Black & White

千隼

第一部 プロローグ 2008年 秋『10月24日』

 幼いながらも、月ノ宮 澪(つきのみや れい)という少女にとって、小学校という場所に通うことは苦痛であった。

 どうでもいいことを大声で喚き、はしゃいでいる男子。重箱の隅をつつくように、相手の悪口をひそひそと話し合う女子。そうしたことに彼女が馴染めなかったのも大きいが、なにより自分が他と違っている自覚が、孤立を選ばせていた。

 それでも、月ノ宮 澪が小学校に通っていたのは、それが『普通』な事であることより――自分の家にいるよりもまだ、良かったからだった。

 独りで小学校から帰ってきた月ノ宮 澪は、自分が住んでいる古くて建付けの悪い木造アパート、その一室のドアノブを祈るような気持ちで回した。

「あぁ……おかえりなさい、澪」

 彼女を出迎えてくれたのは、くたびれた顔のお母さんだった。

「ただいま、お母さん」

 お母さんの顔を見て胸をなでおろした月ノ宮 澪は、子どもらしく玄関のよこにある台所に立っているお母さんのもとに行くと腰をぎゅっ、と抱きしめた。

 それから、彼女は寝室にランドセルを置くと洗面台で手を洗い、お母さんの作る晩御飯の準備を手伝い始めた。それを見たお母さんは「それよりも宿題はしなくて大丈夫?」と聞いてきたが、すこしでも母と一緒にいたかった彼女はそれでも手を止めなかった。

 それに――宿題なんてものは、この後にきっとありあまるほどに出来るのだから。

 こうして出来た晩御飯を、お母さんに見守られながら一人で食べた。今日のおかずはコロッケだった。自分の作った不格好な形のものは後でお母さんが食べるつもりなのか、彼女のお皿に並べられたのは市販品のように綺麗だった。

 食べ終えた食器を自分で片付けると、月ノ宮 澪はお母さんにねだって一緒にお風呂に入った。彼女はお母さんが女の子らしいからと、ずっと長い髪を保っていた。それを洗ってもらうのが好きだった。

 お風呂から上がり、髪を乾かしてもらっていると――あいつが帰ってきたのか、大きな音でドアを叩いた。

「澪――こっちよ」髪が生乾きのまま、月ノ宮 澪は焦るお母さんに手を引かれ、寝室の押し入れに入れられた。それから「おい、帰ったぞぉ」というしゃがれ声を鳴らして父が帰ってきた。

 押し入れに入れられた月ノ宮 澪は、外でなにが起こっているのかわからない。しかし、父と母が言い争う声、しばらくして遠くに、肉が叩かれるような音、濁った呻き声、言葉としての形を成していない罵声が、聞こえた。

 月ノ宮 澪もこんな状況を黙って隠れるのは厭だった。しかし、かつてはそうして父の前に飛び出した時、殴られ気絶させられて、その所為でお母さんが余計に殴られたのを知ってから、彼女はこうすることを受け入れた。しかし――、

(このままじゃ……お母さんはあいつに殺されてしまう)

 彼女もただ、耳を塞いで押し入れに隠れるばかりではなかった。お母さんがここから出ないのは、過去に説得しようとした時に、『あの人も最初からああじゃなかったの。だから、きっと……』そう言ってここから逃げ出すことを拒否したから、無駄なのは解っていた。

(だったら――)月ノ宮 澪は心を固めた。それが間違っていたとしても、子どもの彼女の出来ることとして、それしかなかった。

「私が……あいつを殺す」

 それから月ノ宮 澪は、押し入れの中で父を殺すために『武器』を作ることにした。しかし、十歳ほどの子どもが作れるものなんてたかが知れている――しかし、彼女は普通ではなかった。

 ようやく自分の手がうっすらと見えるほどの暗がりで、月ノ宮 澪は水を掬うように掌を重ねた。それから、意識を集中させる。手に水が集まり、満ちて、氷となるイメージ――すると、お椀のような手に、小さな氷が出来ていた。

(……やっぱり、出来た)

いつの頃からか月ノ宮 澪は覚えてないが、彼女は自分の意思で氷を作ることが出来た。

(――これを何度も練習すればいつか、大きい氷も出来るはずだ――そうすれば、あいつを殺す『武器』になる)


 そうして十日が過ぎた頃――月ノ宮 澪は自分の手に余るほどの大きさで、しかも先端が鋭利に尖った氷柱を作れるだけになっていた。

 これは今日まで、月ノ宮 澪があの薄暗い押し入れの中で、父への殺意を燃料に研鑽を続けた結果だった。しかし、彼女の目的は、『武器』を作って終わりではなかった。

 その日もお母さんはろくでなしの父に殴られ、パートで必死に稼いできたお金を巻き上げられていた。この時の月ノ宮 澪は幼かったから、実父の事情を詳しく把握していなかった。

 父はいわゆるエリートとしての人生を歩んでいた。良い大学に出て、良い大企業に就職――彼女が生まれてから五年は誰もが羨む順風満帆の人生だった。それが転落したのは、上司がしでかした失敗の尻拭いで頚になった時からだった。

 大企業から放逐されたばかりの頃は、まだ彼なりに愛した妻と子どもを食わせるために頑張っていた。しかし、エリート街道を歩いてきたプライドからか、仕事は長続きせず、気が付けばおんぼろアパートの一室を借りて、その日暮らしへ。そして、当の本人はそんな現実を受け入れられずに酒に逃げる日々。

 子どもからすれば、そんなこと関係ない――と言いたくなる。だから、月ノ宮 澪は行動を起こすことにした。

 深夜、いわゆる丑三つ時。子どもが起きていられると思えない時間に、押し入れからゆっくりと、音を立てずに這い出た月ノ宮 澪はその手に氷柱を抱えていた。

 寝室を見れば父が適当にひいた布団に大の字で寝そべり、殴られていたお母さんは居間で蹲っていた。それを確認した彼女は恐る恐る、眠っている父の顔を覗いた。穏やかで、怒ったときしか覚えていなかった彼女には、とても新鮮だった。

 氷柱を振り上げる――心は冷たく固まり、身体は必要なことをすべき機械となったようだった。

 月ノ宮 澪はそのまま、実父の首目掛けて、氷柱を落とした。


 10月25日、午前十時――短いぼさぼさの髪を適当に逆なでした、反社会的な何かを彷彿とさせるスーツ姿の男性――狩野カズヤ(かりのかずや)は都内の警察署にやってきていた。

「どうも、狩野さん」署の入り口には自分を呼び出した、最近になってお腹周りが気になりだした妙齢の刑事が待っていた。彼は「――さ、こちらです」と言い、そそくさと署内に狩野カズヤを誘導した。

「それで刑事さん――電話でも少し聞かせてもらったが、改めて詳しい説明をしてほしいんだが」

 二人で廊下を歩きながら、狩野カズヤからの質問に刑事は「勿論です」と答えると説明を始めた。

「昨晩2時44分、『自宅で父を殺害しました』という通報が入りました。時間も深夜でしかも、電話してきたのが若い女性のようでしたから、警察はイタズラではないかと疑っていました。それでも、通報が入ったからは現場に向かいました。電話で指定された住所はぼろい安アパートの一室で、中に入ると居間には血塗れの小学生の女の子と、気絶して倒れている母親らしき女性がいました。その子の案内で寝室に向かうと、父親らしき男性が氷柱のようなもので首を貫かれ、絶命していました。そして、少女は警察に向かって『自分が殺しました。どうぞ、捕まえてください』と手を差し出したそうです」

 にわかには信じられない話ではある。しかし、隣を歩く刑事がここまで狩野カズヤを呼び出して、冗談を話すなんて小粋なことはしないことも解っていた。

 やがて二人は件の少女がいる取調室に到着した。しかし、刑事が狩野カズヤを招き入れたのは、その取調室ではなく、室内の様子が見られるようマジックミラーが設置された隣の部屋だった。

 部屋に入った狩野カズヤが見たのは、長い黒髪を携えた少女が、凛とした姿で婦警からの質問に答えているところだった。

「――それで月ノ宮 澪ちゃん、もう一度聞くけど……お父さんを殺害したのは、お母さんじゃないのね」

「はい、違います。私自身が父を殺しました」

 正気であることを疑いたくなるような光景だった。十歳前後であろう女の子が父を殺したことを供述しているなんて。

「じゃあ、聞くけど、どうしてお父さんを殺そうと思ったのかしら?」

「それは、お母さんが父に殺されると思ったからです。お母さんを助けるには、父を殺す必要があると考えました」

 この発言に対し、狩野カズヤは横に立っていた刑事に説明を求めた。

「そのままにしておく訳にもいかないんで、気絶した母親を病院に運んだら、体中に痣があるのが見つかりました。恐らく、旦那から日常的に暴力をふるわれていたんだと思います」

「彼女が父を殺す動機は十分だった――ということか」そう言うと狩野カズヤは改めて、月ノ宮 澪と呼ばれている少女を見つめた。

「お父さんを殺害するときに使われたあのつらら、どこで手に入れたのかしら?」

「あれは自分で作りました」もう何度も説明しているからか、月ノ宮 澪は慣れた様子で右手を差し出すと、「ほら、こうやって私は氷を作ることが出来ます。これであの氷柱を作りました」


 こうして質問を終えた婦警は「ちょっと待っていてね」と言って取調室から出ていった。その後、婦警は狩野カズヤと刑事のいる別室を訪ね、刑事に取調室の内容を書いた調書を渡した。

「それで狩野さん――あの子、どうするんですか?」

「そうだな……」狩野カズヤは彼女のような『氷を作る力』――つまりは『特別な力』を持った人間を管理し、保護することを仕事としていた。「すこし、彼女と話してもいいか?」

 刑事からの了承を得た狩野カズヤは、月ノ宮 澪のいる取調室へと入った。

「初めまして、お嬢さん」気障な挨拶を貰ったが、月ノ宮 澪は「初めまして」と特に表情を変える事なく、普通に挨拶を返した。

(さっきも思ったが……随分と子どもらしくないな)

 それは月ノ宮 澪が育てられた家庭環境からなのか、それとも生来のものなのか、狩野カズヤは判断しかねた。

「さて、率直に話そうか。俺の名前は狩野カズヤ、君の処分を警察から一任されたんだが――月ノ宮 澪、君は自分がどうなるべきだと考えている?」

 これは実に意地悪な質問だった。

 狩野カズヤは『自分に処分の決定権がある』とわざわざ言いながら、月ノ宮 澪にさも、選択権があるような質問を投げかけたのだ。そんなことする意図は――

「自分は人を殺しました。その罪を償うべきだと思います」

 月ノ宮 澪という少女を量るためだった。

(普通、こんな質問をされたら減刑を望んで俺に媚びを売るとか、あるいは自分がしてほしくないことにならないよう、そのことを質問するんだが――この子、どうやら『自分』というもんが、どうでもいいのかもしれないな)

「具体的には、どうすべきだと?」

「死刑、になるのではないですか?」

 そこはやはり、小学生というべきか、司法や裁判をよく理解していないようだった。

「申し訳ないが君の思い通りにはならないよ。今の日本じゃ、君に刑事責任は問われない。まぁ、お母さんとは別のところで暮らしてもらうことになるだろう」

「そうですか――」この答えに月ノ宮 澪は特段、落胆を見せなかった。

「その上で俺は君に提案がある」そう言うと狩野カズヤは、右手を彼女に見せつける様に差し出し、人差し指と中指を立てた。「ひとつはさっき言ったように、別のところ――正確には施設に入ってもらう。勿論、大人に監視され、友達とも遊べないと思ってくれ」

(まぁ、こんな子どもに、友達なんているのか疑問だがね)

「もう一つは――俺の仕事を手伝って貰うことだ」

 狩野カズヤの提案を聞いた月ノ宮 澪は器用に、怪訝そうに眉を顰めた。

「人殺しの私に、出来る事なんてあるんですか?」

「そんなことは正直、どうでもいいことで、重要じゃない。大事なのは君がもつ『特別な力』だ」狩野カズヤが意地悪な笑みを作るが、まるで恫喝でもしているようだった。「俺は君のような人間を管理し、保護する事が仕事でね――月ノ宮 澪、君の『特別な力』で、同じような人を捕まえてほしいのさ」

 そんな狩野カズヤの顔にも、月ノ宮 澪は怯むことはなかったように見えた。

 しばらくの間――二人の間に沈黙が流れた。そうして月ノ宮 澪が、ようやく口を開いた。

「わかりました。私は貴方の手伝いをします」

 これを言葉にした月ノ宮 澪の瞳は、特に冷たい色をしていた。

 狩野カズヤは改めて、彼女を見つめた。今日、幾度も感じたことだった。

(母を守るためとは言え、父を殺した少女か――)

 この選択が、正しいのか狩野カズヤにはわからなかった。しかし、彼はこの冷たい目をした人形のような少女を、放ってはおけなかった。

「そうか、これからよろしく頼む――月ノ宮 澪」

 狩野カズヤは自然と、手を差し出した。しかし、月ノ宮 澪はそれがどんな意味なのかわからなかったのか、きょとんとして目を丸めていた。


 あれから狩野カズヤは例の刑事と話をつけるとさっそく、月ノ宮 澪を警察署から連れ出した。

 外は秋がもうすぐ終わるからか、すこし肌寒い風が吹いていた。

「あの――すみませんが」タクシーを待っている間、これまで話しかけてこなかった月ノ宮 澪が初めて、自分からしゃべりかけてきた。

「うん、どうした?」狩野カズヤは軽い気持ちでそう答えたが、「これから、私のお母さんはどうなりますか?」という質問を聞いて、喋り方を間違えたと反省した。

「そうだな……しばらく入院することになるだろうな。なんだ、お見舞いでも行くつもりなのか?」

 ――だったら、入院先の病院を教えようか、と狩野カズヤは続けようとしたが、「いいえ、お母さんに会うつもりはありません」と遮られた。

「それと狩野カズヤさん、お母さんが私の所為でなにか、罪に問われることはありますか?」

 この質問に狩野カズヤは、彼女とお母さんの関係が戸籍上は断たれたことになる。そうなるとこの殺人事件はなかったことになり、母親の監督責任もなくなる。しかし、そんなところまで説明するのはさすがに、狩野カズヤは気が引けた。

「いいや、そんなことはないよ」

「そうですか……なら、いいです」

 そう言うと月ノ宮 澪はそのまま黙って、狩野カズヤの横でタクシーを待った。

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