第一章 ■エルとの遠出
神聖ヴェルメルデ帝国、帝都ダルムバッハ。
皇帝の直轄領、人口二百万人の大都市。
鉄と石と権力の匂いが混じり合い、遠くからでもその息吹が伝わってくる巨大な器。
丘の上から眺めれば、緋色の屋根がうねるように連なり、無数の家々が地平線の端まで波打っている。
その隙間を縫うように、白い石畳の歩道が血管のように張り巡らされ、車輪で削られた轍が深く刻まれた道路には、馬車と人々が途切れることなく行き交う。
まるで巨大な生き物の体内を覗き込むような光景。
かつて村から出るたびに圧倒されてきた景色も、いまはソラの「生活圏」になっている。だが今日は少し違う。
隣に、エルがいる。
汽車で帝都を訪れる者をまず迎えるのは、威風堂々たるトレイン・シェッド。
何十本ものターミナルを覆い尽くす、煤けた鉄骨と曇りガラスの天蓋。幾重にも連なるアーチの骨組みが天空を支え、そこに嵌め込まれた無数のガラス窓は煤に曇りながらも白い陽光を受けて鈍く煌めく。
天井近くでは巨大な換気管が吐息のように蒸気を噴き、白い霧が薄く漂う。圧搾空気の音が至る所で弾け、機関車のシリンダーが唸りを上げる。
たったいま発射する汽車の汽笛が、鋼鉄の梁を震わせながら腹の底に響き、構内を満たす。反対側の線路では、たったいま到着したばかりの車両が耳をつんざくブレーキ音を立て、鉄と鉄が軋む甲高い悲鳴を上げる。
さらに奥からは、家畜をしこたま積んだ貨物列車からの鳴き声が、まるで壁面を這うように反響して届く。馬のいななき、羊の短い鳴き声、羽ばたく音──それらが天井の高みに溶けて混じり合い、都市の獣道のような生命感を撒き散らす。
通路では、革鞄を担いだ商人たちが怒鳴り合い、荷車を押す労働者が軋む車輪を引きずりながら人波をかき分ける。油で濡れた鉄の匂いと、石炭の煤煙、それに長旅の人間の汗が混じり合い、ひとつの重い空気となって鼻腔を満たす。
子どもの甲高い笑い声と、老婦人の叱責、笛の短い合図、遠くで蒸気弁が弾ける音──無数の音が混線しながらも、都市の律動として鳴り響いていた。
まるで神殿のような威容でありながら、生き物のような息遣いを持つ巨大な機構。鉄道という文明の象徴が、全身を軋ませ、蒸気を吐きながら、旅人を飲み込んで吐き出す。
その物々しい屋根の下で、エルは立ち止まり、上を見上げた。
淡い光を浴びた、赤みを帯びる黒髪が短く揺れる。
目の奥に驚きが宿り、それを隠そうとするように唇を結ぶ。
汽車の旅を終えたばかりの彼女の姿は、異邦の者が門をくぐったばかりの巡礼者のようにも見えた。
その視線を見て、ソラは奇妙な誇らしさを覚えた。
自分が造ったわけでも、所有しているわけでもない。
それでも、ここは自分の都市だ。自分の半分が暮らす場所だ。
エルに見せるための舞台のように、帝都の景色が広がっているのだと思った。
まるで我が家を案内するような、場違いな自負心が胸を満たした。
降車ホームを抜けると、帝都の鼓動が一気に押し寄せた。
鉄とガラスの大天蓋の下で、数えきれない人々が動き続けている。
軍服の兵士、旅装の商人、修道服の巡礼者、荷物を担ぐ労働者。
革靴の踵が石床を打つ乾いた音、呼び込みの声、汽笛の名残が混じり合い、
ターミナルは巨大な臓腑のようにざわめいている。
蒸気が漂い、油と香の混じった匂いが鼻腔を満たす。
頭上では鉄骨が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、その隙間から夏の白光が降り注いでいた。
エルは小柄な身体で人の波に埋もれながら、しばし足を止めた。
視線は天蓋の奥へと伸び、群衆のざわめきさえ遠ざけるほど静かだった。
修道服の裾が流れる人々の気配に合わせて微かに揺れ、短く切られた赤黒い髪が頭上の光を柔らかく返していた。
外の世界を受け止めきれずに立ち尽くす巡礼者のように見えた。
ソラは彼女の隣に立ち、その視線を追った。
帝都の上空には、淡く輝く巨大な聖紋があった。
空そのものに刻まれたような光の図形が、都市全体を覆う天蓋のごとく浮かび、その中心には光輪がかかっている。
信仰の象徴。
神の力がこの都市を見下ろしている証。
ソラは目を細めた。
半年に一度見る光景なのに、胸の奥がひりつく。
あの光が、自分たちの小さな日常の外にある巨大な秩序を突きつけてくるようだった。
エルは視線を落とし、深く息を吐いた。
その仕草には畏れとも諦めともつかぬ影が宿っていて、ソラは言葉を失った。
二人はターミナルの重い扉を押し開け、街へ出る。
まぶしい白光の下、石畳の広い大通りが一直線に伸び、緋色の屋根と尖塔が林立する。
馬車の車輪が轍を削り、鐘の音が遠くで響き、人々の声が渦を巻く。
帝都ダルムバッハ──それはただの都市ではなく、神の象徴と共に呼吸する巨大な機構だった。
──退魔戦勝記念日が近い。
駅前へ向かう通路では、すでに準備に追われる人々が慌ただしく行き交っている。行進のために磨き上げられた楽隊の楽器が輝き、商人たちは記念品や旗を並べ、子ども向けの小旗や勲章の模造品を売り始めていた。
広場では仮設の観覧台が組み上げられ、記念演説用の壇が布で覆われている。
市民たちはまだ来ぬ祝祭を前にざわめき、戦勝を讃える掲示が街灯ごとに掲げられていた。
本番は数日先──だが帝都はすでに祭の胎動に包まれつつあった。
ソラが案内したのは、帝都の中心にそびえる中央教会だった。
連れて行かれた、というよりも、そうせざるを得なかった。
「ダルムバッハで一番大きな教会に行かなくちゃいけない」──エルはそう言った。
彼女の声音には、説明の余地を拒む強さがあった。
道すがら、帝都は退魔戦勝記念日の胎動に満ちていた。通り沿いにはすでに記念市の出店が並び、焼き菓子の甘い匂いや油で揚げた料理の香りが、蒸気混じりの空気に溶けて漂ってくる。
商人たちは帝都章入りの記念品や小旗を掲げ、子どもたちは模造勲章を胸に貼り付けて駆け回っていた。
「見てみなよ、ほらあれ、去年より出店が多いぞ」ソラは時折足を止め、案内がてら声をかける。
「おー」
「……ふーん」
エルは一応視線を向けるが、それ以上の関心は示さない。
甘い匂いも、行き交う市民の熱気も、彼女にとっては外界の景色にすぎないようだった。
その横顔には、目の前の祭りとは隔絶された思案の影があった。
街路を抜け、大通りを進み、尖塔が天を突く建物の前に立つ。
帝都の心臓部に鎮座するその教会は、石造りの壁に荘厳な聖紋を刻み、天蓋を貫く光輪の影を落としていた。
巨大な扉の前に立ったエルは、その圧倒的な威容を前にしてもなお、何かを悟られまいとするように表情を消していた。
彼女は終始落ち着かず、歩きながらも両手を胸の前で組み、親指をくるくると回していた。
その細やかな動きは、無言のまま吐き出される焦燥のしるしだった。
ソラはその仕草を視界の端に捉えながら、沈黙に耐えきれず声をかけた。
「……ダルムバッハで、何の用があるんだ?」
「……」
「村で、何かあったのか?」
答えは曖昧で、短かった。
どの問いも彼女の外殻に弾かれ、深く届くことはなかった。
話題はつながらず、言葉の橋はすぐに崩れ落ちる。
自分が聞き下手なのか、それとも彼女が話すことを拒んでいるのか──ソラは分からなかった。
ただ、その間隙を埋めるように教会の鐘が高らかに響き、二人の沈黙をさらに際立たせた。
道中、ダルムバッハでの学校生活の話でもしてみようか──そんな考えが一瞬、頭をよぎった。
寮の出来事、授業での失敗談、士官候補生としての日常。
けれど、エルが興味を持って耳を傾けてくれるか、自信が持てなかった。
それに、彼女はどこか遠くを見ていた。
道すがらも視線は街路の石畳ではなく、もっと別の、見えない場所に向けられているようだった。
結局、ソラは何も話せなかった。
エルと遠出ができると知ったときの昂揚は、もうどこかに消えていた。
並んで歩いているのに、彼女とのあいだに埋めがたい距離がある。
気を引こうとするどんな言葉も浮かばず、胸の奥に沈んでいくばかりだ。
帝都の賑わいは、いつもなら心を奮い立たせるはずのものだった。
露店の喧騒、馬車の車輪が石畳を削る音、白い聖紋の影が街路に落ちる様。
それらは、ただ胸を通り過ぎるだけの景色に変わっていた。
人々のざわめきは音ではなく膜のように響き、ソラを外界から隔てるだけだった。
エルはソラの横をすり抜けるように歩き、近くにいたシスターを捕まえて口を開いた。
「──キワナグランです。継子のことで来ました。共連れです」
その声音には抑揚がなかった。
淡々としていて、だが異様なほど張りつめている。
ソラは理解できなかった。
共連れ──。
そして、わざわざ醜名である“キワナグラン”を名乗ったこと。
何か事務的な手続きのためなのか、それとも別の理由か。
ただ一つだけ確かなのは、彼女が自らその名を口にするのをほとんど見たことがないという事実だった。
エルの名は、エルヒアノス・キワナグラン・プロタゴラス。
“プロタゴラス”は父の姓で、より安全で平凡な響きを持つ。
だが“キワナグラン”は違う。
何千年ものあいだ母系に連なり、血のように受け継がれてきた古い姓。
その名は常に、ある醜聞と宿命とともに囁かれる。
口にした瞬間、まるで暗い井戸の底から冷たい空気が吹き上がるような、周囲の空気が一段沈むのをソラは感じた。
ソラは無言で立ち尽くした。
その言葉が持つ重みを測ることもできず、ただその場で彼女の背を見守るしかなかった。
エルの赤黒い髪が淡い光を反射し、その影が白い石壁に揺れていた。
エルが声をかけたシスターは、事務的な微笑みを浮かべながら頷き、すぐさま別のシスターを呼び寄せた。
二人はその案内に従い、奥へと進む。
磨かれた石の床を足音が律動のように刻み、そのたびに周囲の静けさが深まっていくようだった。
麗美な奥の部屋で彼らを迎えたのは、別のシスターだった。
彼女は目の奥まで見透かすような視線を投げ、再び取り次ぐ。
「──ああ、継子の祈りね。いいわ。ついていらっしゃい」
その言葉は柔らかだったが、抗いがたいものがあった。
まるですでに全てが決まっているかのように、拒否の余地を与えない響きだった。
ソラは従うしかなかった。
帝都での生活には慣れているはずだった。
だが、この場所に足を踏み入れてからというもの、どこか胸が詰まる。
息苦しいほどの気高さ。
普段、神のことなど考えもしない自分が、なぜかその名を意識せずにはいられなくなる。
奥へ進むごとに、その感覚は濃くなっていった。
そこは、ただ大きいという言葉では足りない空間だった。
天を衝くほどの高さを誇る白いドームが、頭上で世界そのものの天蓋のように広がっている。
コンクリートの地肌は生々しいまでに滑らかで、その均質な白さを破るように、傘の骨を思わせる紡錘形の窓が連なり、そこから青白い日光が幾筋も差し込んでいた。
光は冷たく澄んでいるのに、触れれば焼かれそうなほど強く、その輝きはドームを支える巨大な石柱の一本一本を際立たせ、床に長大な影を落としている。
石柱はまるで古の巨人のように無言でそこに立ち、壁面とともに無数の文様や浮彫像で覆い尽くされていた。
植物の蔦が絡まるかのような曲線、武器を掲げる兵士の群像、見たこともない神秘の獣の姿。
それらは日光を浴び、白亜の輝きと深い陰影を交互に映し出し、生きているかのように空間そのものを呼吸させていた。
「──うわ……まだこんな場所があったんだ、帝都には……」
思わずソラの口から声が漏れた。
帝都慣れしているはずの自分が感嘆するほどの光景。
この都市がどれほど多層の歴史を抱えているかを、今さら思い知らされる。
だが、エルは違った。
その圧倒的な荘厳に目もくれず、ただ一点、真正面を見据えている。
視線の先をたどると、ドームの真下、広間の中心に一際目立つ石碑が建てられていた。
近寄らずとも読み取れるほど深く刻まれた文字。
──「エリとユルム、ここに眠る」。
その名が何を意味するか、考えるまでもなかった。
エリとユルム──この世界を創り、最初に星を歩んだとされる創星神の名。
エリは地母神、ユルムは性愛神。孤児院で教え込まれた、誰もが知る神話の基礎だ。
その文字を前にして、エルの肩越しの空気がわずかに張り詰めるのをソラは感じた。
光に満ちたこの空間で、彼女だけがそこに縫い止められた影のように立ち尽くしているように見えた。
──ああ、そうか。
ソラはようやく気づいた。
エルはユルムの名を見ているのだ。
まるで、刻まれたその一文字一文字が、千年を経てなお生々しい傷口のように彼女を呼び寄せているかのようだった。
キワナグランの姓が醜名となったのは、過去の出来事が理由だ。
性愛神ユルムをめぐる、血と暴力と背徳にまみれた歴史。
その事件によって、キワナグランという名は帝国全土で汚名と化し、帝都でも、辺境の寒村でも、冷たい視線を受けることになった。
エルがいま見つめているのは、ただの神の名ではない。
その名は彼女の一族を縛りつけ、奴隷という立場にまで引きずり落とした呪詛のようなものだ。
そして、その名を自分から名乗るという行為がどれほどの痛みを伴うものか、ソラはようやく理解した。
エルは動かない。
祈るでもなく、跪くでもなく、ただ立ち尽くしている。
まるで何百年もそこに立っていた彫像のように、静かで、脆く、触れれば崩れてしまいそうだった。
その横顔を見ていると、ソラの胸にも重いものが沈殿していく。
言葉をかけようとしても、何を言えばいいか分からない。
声をかけるということが、今の彼女を壊してしまうことのように思えて、ただその場に立ち尽くすしかなかった。
「エル……平気?」
──声は届いた。けれど、その先の動作は宙で止まった。ほんの数サンチ。肩に添えるつもりだった手が、空気を撫でるだけで終わる。自分でも驚くほどに、臆病な仕草だった。
胸の奥で、別の声がした──それは彼女を気遣う手ではなく、触れたいと願う手になる、と。指先に宿った生々しい情動が、ただの慰めの所作を汚してしまう。だから止めた。止めるしかなかった。
結果、エルには何も伝わらない。彼女の肩はただ、無防備なままそこにある。寄り添いたいと思っていたのに、その一瞬の逡巡がすべてを台無しにした。情けなさがじわりと頬を熱くする。──きっと彼女は、こちらの迷いを知らない。けれど、もし知っていたとしても、何も言わないだろう。わずかな距離が、永遠の隔たりのように思えた。
「──大丈夫」
──エルの声は、まるで無駄な感情の起伏をそぎ落とした刃物のように淡々としていた。だが、その冷ややかな調子の奥に、彼女が自分の内側を固く閉ざし、揺るがぬものとして祈りの場に身を据えていることが伝わってくる。短く切りそろえた赤黒い髪が首の動きに合わせて微かに揺れ、その表情には恐れも安堵も浮かばず、ただ「必要だからそうする」という諦観にも似た決意だけが刻まれているように見えた。ソラはその横顔を見つめながら、空中で止まった自分の手の居場所を失い、結局は降ろすことしかできなかった。
──「さあ、では私の後ろにひざまずいてください。とりあえずあなたも一緒にね」
シスターの言葉は、儀式の段取りを粛々と告げるものにすぎなかったが、ソラの耳にはそれが一種の救いのように響いた。場の緊張を分かち合うというよりも、ただ傍観者であればいいという立場が与えられたことが、心の奥底に安堵をもたらす。彼女の言う「とりあえず」という一言は、門外漢であるソラがこの場で果たすべき役割の軽さを示すと同時に、自分が踏み込めない領域を明確に示す境界線でもあった。
──「では私が祈りを捧げます。その祈りを頭の中で復唱して、結句だけ私のあとに続けて唱えてくださいね」
そう続けて告げたシスターは、裾を揺らし、エルの隣に静かにひざまずいた。白い修道服の布が石床に擦れ、乾いた音を立てる。光が高窓から差し込み、彼女の背に淡い輪郭を描く。それは神の存在を背負う者としての姿だった。ソラもその背に倣うようにひざを折り、石床の冷たさを両足で受け止めた。だが、その冷たさ以上に、自分がいま触れようとしているのがエルの過去と宿命という深い淵であることを、言葉にならない直感として理解した。
この場の空気は、都市の雑踏とも学校の教練場とも違う。呼吸のひとつさえ慎重にしなければ、目の前の光景を壊してしまうかのような緊張があった。エルの背中がわずかに動き、その細い肩甲骨の輪郭が布越しに見えた瞬間、ソラは、触れられなかった肩のぬくもりを再び強烈に意識し、自分がその距離を越えられないことを痛感した。
シスターの祈りの言葉が大空間に響き始める。
一語一句が高い天井に吸い込まれ、石柱の隙間を渡って、やがて静けさと混じり合う。
ソラは言葉を頭の中で追うだけで精一杯だった。口の中で形を作りながら、声には出さない。エルの背はわずかに前に傾き、組んだ指先が白くなるほど力が入っている。
「全能にして我らが祖たる主よ。
ここにおわす我らが主、エリとユルムよ。分けて、主、ユルムよ。
ここにある、あなたの罰を負う者、
キワナグランの請願に耳をお寄せください──」
祈りの残響がドームの奥で輪を描いて消えていく。
それが終わるたびに、沈黙の重みがさらに増していくようだった。
「──ここにあるはこれより先、あなたの命に従い生を全うする者です。
これにあたりどうか一つ、お聞き届けください。
ここにあるはあなたの罰を負い、これまで贖罪のために生きた者です。
そして生涯、あなたの罰を負う者です。
しかしどうか、これを来たる赤子にも与え給うことはお赦しください。
あなたの慈悲によって、これをお赦しください。
あなたの聖なる戒めを守り、御心に適うよう努め続けます。
どうか来たる赤子にあなたの道をお示しください。
──祝福をもち、代行せよ。ノーチス」
「「祝福をもち、代行せよ。ノーチス」」
──エルとソラの声が、結句だけを発し、反響して返ってくる。……やがて完全な静寂が訪れた。
聞いたことのない祈りだった。
それも、教会で生まれ育った孤児である自分でさえ耳にしたことのない言葉。神学の教えの中で遠ざけられ、名を口にすることすら避けられてきた一族のための祈り。──そんなものが存在するのかと、まず驚かされた。けれど、耳がその響きを覚える前に、胸が先に理解してしまう。ああ、そうか。これはエルのための祈りであり、エルの子のための祈りだ。
通りで、エルがこの遠出の目的を言い淀むわけだ。
口にすれば、それは自らの血が負う呪いを宣言することになる。キワナグランの血を継ぐ者として生まれるとはどういうことなのか──それを自分に説明するというのは、きっと喉を裂かれるような苦しみだろうと想像できた。生まれながらに背負わされた宿命を、他人の目の前で改めて言葉にする痛み。自分には想像しきれない重さが、エルの肩にはいつも載っていたのだ。
だからこそ、彼女は自分を連れてきたのだろうか。
ソラはふとそう思った。この祈りを見届けても、きっと自分はエルを悪く思わない。そんな確信がある。いや、彼女もそれを分かっていたのかもしれない。共連れ──ただの供ではなく、彼女の傷に触れても、拒絶も否定もしない者として、ここにいる。そういう存在として、自分を選んでくれたのだろう。
それが正しいのかは分からない。だが、エルの小さな背中を見つめながら、そう思わずにはいられなかった。
──エルは俺を信じてくれているんだ。
その思いが胸に差し込んだとき、内側からじんわりと温かいものが広がる。まるで、これまで遠くにあったはずの彼女の心が、不意に自分の掌のすぐそばに置かれたかのような錯覚。いや、錯覚であってもいい。エルが自分をここまで必要としてくれた、その事実だけで、十分に価値があると思えた。
──結婚を考えてもいい。
あの言葉が耳の奥で何度もリフレインする。考えてもいい──それは受け入れるという意味なのか、それともただの猶予なのか。希望と不安の狭間で、言葉の輪郭はぼやけていく。もし、あの一言が自分を試すための釣り糸なら。もし、彼女がまだ結論を出していないのだとしたら。そう思うと、すがるような気持ちでそこに意味を見出そうとする自分が、ひどく浅ましく思えた。
それでも、やはり嬉しかった。結婚という言葉を、彼女が自分との間で口にしたという事実が。
早計だ──そうわかっていても、胸の奥の希望は抑えがたく、脈打つように広がっていく。
エルは跪いたまま、目線だけで石碑を射抜くように見つめていた。手は組まれているが、指先は小さく震え、互いの爪が白く食い込むほどに強く押し合わされている。唇は閉ざされているのに、喉元がわずかに上下して、抑えた呼吸が胸の奥で波打っているのが見て取れる。旅の始まりからここに至るまで、彼女がすべてを知っていたのだと、その硬い横顔が語っている。だが知っているからこそ、なおもここに立たねばならないという諦念が、その姿勢の端々にこびりついている。視線は逸らさない。けれどまぶたは半分落ち、光を遮る影がまつげの下に溜まる。修道服の裾がわずかに揺れ、そこに仕込まれた足輪の存在を思い起こさせる。逃げ場のない無慈悲な制度に縫いとめられた少女が、せめてもの意志のかけらとして「誰と共にいるか」を選び取った──その痕跡が、震える指先と張り詰めたうなじに宿っていた。
「お祈りはこれで終わりです。次は──あそこにいるシスターについていってください」
響き渡ったその声には、儀式の終わりを告げるというよりも、決められた道の先へ送り出すための事務的な冷ややかさがあった。ソラはふと、祈りを導いたこのシスターがこの場での役割だけを担う存在なのだと気づく。ドームの中心にあっても微動だにせず、まるで空間の一部であるかのような立ち居振る舞い。祈りのみを司り、人の営みを神の前に置く媒介者。その佇まいは威厳というより、すでに人ではないものに近かった。見た目の年齢は四十を超えているだろうか。だが白銀の縁取りの施されたヴェールが示すとおり、位の高いシスターであることは素人のソラにもわかった。
ソラとエルは、再び足音をそろえてドームの端へ向かう。沈黙を破るものは、二人の靴底が冷たい石床を踏むたびに生まれる硬質な反響音だけ。広大な空間は、歩くたびにその小さな音を大きく増幅し、二人を試されるような心地にさせる。入口近くには、年若いシスターが一人、背筋を伸ばして立っていた。彼女は二人が近づくと無言で頭を垂れ、手元の書類を取り出してエルに手渡す。その束には印章がいくつも押され、赤と黒のインクが層を成している。誰が何を確認したのかが、一目でわかるように。
「こちらへどうぞ」
若いシスターは簡潔にそう告げ、白い袖を滑らかに動かして道を示す。その仕草は、言葉よりもなお雄弁に、この先へ進むことが当然であると告げていた。視線だけで二人を促し、足音すら感じさせぬほどに音もなく歩き出す。彼女の歩みは不思議なほど均一で、迷うことも、立ち止まることも許さないかのような一定のリズムを刻んでいた。ソラはその背を追いながら、隣のエルが一言も発さずに書類を抱えて前を見据えているのを横目で見る。
エルは歩きながら、紙束をそっと開き、並ぶ文字を視線でなぞってしばらく確認すると、また慎重に折り畳み、両手の人差し指と親指で挟み持った。その仕草には、書類の重みがただの紙のそれではないことを告げる沈黙の響きがあった。足取りはぎこちなく、しかし止まることはなく、背筋をぴんと張って進む。その小柄な背に、張り詰めた緊張が目に見えるように宿っているのをソラは感じた。
──どうしたんだ? “次は”ってことは、まだ何かあるのか……。
心の中で問いかけながら、ソラは無意識に息を殺す。大聖堂の奥へと続く回廊は、まるで現実の時間が切り離されてしまったかのように冷ややかで、外界の喧騒も夏の熱気も届かない。石床に映るステンドグラスの淡い光が足元を青や赤に染め、ひとつひとつの歩みが異なる世界を踏みしめている錯覚を与えた。
エルの小さな手は、紙を落とすまいと強く握りしめている。指先がわずかに白くなるほどの力。彼女の視線は一度も逸れず、ただまっすぐに前方を見据えていた。その横顔には言葉にならない決意が影を落とし、長い沈黙が彼女を輪郭ごと覆っているようだった。
──この先に、何が待っているのか。
そう思わせるに十分な、重く張り詰めた空気がそこにはあった。歩みを進めるごとに、その答えに近づいてしまうという不安が、足元から這い上がってくる。
いくつかの中庭を横切り、庭に面した回廊を進む。広大な教会敷地のどこに位置するのかもわからない、奥まった一角へと連れていかれる。回廊の途中で聞こえていた祭壇の祈りの声や鐘の余韻も遠のき、ただ草の匂いと石畳の冷えた空気が残る場所。そこに建つ長屋風の舎屋は、表の壮麗さとは別の顔を持ち、訪れる者を隔絶するような静謐に包まれていた。
通されたのはその一室──窓際にダブルベッドが備えられた、装飾の少ない個室。白い壁と無機質な床板が目立ち、生活感というものが徹底的に排除されたような、ただ「滞在」を目的にした空間だった。僅かに開かれた窓から、庭の葉が揺れる音と、遠くの聖堂の鳩の羽音が聞こえる。
「では、終わりましたらお声がけください。五時間が経ちましたらこちらからまたお伺いします。──よしなに」
案内してきたシスターは、そう簡潔に告げると、深く頭を下げ、音も立てずに扉を閉じて立ち去った。残されたのは、エルとソラ、二人きり。
「え……。これってなんなの? いま五時間って言ってたけど……」
口をついて出た問いに、エルは無言のまま、両手で大事そうに抱えていた書類をソラへ差し出す。その手は固く強張り、差し出す指先まで小さく震えていた。
受け取ると、書類の端がじっとりと手汗で湿っているのがわかる。その湿り気は、エルがここに至るまでどれほどの緊張を抱えていたかを、紙よりも雄弁に物語っていた。
「──見ていいの?」
問いかけると、エルは一度だけ小さく瞬きをし、答えの代わりに目を伏せた。うなずきも拒絶もなく、ただ沈黙が返ってくる。ソラはそれを「肯定」と受け取りながらも、胸の奥に奇妙な重さが落ちるのを感じた。
──五時間。ここで自分たちに何が求められるのか。
部屋の空気が、ゆっくりと現実感を失い、圧し掛かるような時間の存在だけが残る。
その内容はこうだった。
──エルヒアノス・キワナグラン・プロタゴラスは、卑俗ではあるものの皇族の一柱、キワナグラン家の血筋にあり、また二十五歳でその天命は尽きる定めにあるため、十六歳を過ぎたいま、子を設けなければならない。
以降、これを継子創生と呼ぶ。
右の者に共連れとしてこの書を手渡された者、受領者は、これをもって右の者に継子創生のための相手として選ばれたことを意味し、これに応えなければならない。
受領者はこの要請に即応するか、これを延期するか、拒否することができる。
即応する場合、受領者は 「継子創生承諾書」 に記名の上、神印を押すことをもって、右の者に対し、将来に渡り早期の継子創生の努力義務を負う。
即応せずに継子創生を延期する場合、受領者は 「継子創生誓約書」 に記名の上、神印を押すことをもって、右の者の天命が尽きるまでに継子創生を実現する努力義務を負う。
拒否する場合は、以降、これについて何らの義務も課されない。
ただしその場合、右の者には神聖代行師団による継子創生の手続きが施され、これを実現するを試みられることに留意されること。──
国印まで、押されていた。
──脳が一瞬、意味を拒絶した。まるで現実の輪郭が強制的に塗り替えられたような異物感が、紙の手触りから伝わってくる。国印。つまりこれは単なる通知ではなく、帝国そのものの意志。否応なく従わせるための命令文書だ。
理解はしていた。いや、してしまった。
エルは──皇族として、子を産まねばならない。そしてそのための相手として、ソラが選ばれた。
その選択を拒むこともできる。だが拒否すれば、記されている通り、“神聖代行師団による継子創生の手続きが施され、これを実現する”──。
“手続き”とは、いったい何だ。
事務的な響きに包まれているが、その実、どれほど冷酷な現実が待っているのか。ソラには想像もつかない。ただ一つだけ分かる。エルが、自分以外の誰かによって、機械的に、儀式の一部として、子を産まされるということ。それは現実としてそこにある。
神聖代行師団──。
名を知っている。だが詳しい実態は知らない。修道会を統括し、軍事・政治に介入し、時には皇帝の命を代行する。臣民の間では「影の帝国」とさえ呼ばれる、得体の知れない巨大な存在。その特務は法の外にすら置かれ、噂だけが独り歩きする。冷ややかな神聖の仮面の下で、何が行われているのかを誰も語らない。
“手続き”とは──。
その言葉は無機質な響きで、だからこそ恐ろしい。愛も情もなく、命が扱われるということ。
書類を持つ指先が汗ばみ、紙がわずかに波打つ。心臓が一拍ごとに重く胸を叩いた。
エルは、このすべてを知っていて、ここに来たのか。
その小さな背中にどれほどの決意と諦念が積み重なっているのか。想像すればするほど、胸の奥が締めつけられる。
「え、これ……俺はどうすれば……」
思わず、口を突いて出た。
喉が先に動き、理性が追いつく前に空気が言葉になってしまったような、そんな感覚だった。
──その瞬間、胸の奥が凍りつく。
これは、言ってはならなかった。そう思った。
あとから思い返せばなおさらだ。
いままで、どれほどの熱量を込めてエルに結婚を申し込み続けてきたか。その想いを言葉にし、何度も伝えてきたか。それなのに、この場で「どうしたらいいかわからない」などと口走ることが、どれほど軽く、どれほど裏切りに似て響くだろうか。
ソラが口にしたその一言は、エルの心を深く傷つけたかもしれない。
これまでのソラの本気度が、まるで演技や気まぐれであったかのように疑われても仕方がない。
あの時、エルは──自分のことを、信じてくれていたのだ。皇族としての宿命という重荷を背負い、その上でソラを選び、ここに連れてきた。唯一の共連れとして、自らの未来に関わる重大な決断を託した。
そして、その信頼を、今この一瞬の言葉で踏みにじったのだ。
──まるで、自分が口先だけの人間であることを、自ら証明するかのように。
胸の奥に、言いようのない自己嫌悪が沈殿していく。吐き気のような後悔が、体の奥で膨張していた。
「──私に“子どもをくれたら”結婚してあげる……かも」
うつむきがちに、部屋の隅を見ながら吐き出された言葉は、囁きというより、自分の中に溜め込んだものがひとりでに零れ落ちたようだった。声量は小さく、けれど明瞭に響く。自分自身を鼓舞するような響きもなく、かといって完全な諦めとも違う。重たく均された感情の層を透かして、言葉だけが淡々と抜け出てきた。
歩み寄るその足取りは、迷いを抱えているはずなのに、不思議と定まっていた。迷っていても、立ち止まることは許されないと知っている者の足取りだった。ベッドの前に立ち、視線をそこへ落とす。何かを考えているのではなく、何も考えないようにしているようにも見える。スカートの裾を腿に撫でつけるその仕草は、自分の存在をそこに押し留めるための確認のようで、あるいは自身を落ち着かせるための小さな儀式のようだった。
腰を下ろすと、両手を硬く握り合わせる。指は絡むというより、強く押し当てられ、白い指先がうっすらと紅潮している。その組まれた小さな手が、彼女の心に巣食う緊張と、諦念と、なお消えないささやかな反抗の意志をすべて代弁していた。声にはならない叫びがそこに宿っているようで、ソラには触れられない、触れてはいけない領域を感じさせる。
──これは決して、軽い冗談ではない。
義務として課された言葉を、少女が少女のままに背負うための、精一杯の覚悟のかたちだった。
そこで、ソラの頭の中でこれまでのエルの様子のすべてが、断片からひとつの像として結びついた。
──「“共連れ”になってくれたら、考えてあげてもいいよ」と言った、あのときの曖昧な微笑み。
帝都への遠出の理由を、最後まで言い淀んでいたこと。
ここまでの道のりで、馬車でも汽車でも、まるで心だけが遠いところにあるように上の空でいたこと。
そして、修道服の裾を整えるときにふと漏れた深い呼吸や、親指をくるくると回していた落ち着かない指先──。
すべてが一本の線になった。
エルは初めから、“その”つもりでいたのだ。
この五時間の部屋も、その前に捧げた祈りも、すべてがこの瞬間のためにあったのだと理解してしまったとき、胸の奥に不意に重たいものが沈む。
──じゃあ、俺はそれに応えればいいのか……?
その問いは、自分に向けられたものだった。
返事をする相手は誰でもないのに、背筋がひやりとした。
エルのために選ばれたという誇らしさと、抗いがたい圧力と、情動が渦巻いて足元がふらつきそうになる。
目の前で、両手を組んでじっと座っている少女がいる。
彼女がすべてを受け入れると決めてここにいるのなら──自分は、どうする。
ベッドに腰掛けるエルは、ソラから大きく視線を外しているのに、その細い身体の輪郭からは、この部屋の時間そのものを支配するような気配がにじんでいた。伏せられたまつ毛の下で、わずかに揺れる瞳の影が床を見つめ、握られた両手の指は何度も互いを擦り合わせ、乾いた摩擦音を立てる。呼吸は浅く、一定の間隔で小さく胸元を上下させているが、どこか引き絞ったような苦みを帯びていた。──待っている。口に出さずともそう告げる雰囲気が、この狭い空間を満たしていた。
その沈黙に導かれるように、ソラはエルの右隣に腰を下ろした。視線を合わせず、できるだけ自然な仕草を装いながら、手元の書類をサイドテーブルへとそっと置く。硬い紙が木製の天板に当たる小さな音がやけに大きく響き、自分の存在をこの部屋に刻み込むようで胸がざわついた。
何秒か、何十秒か、それとももっと長い時間か──時計がないのに、その無音の針が肌に刺さるように、息が詰まる時間が過ぎていく。隣にいる少女が、何を考え、何を覚悟しているのか。次に自分が何をすべきか、何を言うべきか。絡みつくような思考が頭の中を駆け巡り、視界の隅でエルの膝がかすかに震えるのが見えたとき、ばふ、と唐突に、エルが腰を倒して仰向けになった。修道服の裾がわずかに広がり、ベッドの白に溶け込む。
帝都までの八時間、硬い座席と絶え間ない揺れに晒された旅路は、まだ幼さの残る身体から力を奪い尽くしていたのだろう。全身が脱力し、もはやベッドに沈み込むただの人形のようにも見えた。
天井を見上げるその瞳は何も映さないかのように遠く、けれども唇だけが、わずかな動きで命じた。
「早く」
囁きとも命令ともつかないその一言が、部屋の重さを決定的にした。
エルは目を閉じていた。睫毛の影が頬に落ち、長い呼吸のたびに微かに震える。両腕は身体の横に放り出され、指先は力を失ったかのように開かれている。その姿は拒絶ではなく、すべてを委ねるという静かな意思の表明のようにも見えた。
ぴったりとした墨色の修道服は、白いシーツの上で異様なまでに鮮明な輪郭を描き出していた。淡く沈む布地が太ももの丸みを伝え、鼠径部へと沈む谷を自然な陰影で縁取る。無防備に横たわる彼女の中心を、その布地はただ覆うだけで、隠そうという意図さえ失っているように思えた。
胸元から腹部にかけて、呼吸に合わせてわずかに上下する柔らかな起伏。胸のふくらみの下、細く引き締まった胴が深く息を飲み、また吐き出している。整ってはいるが、そのリズムはどこか速い。呼吸の速さが、彼女がただ静かに眠っているのではなく、この場において確かに覚醒していることを示していた。
──緊張しているのだろうか。
そう思った瞬間、ソラの胸に重く沈む何かがあった。これまで幾度も見てきたはずの彼女の横顔が、今だけはまるで知らない誰かのものに思えた。
ソラが隣に腰掛けたことで、この部屋の空気に静かで残酷な合意が成立していた。互いに言葉は交わしていない。けれど、その沈黙こそがすべてを告げていた。──“する”。それがここでの役割であり、結末だ。
エルはとうの昔に覚悟を決めていたのだろう。閉じられたまぶたの奥に、拒絶も恐怖もない。あるのは受容。これから訪れるものを知っていて、それでも逃げずにいるという、諦念と決意が同居した静謐な表情だった。
あとはソラが行動するだけだった。目を閉じて待つ彼女が、ほんの一言だけ放った──“早く”。その二文字が、開始の合図として重くのしかかる。始めろ、ということだろう。
だが、何から始めればいい? 頭が真っ白になる。キスをしていいのか? それとも身体に触れるべきか? もし触れるなら、どこから触ればいい? 肩か、手か、それとも──。考えれば考えるほど答えは遠のき、緊張は膨らむばかりだった。
想像では、だいたいこういうときはキスから始まるものだと思っていた。けれど、それは恋人同士がすることだ。ソラとエルは、まだそういう関係ではない。だからこそ、この行為がどういう意味を持つのかを決めかねている自分がいる。
目の前のエルは、ただ待っている。修道服の黒と白のコントラストが、彼女をこの世の人間でないように見せる。意思のない人形のように静かなその姿が、ソラの胸を痛みとも焦燥ともつかない感情で満たしていく。
──これは、儀式なのか。それとも、愛の始まりなのか。
答えはまだ、どちらにも転がっていなかった。
だからソラは、最も無難で、最も自分を保てる選択をした。そっと、エルの右の手のひらに指先を触れさせる。ぴくり、と彼女の指が反応した。触れた瞬間、しっとりとした温度と柔らかさが伝わり、手の小ささにあらためて気づく。親指の付け根に触れると、そこにほんのわずかの弾力があり、痩せた手首を包み込むように握ると、骨の細さが掌に痛いほどわかる。
修道服越しに前腕を撫で、肘から二の腕へと移る。布の下の身体の細さと、その奥にある筋肉の確かさが指先を通じて感じられた。肩に触れたとき、手をどこに持っていくべきか迷う。そこでソラは視線を上げた。
エルの顔がある。
近い。こんなに近くでエルの顔を見たのは初めてだった。触れていた手の感触や呼吸音すら忘れ、深緑の瞳に捕らえられる。光を湛えながらもどこか影を帯びるその瞳は、ガラス越しに底の見えない水面を覗き込むような深さで、ただの美しさ以上のものを宿しているようだった。
──これが、エル。
呆然とした。意識が攫われそうになったその刹那、理性が蘇る。自分がいま何をしているのか、何をしようとしているのかが冷たく戻ってきて、ソラはわずかに息を飲んだ。
──エルがいま立たされている状況は、二十五歳までの残された九年のうちに、否応なく子どもを産まねばならないというものだった。それもただ「いつか」ではなく、なるべく早く、という苛烈な命題として。あまりにも冷徹な制度の下で、彼女の生は目的のための手段へと矮小化され、未来のすべてが予定調和のように固定されてしまっている。おそらく唯一と呼べる選択肢は、その過程で「誰との子を持つか」という、ささやかでありながら決定的な一点──自らがほんのわずかに望みうる相手を選べるかどうか、その裁量だけだろう。
それは果たして自由と呼べるのか。そんな形で与えられる余地に、意味があるのか。自分の身体も、心も、これから生まれる命さえも、自らの手で決定できないという現実が、どれほど残酷で、どれほど人を深い孤独に沈めるか。
──こんなことがあっていいのか。
思考の奥底で誰かが冷たい声で呟き、その一方で、目の前のエルがただ静かに息をしているという事実が、ソラの胸を鋭く刺した。生きた人間としての彼女が、この現実のただ中に立たされているということが、痛いほどに実感を伴って迫ってきた。
──いや、書類にもある通り、確かにエルはキワナグランだ。誰もが畏れと偏見をもって囁く、あの一族の末裔。その証として、彼女の左半身には黒く精緻な幾何菱文──まるでナイフで皮膚に刻まれたかのような鋭い意匠の「ユルムの烙印」が広がっている。孤児院時代、まだ何も知らぬ子どもの無遠慮さで、灌水浴の際にそれを覗いて見てしまった記憶がある。あのときの衝撃──肉体という柔らかな器に、異様なまでの規律と禁忌の線が縫い止められている光景──は今も瞼の裏に焼き付いている。
だが、それも理由の一端に過ぎない。いや、それは表層だ。本質ではない。
──俺は、エルにこんな選ばれ方をしていいのか。
ソラの胸に広がるのは、名誉でも喜びでもない。まるで知らぬまま深い水底へ引きずり込まれるような、抗えない力への畏怖と、自分が彼女の最後の拠り所として呼ばれたのだという重さ。名と血と烙印によって縛られた彼女が、それでも選んだ「一つだけの裁量」のために自分を呼んだのだとしたら──そこに自分は何を返せるのか。その答えが出せず、ただ問いだけが胸の内で膨らんでいく。
一見すれば、これは歓喜すべき出来事だと錯覚してしまう。エルに残されたわずかな自由意志──「自分の望みうる相手との子を持つかどうか」という、たった一つの選択。その果てに選ばれたのが、自分なのだから。だが、胸に膨らむ熱は、祝福というより苦い澱のようだった。
エルはなぜ、自分を選んだのだろう。
──俺がよかったからだ、と、そう思いたい。彼女の心が、自分に少しでも向いていたのだと信じたい。だが、現実はきっと違う。そこに愛情や憧れなどという甘やかな動機はない。ただ、他の誰かよりはまし──その冷徹な比較の結果として、自分が残っただけなのだろう。
そう考えた瞬間、喉の奥がひどく乾いた。名誉でも好意でもない、自分という存在がただ「条件の一つ」として選ばれたという事実。その重さと虚しさが同時に胸を圧迫する。エルが抱えている諦念と反抗のわずかな残響の上で、自分はただ「ましな駒」として置かれている。そう思うと、得体の知れない孤独が、彼女ではなく自分の側から這い上がってくるのを感じた。
ソラは、自分がずっと夢想してきた関係が、こんなにも無機質な制度と、エルの過酷な身の上に寄りかかる形で訪れるとは思ってもみなかった。彼女を愛したいと願ってきたのは確かだが、それはこんな強制された儀礼の中で成されるものではなかったはずだ。だが、思考はすぐに別の直感へと塗り替えられる──「エルを守りたい」。その一念が、胸の奥で鋭い閃光となって走った。
神聖代行師団の“手続き”とは、具体的にどんなものか──ソラには想像すらつかない。だが、そこに一片の人間らしい情緒や優しさが介在しないであろうことだけは分かる。官製の機構が、名も顔も知らぬ誰かが、淡々と執行する“処理”。短い時間であろうと、その間にエルの身と尊厳が他者の手に委ねられる。それが意味する冷酷さは、言葉を超えて心を抉った。
──考えただけで、身の毛が逆立つ。怒りと恐怖と嫌悪が、血液を沸騰させるように混ざり合い、形のない暴風となって内側で渦を巻く。耐えがたい。受け入れられない。この想像だけで、すでに心の奥底に爪を立てられたような痛みが走る。守らなければならない。誰であれ、エルを“そういう目”に遭わせるわけにはいかない──たとえそのために、自分のすべてを投げ出すことになったとしても。
いまこの瞬間、ソラのすぐそばに横たわるエルの存在は、彼の全身に重くのしかかる現実だった。触れれば壊れてしまいそうな、しかし決して誰にも渡してはならないもの。──その感覚が、喉の奥で硬い塊のようにせり上がってくる。あの書類に列挙されていた選択肢──“即応”、“延期”、“拒否”。三つの文字列が脳裏に浮かび、ひとつひとつが胸を圧迫するように重く響く。そして、答えは瞬時に出ていた。“拒否”という選択肢は存在しない。エルを、あの誰とも知れぬ冷たい機構の手に委ねるなど、考えただけで正気を削がれる。
それは愛かもしれないし、独占欲かもしれない。そんな分類に何の意味があるというのか。いまこの瞬間の彼には、どちらであろうと関係がなかった。ただひとつ確かなのは──“拒否”という行為は、エルに望まぬ形で他者と交わることを強いることになるという事実だ。その現実を前に、理屈や倫理が入り込む余地はなかった。自分の中で沸き立つどうしようもない感情──守りたい、奪われたくない、汚されたくない──そのすべてがひとつの結論へと収束していく。彼女を守ること。それだけが、ソラに残された唯一の選択であり、唯一の救いだった。
しかし、エルの瞳を見た瞬間、ソラの胸に冷たい刃が落とされたような思いが走った。あの深緑の瞳の奥にあるのは、意志ではなく、諦めと痛みに染まった強い決意の色──それは自ら選び取ったというよりも、選ばされ続けた者だけが持つ色だった。ここで“即応”を選ぶことが、自分に何を意味するのかを理解する。形の上ではエルの意志を尊重するように見えても、実際には彼女をこの苦境に押し込んでいる制度と同じ側に回ることだ。あの書類の文言の延長線上に、自分という加害の影が伸びる。エルが追い込まれて選んだのが自分であるとしたら、その事実の上に胡坐をかいていいはずがない。
彼女を守りたいと願ってここにいるのに、結局は彼女を追い詰める側に加わってしまうのか──その矛盾がソラを蝕む。こんなやり方で彼女の隣に立つのなら、それは救いでも選択でもなく、ただの共犯だ。エルが置かれた苦境を思えば思うほど、ソラは“即応”の二文字がもたらす重さを振り払うことができなかった。そうだ、あれは彼女を守るための選択肢ではない。彼女をさらに深い檻へ閉じ込める鎖にしかならない。エルを想えば、到底そのようなことはできなかった。
──少なくともいま、俺がするべき選択は“延期”だ。
それは自分のためではない。いまこの瞬間に答えを出せば、エルをさらに追い詰めることになると、嫌でも理解してしまったからだ。けれど、どう伝えればいい? 触れるだけで精一杯なこの状況で、どんな言葉なら彼女を壊さずに済む? 呼吸のたびに胸が軋み、鼓動の音が耳の奥で爆ぜる。
仰向けに横たわるエルの上に、俺は覆いかぶさっていた。ほんのわずかな距離で、彼女の顔がある。白いシーツに墨色の修道服が映え、長い睫毛が震えている。その深緑の瞳が、今度ははっきりと俺を捉え、まるで逃がすまいとするかのように見つめ返してくる。瞳孔の奥で微かに光が揺れ、決意と恐怖、諦念と祈りが複雑に絡み合っているのがわかった。
小さな両手はシーツの上で組まれ、爪が白くなるほど強く握られていた。自分に言い聞かせるように、受け入れるしかないと覚悟を固めているのだろう。だからこそ、俺の口にする一言が、その覚悟を砕くことにもなる。そう思えば、容易な言葉など吐けるはずがなかった。
──エルの瞳が揺れている。
その揺らぎに、俺は完全に捕らわれていた。呼吸の熱が触れ合い、互いのまつ毛がかすかに触れそうな距離。こんなにも近いのに、彼女がどれだけ遠くで孤独を背負ってきたのかがわかってしまう。いまだけは、その孤独を、俺の存在で覆い尽くしてやりたいと思った。
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