の誰かが、彼を見返しているように。 そしてその隣には、古びた紙がガムテープで貼り付けられていた。 手書きでこう綴られている—— 「君は、まだ“君自身”を諦めていないか?」 その言葉に、蓮の胸がわずかに痛んだ。


―職場の孤独―


【数時間前 ― オフィス】


「叶くん、昨日のバナー、また直してもらえる? クライアントが“色が暗すぎる”って」

「……これで五回目ですけど」

蓮はモニターを見つめたまま、小さな声で呟いた。

「ん? 何か言った?」

「いえ、すぐ修正します」

上司は満足げに頷き、次の社員のもとへと去っていった。


(俺、なんでこの仕事選んだんだっけ)


“人の心を動かす広告を作りたい”——それが、夢だった。 だけど今、自分の心を動かしているのは、焦りと虚しさだけだった。


周囲から聞こえる同僚たちの笑い声。 ドラマの話、恋人の話、週末の予定。 でも、それらは彼にとって遠い世界のことのように感じられた。


昼休みの時間。 誰もいない会議室の端に座りながら、弁当も開かず、スマホのメモ帳を眺める。 そこには、昔書いた言葉があった—— 「笑うのが下手でもいい。誰かを、本気で想えたら」 その一文が、今は皮肉のように思えて、彼はスマホをそっと伏せた。


彼のデスクには、フォルダが一つあった。 「ポートフォリオ — 夢」と書かれたそのフォルダの中身は、空っぽだった。


(誰かに必要とされるって、そんなに贅沢なことなのか)


夕方、同僚たちは笑いながら会社を出て行った。


「お先に失礼します!」


という明るい声。 蓮も小さく会釈するが、誰も彼の名前は呼ばなかった。


―公園での声―


【帰り道 — 夜】


帰り道の途中にある、小さな公園。 高層ビルの陰に隠れ、人の目にはほとんど止まらない場所。 でも蓮は、その静けさが妙に落ち着くと感じていた。


「……ちょっとだけ、座ってもいいよな」


ベンチに腰を下ろし、首を後ろに倒す。 夜空には星一つなく、白く濁った雲が街の灯りにぼんやりと照らされていた。


(このまま、どこかへ消えてしまえば楽かな)


そんな考えが頭をよぎったが、すぐにかき消した。


「……俺って、ほんとバカだな」


その時だった。 風でも機械でもない—— どこからともなく、耳元に「声」が届いた。


「……たすけて」


蓮は反射的に周囲を見回した。 しかし、公園には誰もいない。 虫の音さえ遠く感じるほど、静まり返っていた。


(今の……本当に、声だったのか?)


その声は、懐かしく、そして胸の奥を強く締め付けるようだった。 他人の声のはずなのに、自分自身の叫びのようにも思えた。


胸ポケットの中でスマホが震える。 画面を開いても、通知は何もない。 でも——その画面の奥から、誰かがこちらを見ている気がした。


次の瞬間、世界が静止する。 街の喧騒が、すべて引いていくように遠ざかっていく。


そして—— 彼の目の前に、ひと粒の淡い光がふわりと浮かんだ。 青白く、柔らかく輝くそれは、冷たさではなく温かさを帯びていた。


「フラグメント・シンクド」


誰かの声が、確かにそう告げた。 その声は、耳で聞くというより、心に直接響くような不思議な感覚だった。


蓮はゆっくりと立ち上がった。 手が震えていた。 だが光は逃げることなく、そこに留まり、彼を待っているようだった。


そして、蓮は初めて—— 自分が"見られている"と感じた。 社員でもなく、ノイズでもなく、雑踏の影でもなく。 ——ただ、一人の、誰かとして。


その瞬間、胸の奥で何かがわずかに、軋むように動いた。 自分でも気づかないほど小さく、けれど確かに「何か」が目覚めようとしていた。


遠くで救急車のサイレンが鳴っていた。 でも、ここは異空間のように、ただ静かだった。 光の粒がゆっくりと動き出す。 蓮の周囲を一周し、まるで「ついてこい」と言わんばかりに、空へと舞い上がっていった。


蓮は迷いながらも、一歩を踏み出す。 その一歩が、彼の長い眠りからの目覚めの始まりになることを、彼自身はまだ知らない。


——この日、声を聞いたことが、すべての始まりだった。

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