『君の牙』第一章ティザー

木村|bitBuyer Project

第一章 ■軍服と修道服

■プロローグ

 夜。孤児院の寝床は藁の匂いが満ちていた。

 眠ろうとして目を閉じたとき、外がふっと明るくなる。

 窓の外で、年下の孤児が遊びで炎の神術を出したのだろう。ぱちぱちと小さな火花が夜を照らす。

 その光を見た瞬間、胸の奥が締めつけられた。

 ──「やっぱりお前は天才だな、エル」

 父の声。笑いながら、頭をぐしゃぐしゃに撫でてくれた感触。

 気づいたときには、嗚咽が漏れていた。

 止めたくても止まらない。

 さらに別の声が蘇る。

 ──「大丈夫、エルは特別だから」

 まだ母が生きていたころ。あのときのあたたかさまで一緒に。

 私は藁布団の中で体を小さく丸める。

 足首で、カチャカチャと足輪が鳴った。

 ──奴隷の象徴。

 あの頃の天才も、特別も、もうどこにもいない。ただの“足輪の女”がここにいるだけだ。

 きっと、私のことを理解できる人なんていない。秘密が重たすぎる。言いたくても言いたいことが多すぎる。それに、神様もきっと赦してくれない。でもいつか、きっと、言わなくても伝わる人に会えると良いな……。


***


 私が十二歳のとき、ソラは十歳だった。

 その二年は、ただの数値ではない。子どもと子ども、その境界線を分ける深い溝だった。


 まだ夢の上で眠っていられる年齢と、もう夢から追い出されて現実を見続けなければならない年齢。

 その違いは、残酷なほど大きい。


 村の朝は冷たかった。

 洗い場の石畳は夜の冷気を溜め込み、桶の水は肌を切るほど冷たい。鐘はまだ鳴らず、教会の影だけが長く伸びていた。私はそこで布を絞りながら、自分が十二歳であることを自覚していた。

 ──ここでは、それが生きることと同じ意味を持つから。


 ソラは違う。

 十歳の彼はまだ夢の中にいた。

 「結婚しよう」と言って笑える無邪気さは、私にはもうなかった。まっすぐな声が、あまりに遠くて、痛くて、羨ましい。


 私と彼の二年の差は、きっと世界の差だった。

 それでも、あのときから物語は始まってしまった。

 十歳の少年と、十二歳の私。

 子どもすぎて、でも確かに本気だった、あの約束から。


■ソラ、10歳・また今度、考えてあげる

 朝の湿気は、まだ私の手の甲に残っている。洗濯桶の水は夜明けよりも冷たく、布を絞る指先は赤くこわばったまま。村の鐘はまだ鳴らない。赤茶けた教会の影の中で、私はいつものように呼吸を整えていた。


 「エル! 聞いて!」


 声が駆けてくる。

 振り向かなくてもわかる。あの子の声は、いつも真っ直ぐで、少しだけ痛い。


 「……なに?」

 「俺、士官学校に行けることになった!」


 言葉が弾けた。

 振り返ると、ソラが息を切らして立っていた。髪は跳ね、足は土で汚れている。軍服じゃない。まだ士官候補生でも、ただの子ども。

 嬉しさが全身からこぼれているのがわかる。私の知らない未来に、一歩踏み出した顔。


 「……士官学校? あの、帝都の?」


 帝都。

 その響きは、ここでは異国のような重さを持つ。私は布を絞りながら問い返した。


 「そう! 帝都基準の神聖力適合テストで、俺、最上位に食い込んだんだって!」


 帝都基準。

 村の子が、帝都で最上位。

 そう言われれば、きっとこの子の胸がどれだけ膨らんでいるか、想像できる。


 「……帝都基準で、最上位?」


 あえて声を平らにした。

 驚きなんて、顔に出すものじゃない。


 「うん! 村の先生もびっくりしてた! 『村の子がここまで出るなんて珍しい』って!」


 胸を張る姿が、少し眩しい。

 でも──眩しいからって、うかつに褒めたりはしない。


 「……ふぅん。なるほどね」


 布を手桶に戻す。

 騒ぐことじゃない。数字が良いだけで、人が変わるわけじゃない。


 「すごいでしょ!」


 目が私を射抜く。

 そう言ってほしいんだね、と伝わる視線。


 「まぁでも、驚くことじゃないかな」


 冷たいように聞こえるかもしれない。でも、これは私の本音だ。


 「えっ?」


 戸惑う声。

 私の言葉が、この子の熱を少しだけ冷やす。


 「私なんて、八歳のときにはグリムハーフェンで“天才”って言われてたよ」


 淡々と告げる。

 誇らしい記憶じゃない。ただの事実。あの街で数字を見せれば、人は簡単に騒いだ。


 「……天才?」


 子どもの声が小さくなる。

 帝都を手にした気分でいたのに、それが世界のすべてじゃないと知った顔。


 「そう。数字が良ければ周囲は騒ぐの。でもね、数字だけじゃ人の価値は変わらないの」


 そのことを、誰よりも私が知っている。

 数値も評価も、私を自由にはしなかった。

 だからこそ言う。

 ──数字だけで浮かれても、何も変わらないの。


 「……なんか、かっこいい……」


 少年はそう言った。

 かっこいい、か。

 その言葉は、私の皮膚を滑るだけで、どこにも届かない。


 かっこいい? 笑ってしまいそうだった。


 「かっこいい? そんなものじゃないよ。現実を知ってるだけ」


 私は答える。

 彼にはきっと伝わらない。けれど、そういう言葉は言っておかなくちゃいけない。

 帝都で、グリムハーフェンで、“天才”だとか言われた子どもの結末を、私は知っているから。


 「でも、やっぱりすごいよ。エルは特別なんだな」


 特別。

 またそれだ。

 何度も聞いてきた。私を縛るための甘い鎖。

 でも、この子の口から出ると、それは少しだけ違って聞こえる。


 「……特別……ねぇ」


 自分で繰り返してみても、何も実感はなかった。

 特別であることが、どんな意味を持つというのだろう。

 私を奴隷から解放するわけでもないのに。


 「そう! だから……結婚しよう!」


 ……結婚?


 「……は?」


 喉が乾いた。

 水仕事の冷たさがまだ指に残っているのに、体の奥は一瞬で熱を帯びた。

 この子は、今、何を言った?


 「だって、エルは一番優しいし、かわいいし、だから結婚したい!」


 優しい。かわいい。

 それは褒め言葉ではない。私はそれで何度も人から消費されてきた。

 だけど、この子は、きっとそんなことも知らない。

 だからこそ真っ直ぐで、痛い。


 「ソラ、あなた何歳?」


 問いかける声が、思ったより低く響いた。

 現実を突きつけるために。


 「十歳!」


 無邪気に返ってきた数字。

 ──やっぱり子ども。

 それでも、あまりにまっすぐで、私の言葉は鈍る。


 「十歳で結婚はできません」


 少しだけ棘を混ぜた。

 この世界の仕組みを、少しでも教えるために。


 「じゃあ大人になったら!」


 大人になったら。

 その未来がどれだけ遠くて、どれだけ無慈悲か、この子はまだ知らない。


 「……はぁ。まぁ……また今度ね」


 ため息と一緒に逃がした。

 子どもの夢を壊さないための、苦い妥協。


 「ほんと!?」


 期待に満ちた声が、胸を打つ。

 答えは簡単だ。


 「また今度、考えてあげる」


 また今度。

 半年後か、一年後か。

 そのとき、私たちはどうなっているのだろう。


■ソラ、10歳後半・立派になる日まで

 「エル! 約束覚えてる? 大人になったら結婚!」


 日差しが強くなってきた季節。麦畑の匂いは甘く、風は熱を含み、遠くで鶏が鳴いている。

 ソラは、またその話を持ち出してきた。


 「……またその話?」


 私は麦束を抱えたまま立ち止まる。

 半年たっても、この子の熱は少しも冷めないらしい。


 「もちろん! 忘れるわけない!」


 まっすぐな目。

 どうしてこうも、一途でいられるのだろう。

 私はその理由を知りたいのかもしれない。


 「……うーん。まぁ、ソラの一途さは認めるけど……勉強は?」


 問いかける。

 結婚だの約束だの言う前に、現実を見せなきゃならない。


 「やってる! 士官学校の勉強も、村の先生の宿題も!」


 息を弾ませて、胸を張って。

 努力を誇る子どもの声。

 それは、まだ未来を信じられる年齢の音だった。


 「ふぅん。士官学校って大変なんでしょう?」


 軽く言ったつもりだった。

 でも、胸の奥では少しざわめく。

 帝都の士官学校──私にとって、それは遠い世界。


 「うん! でも、がんばる!」


 がんばる。

 その言葉の単純さが羨ましい。

 私はもう、がんばるだけじゃ足りない世界にいるのに。


 「……がんばる理由は?」


 つい聞いてしまった。

 この子は何のためにそこまで夢中になれるんだろう。


 「そりゃあ……エルと結婚するためだよ!」


 あまりに即答で、私は言葉を失った。

 この子は本気でそう思っている。

 未来の重さも知らないで、私を未来に連れていくつもりで。


 「……子どものうちはなんでも理由になるんだね」


 口に出した瞬間、自分でも少しだけ意地悪だと思った。

 でも、そう言わなきゃならなかった。

 この子の熱を受け止めすぎると、私までどこかへ連れていかれそうになる。


 「子どもじゃない!」


 抗議の声。

 それがまだ子どもである証拠だと、すぐにわかってしまう。


 「十歳は立派な子どもです」


 私は断言する。

 それは彼に向けた答えであり、私自身への確認でもあった。

 ──線を引け。これ以上、深入りするな。


 「でも、立派な大人になる!」


 大人。

 その言葉が、こんなにも軽やかに出てくるのが不思議だった。

 私は、大人になることがどれだけ重く、苦いことかを知っている。


 「……そうね。立派になったら、考えてあげる」


 私の声は淡々としていた。

 けれど、胸の奥でわずかな揺れがあった。

 この子の立派が、いつか本物になる日が来るのだろうか。


 「よし! 立派になる!」


 即答。

 その真っ直ぐさに、ほんの少しだけ笑いそうになる。


 「……ほんと、変わらないね」


 つぶやくように言った。

 変わらない。

 けれど、変わってほしくない部分があることを、私はすでに知ってしまっていた。


■ソラ、11歳・証明してみせなさい

 「エル! 結婚しよう!」


 また、開口一番それ。

 春の風が冷たい村道を抜けていく。教会の扉が少し軋み、磨き切れていない金具の音が背後で微かに鳴った。


 「……はいはい。もうその話は聞き飽きた」


 返事は乾いていた。

 でも、私の胸の奥では、聞き飽きるという言葉とは真逆のざわめきが続いている。


 「聞き飽きたって、だって俺、本気だから!」


 本気。本気ね。

 その単語をどれだけ信じればいいのか。

 十一歳の本気なんて、私の世界では羽毛のように軽い。


 「ソラ、あのね。まだ十一でしょ?」


 私は立ち止まって問い返す。

 少し冷たく聞こえてもいい。

 年齢の数字は、線を引くための武器になるから。


 「でもさ、士官学校に入ったらもう大人扱いされるんだよ!」


 誇らしげな顔。

 子どもが「大人」という言葉を盾にする時、それが一番子どもらしい瞬間だと私は知っている。


 「大人扱いねぇ……」


 声が自然と低くなる。

 大人扱い。それがどれほど空虚か、この子にはまだわからない。


 「だって、軍人の卵だよ? もう立派な候補生なんだから!」


 確かに、立派に見えるのかもしれない。

 でも、殻を破っていない卵は、まだただの卵だ。


 「ふーん。じゃあ“幼年部”っていうのは嘘なの?」


 あえて突きつける。

 その立派さが、言葉の上だけであることを示すために。


 「……うっ」


 返ってきた声は詰まる。

 まだ子ども扱いされるのが悔しいのだろう。

 けれど、その悔しさが成長の証だと私は知っている。


 「士官学校って言っても、まだ子ども扱いのくせに」


 だから私は言う。

 少し意地悪に。少し優しく。

 この子が本当に大人になる日が来るまで、境界線を守るために。


 「ちがう! もう大人だって!」


 声が上ずる。

 大人を名乗るその響きが、まだ幼さを隠せていない。


 「だったら証明してみせなさいよ」


 私は挑発する。

 証明なんて、簡単じゃないと知っているからこそ。


 「どうやって?」


 子どもらしい問い返し。

 答えを私から引き出そうとするその眼差しが、少しだけくすぐったい。


 「そうねー……じゃあ士官学校で一番になったら考えてあげる」


 突拍子もない条件を置いてみせる。

 私の声は穏やかでも、それは試金石のような重さを持たせた。


 「ほんと!? 約束な!」


 迷わず飛びつく。

 この子は、本当にこういうところで疑わない。


 「……簡単に信じちゃって。世の中そんなに単純じゃないのに」


 少しだけ苦笑が漏れる。

 それでも、簡単に信じられる世界で生きていることが羨ましいと思ってしまう。


 「大丈夫! 絶対なる!」


 拳を握って断言する姿。

 その熱が、私の冷えた胸をほんのわずかに温めた。


 「はいはい、がんばってね」


 わざと軽く返す。

 その方が、きっとこの子は前を向き続けられる。


 「バカにしてるでしょ!」


 図星を突かれて、むくれる声。

 少しだけ、口元が緩む。


 「してないよ。……少しだけ、楽しみにしてるだけ」


 私の言葉に嘘はなかった。

 ほんの少しだけ、本当に。

 この子が約束を叶えたら──そう考える自分がいることを、認めてしまった。


■ソラ、11歳後半・意地悪な優しさ

 森はまだ朝の霧を吐き出していた。湿った土の匂いと金属の冷たい匂いが、呼吸のたびに混じる。

 私は銃を構えていた。木々の間に吊るした古い鍋の底に狙いを定める。指先は冷えても、引き金にかけた感覚だけは熱い。


 「エル! 聞いて! 勉強めっちゃ頑張ってる!」


 突然、背後から声。

 銃口がわずかに揺れる。

 ──この子は、どうしていつも唐突なんだろう。


 「……またその報告?」


 照準を戻しながら答える。

 この鍛錬は私にとって日常で、彼の報告はまだ子どもの遊びの延長だ。


 「だって! 結婚のためだもん!」


 引き金を絞る。

 乾いた音が森に響き、鍋の底に弾痕が新しく刻まれる。

 結婚のため──その理由はあまりにも軽くて、だけど真剣で、否定しきれない。


 「……そういう理由で頑張るのってどうなのよ」


 視線だけ彼に向けた。

 汗をかいた額、息を弾ませている。

 私の世界の重さを知らないまま、ひたすらまっすぐな目で。


 「いいじゃん! 目的があった方がやる気出るし!」


 そうかもしれない。

 でも、目的の先にある現実を想像できていないのなら、そのやる気は脆い。


 「まぁ……そういうものかもしれないけど」


 銃を下ろす。

 認めたわけじゃない。ただ、子どものまっすぐさに水を差すほど大人じゃなかった。


 「それでね、俺、神聖力の測定でさ……シフタって認められたんだ!」


 ようやくか。

 私の胸に浮かんだのは、驚きではなく遅さへの実感だった。


 「ほう。やっとか」


 言葉は冷たく落とした。

 彼の顔に浮かぶ誇らしさを、少しだけ削ぐために。


 「やっとって何さ! すごいだろ!」


 即座に抗議の声。

 その子どもらしい反応が、少しだけ可笑しい。


 「私はね、六歳で使えたけど?」


 私の過去を軽く口にする。

 数字で人の価値が変わらないことを知っているのに、こうして数字で彼を突き放す。

 ──少しだけ意地悪な私を、止められなかった。


 「……っ!」


 彼の顔が悔しさで染まる。

 その表情を見て、私はほんのわずかに口元を緩めてしまった。


 「……あ、怒った?」


 銃口を下ろしながら、わざと軽く言う。

 彼の唇が引き結ばれて、目が少し潤む。──悔しさを隠せない顔。


 「ずるい! 比べるの反則!」


 正面からの抗議。

 わかっていて、私はその場所を突いた。


 「ふふ、そういう顔すると思った」


 銃身の冷たさが手に馴染む。

 この子の反応は、射撃の結果よりもずっと予測がつきやすい。


 「……エルってたまに意地悪だよね」


 意地悪、か。

 でも、これくらい言わなきゃ、この子はきっとどこまでも甘えてしまう。


 「事実を言っただけだよ。天才って呼ばれてた頃の私を知らないでしょ?」


 私は昔話のように告げる。

 その呼び名がどれほど空虚だったか、彼にはわからない。だからあえて言う。


 「う……でも、俺だってもっと強くなるし!」


 言い返す声が震えている。

 それでも、彼のまっすぐさは折れない。


 「なら、体力もつけないとね。勉強ばっかりじゃシフタも活かせないよ」


 彼の誇らしさを少しだけ現実に引き戻す。

 ──力は数字だけじゃ意味を持たない。


 「うん! 腕立てもしてる!」


 即答が返る。

 その必死さが少しだけ愛おしい。


 「……なんか、ペットの成長報告みたい」


 口元が勝手に緩んでしまう。

 軽口で誤魔化さなきゃ、この感情の正体に気づかれそうだった。


 「ちょっ、ひどっ!」


 想像通りの抗議。

 その単純さが、この森の空気を少しだけ温める。


 「だってそうじゃん。ほら、“頑張ってます!”って必死にアピールしてくるあたりとか」


 からかうように続ける。

 このやり取りが、鍋の的を撃つよりもずっと楽しいことを、私は認めたくない。


 「ふふ。まぁ頑張りなさい。十年後に胸張って来られるくらいにね」


 銃を肩に担いで言った。

 十年後。

 その言葉が、私自身に突き刺さる。

 この子の未来に、私はまだ立っていられるのだろうか。


■ソラ、12歳・少しだけ違う気がする

 村の外れ。初夏の風が教会裏の洗い場を抜けていく。

 石畳は濡れてひんやりしていて、日差しは強いのに影はどこか肌寒い。私は洗ったリネンを手で絞っていた。


 「エル、結婚!」


 背後から声。

 出会い頭にそれ。心臓がわずかに跳ねる。


 「……出会い頭に求婚するのやめなさい」


 私はリネンをもう一度きつく絞る。

 この子の突拍子もない一言に、いちいち振り回されてはいけない。


 「だって、今日もすごくかわいいから!」


 水音よりも明るい声。

 かわいい、か。そう言われるたび、少しだけ息が詰まる。


 「そういうこと、軽々しく言うと嫌われるよ?」


 あえて釘を刺す。

 その言葉の軽さが、私を少しだけ怖がらせるから。


 「エルには嫌われない!」


 即答。

 無邪気さの奥に、彼なりの確信があるのだろうか。


 「……その自信はどこから?」


 問いかける声が、自分でも少し低いと思う。

 そんな簡単に信じてしまっていいものじゃないのに。


 「だってエル、俺のことちゃんと見てくれてるし!」


 ……ちゃんと見てる?

 胸の奥に重い石が落ちたような感覚。

 私はこの子を“見ている”。でも、それは──。


 「……はぁ」


 ため息が漏れる。

 私の中にあるものを、どう言葉にしていいのかわからなかった。


 「え、なにそのため息!」


 不満げな声。

 まるで、自分の正しさを肯定してほしいと駄々をこねる子どもみたい。


 「ソラ。あなたね、私がどういう女か、本当にわかってる?」


 思わず問いかける。

 知っているつもりでいるなら、教えてやらなければならない。


 「わかってるつもり!」


 躊躇なく返ってくる。

 その迷いのなさが少しだけ羨ましい。


 「ふふ。なら答えて。どういう女?」


 微笑む。

 挑発にも似た問い。

 この子の答えが、私の世界を少しでも変えてくれるなら──そう思ってしまった。


 「えっ……えっと……優しくて、きれいで……」


 浅い。

 この子の答えは、驚くほど浅い。

 それでも、一生懸命言葉を探しているのが伝わってきて、少しだけ息が詰まる。


 「それだけ?」


 わざと間を置いて返した。

 その答えでは、私の何をも見えていないと教えるために。


 「え、他に何かあるの?」


 本気で首を傾げている。

 私が何者なのか、本当にわかっていない。


 「……やっぱり子どもだね」


 思わず口から出た言葉は、ため息のようでもあった。

 この子は、まだ表面だけを見ている。私の傷にも、底にも届いていない。


 「なんだよそれ!」


 怒ったような声。

 だけど、私の心には何も刺さらない。


 「ねぇソラ。私はね、自分がどう見られてるかくらい、もうとっくに知ってるの。慕香のせいで男は寄ってくるし、女は遠ざかる。だから“かわいい”とか“きれい”なんて言葉はね、もう何千回も聞いてるの」


 言いながら、手が止まる。

 水の冷たさが指先から消え、胸の奥に別の冷たさが広がる。

 これが現実だと、自分に言い聞かせる。


 「……」


 ソラは黙った。

 それでも目は逸らさない。

 その視線だけが、少しだけ私を苦しめる。


 「でも、ソラの言葉は……少しだけ違う気がするんだよね」


 口にしてから、しまったと思った。

 違う気がする──何が?

 私は何を期待している?


 「え?」


 無邪気な声。

 何もわかっていないのに、私を揺らす。


 「……なんでもない。はい、終わり。士官学校の勉強してきなさい」


 逃げるように言葉を切る。

 この子が追いつけない場所に、私の感情を押し込めるために。


 「ちょ、なんで急に終わらせるの!」


 子犬のような抗議。

 可愛い。でも、今はそれ以上聞かせない。


 「私が気まぐれだから」


 そう言って、笑ってみせる。

 その笑みが、自分でも驚くほど脆かった。


■ソラ、12歳後半・また今度、大人になったら

 夕方の鐘が遠くで鳴っていた。村の道は土埃を吸い込んだままの鈍い色で、空気には冷え始めた夜の匂いが混じっている。私は教会裏の古いベンチに腰をかけていた。束の間の休息。


 「エル、結婚したらどこに住みたい?」


 唐突な問い。

 ベンチの木肌が少しきしむ。


 「……質問の仕方が具体的になってきたね」


 声は自然と平らになる。

 子どもの夢なのか、それとも覚悟の入り口なのか。


 「だってさ、俺、一緒ならどこでもいいんだけど! 帝都でも、ハンサでも!」


 帝都。

 名前だけは知っている。

 でも、そこがどんな街かも、そこで暮らす人々がどんな目でこちらを見るのかも、私は知らない。


 「ふぅん……どこでも?」


 問い返す。

 その“どこでも”が、どれほど遠いかを知らないまま言えるのが、子どもの強さだと思った。


 「うん! あ、でも帝都の方がかっこいいかな。軍人っぽいし!」


 かっこいい、か。

 想像の中でなら、帝都はきっと輝いて見えるのだろう。


 「かっこいい理由がそれ?」


 笑うでもなく返す。

 私には、その街を想像で語る資格すらない。


 「だって! エルを大きな屋敷に住まわせたいし!」


 屋敷、ね。

 広さも煌びやかさもただの飾り。

 けれど──そこがただの家ではないことだけは、私にはわかっていた。


 「ふぅん……屋敷ね。じゃあソラ、お金はどうするの?」


 現実を突きつける。

 夢の輪郭を、せめて具体的に描かせるために。


 「えっ……そ、それは、頑張って稼ぐ!」


 動揺した声。

 稼ぐという言葉の中身は、まだ彼の中で空っぽだ。


 「どうやって?」


 さらに踏み込む。

 その空洞に、少しでも現実を詰め込ませたくて。


 「……えっと、軍で出世して!」


 出世──言葉だけの未来。

 見たこともない帝都で、その道がどれだけ険しいかなんて、彼は想像もしていない。


 「具体性ゼロだね」


 吐き捨てるような声。

 夢を見せるのは簡単。でも、それを支えるものは、まだ何もない。


 「う、うるさいな!」


 声が上ずる。

 勢いだけで世界を押し通せると思っているその目が、眩しくて、少し羨ましい。


 「……でも、ソラらしいね。勢いだけは一人前」


 私は肩をすくめる。

 勢いしかない子ども。それでも、その勢いがどれほど遠くまで届くのか、見てみたくなる。


 「勢いじゃなくて本気だって!」


 真っ直ぐな声。

 本気という言葉を、何も知らずに口にできるのは幸せなことだ。


 「はいはい。本気ね」


 軽く返す。

 これ以上踏み込むと、私まで本気にさせられてしまいそうで。


 「“はいはい”って何だよ!」


 食ってかかる声。

 少し笑ってしまいそうになる。


 「……また今度ね」


 投げるような言葉。

 また今度──その先がどれほど遠いか、この子はまだ知らない。


 「“また今度”っていつ!?」


 追いかける声が、子どもの必死さをそのまま映している。


 「大人になったら」


 即答。

 でも、私が言う“大人”は、この子が思う“大人”とはきっと違う。


 「もうそればっかり!」


 不満げな声。

 それでも諦めないのが、ソラらしい。


 「そういうことはね、大人になってから改めて言うものなの。たぶん。知らないけど」


 自分でも曖昧な言葉。

 でも、曖昧さの裏で、私は時間を稼いでいる。


 「……わかった! 絶対言う!」


 即答。

 この子の絶対がどれだけ脆いものか知っているのに、それを否定できない。


 「楽しみにしとくよ」


 声が少しだけ柔らかくなった。

 楽しみ。──本当に、楽しみにしているのかもしれない。

 でも、それを認めたくなくて、私は視線を空に逸らした。


■ソラ、13歳・立場じゃなく覚悟

 土を叩く音が続いていた。

 森の奥。朝霧がまだ溶けきらず、湿った冷気が肌に張りつく。私は迷彩柄のズボンと黒のタンクトップで、簡易の丸太を相手に体を打ちつけていた。掌の皮はもう硬くなっている。呼吸は荒くても、動きは崩さない。


 「エル……俺、本気で結婚したい」


 唐突な声。

 振り返ると、ソラが立っていた。

 その瞳の色が、いつもより深く見えた。


 「……あら、言い方が大人っぽくなった」


 皮肉を混ぜる。

 でも、心のどこかで、この子の言葉が少しだけ重くなったのを感じていた。


 「子ども扱いされるのはもう嫌なんだ。俺、もうすぐ幼年部を卒業して少年部に進むし」


 少年部。

 立場の変化を声にして、自分を大きく見せようとしている。

 私には、その必死さが手に取るようにわかる。


 「……なるほど。立場が変われば心も変わる、ってわけ?」


 打撃で熱を帯びた腕を組む。

 この子が“心が変わった”と言えるほどの重みを、本当に知っているのか確かめたくなる。


 「そうだよ。もう“子ども”じゃない。士官候補生として本気で言ってる」


 本気。

 彼の声は震えていない。

 幼さが残る顔と、本気という言葉が奇妙に噛み合っている。


 「ふぅん……士官候補生、ね」


 私は呼吸を整えながら呟く。

 “士官候補生”。響きは立派だけど、その肩書きが何を意味するか、この子はまだ知らない。


 「だから、ちゃんと答えがほしい」


 まっすぐな視線。

 丸太を叩いていた私の手よりも、その目のほうが鋭い。


 「……勢いじゃなくて?」


 問う声は試すようだった。

 この子がまだ勢いだけで生きているのか、それとも──。


 「勢いじゃない。本当にそう思ってる」


 真っ直ぐな声。

 森の湿った冷気を切り裂くような響きだった。


 「……言うね。でも、結婚っていうのは“立場”じゃなくて“覚悟”の問題だよ」


 私は両手の拳を開き、ゆっくり呼吸を整える。

 “立場”で語れるほど軽くはない。私にとってそれは、鎖にも似たものだから。


 「覚悟ならある」


 即答。

 その覚悟がどんな色か、私はまだ知らない。


 「そう言う子、何人も見てきた」


 吐き出すような声。

 期待と失望を繰り返す大人たちの顔が、頭の奥をかすめる。


 「俺は違う」


 反射のような声。

 違う──その言葉に、どれだけの重みがある?


 「……また今度」


 手短に切り上げる。

 今ここで答えを出すには、彼はまだ軽すぎる。


 「また今度って……!」


 苛立ちが滲む声。

 でも、その苛立ちこそが、少しだけ頼もしい。


 「焦らないの。少年部に進んだなら、ソラの言葉が本物かどうか、そのうちわかるから」


 ゆっくりと言い聞かせる。

 未来の時間に投げる。それが今の私にできる最大の優しさだった。


 「……絶対、証明する」


 握りしめた拳の音が聞こえそうなほどの決意。

 私の心に、静かな熱が落ちる。


 「……楽しみにしてる」


 最後の言葉は、少しだけ柔らかかった。

 その柔らかさを悟られないように、私はすぐに視線を逸らした。


■ソラ、13歳・命を背負うということ

 小さな命は驚くほど軽いのに、腕に抱えると世界のすべての重さを背負っているような気がする。

 教会の奥の部屋。孤児院を兼ねたこの場所には、新しい泣き声が増えた。

 まだ名もない赤ん坊。私は毛布を直し、耳元であやす。ミルクの甘い匂いと、古い木造の部屋の湿った香りが混ざっている。


 「エル」


 背後から声。

 その響きに、赤ん坊が一瞬だけ泣き止んだ。


 「なに?」


 振り向かずに答える。

 この子の呼吸のリズムを崩したくなかった。


 「……俺、エルと結婚したい。本当に」


 また、それか。

 でも、今回は少し違う。

 その声には、今までより深い影があった。


 「……」


 私は返事をせず、毛布の端を整える。

 言葉をすぐに返すには、その響きが重すぎた。


 「もう子どもじゃない。大人になっても、ずっとそばにいたい」


 大人になっても。

 彼の言葉は未来を見据えている。

 だけど、未来はこんなにも小さく泣いている命のように、簡単には守れない。


 「……考えてあげてもいいよ」


 ようやく答えた。

 軽い声色を装って、内側の揺れを隠す。


 「……っ!」


 息を呑む音が聞こえる。

 その反応に、少しだけ笑いそうになった。


 「でも条件がある」


 条件。

 それは彼の想像の外にある重さを教えるためのもの。

 腕の中の命が、そのまま答えになっていた。


 「条件?」


 戸惑う声。

 私の方をまっすぐ見ているのがわかる。

 でも、私は赤ん坊から目を逸らさなかった。


 「“お父さんになる”って、どういうことか考えておきなさい」


 赤ん坊の体温が腕の中でじんわりと伝わってくる。

 それは言葉で説明するよりも雄弁な答えだった。


 「……お父さんに?」


 ソラの声が少し震える。

 想像したこともなかったのだろう。


 「そう。結婚は、それと同じことだから」


 私は目を伏せ、赤ん坊の細い指が私の服を掴んでいるのを見つめる。

 それはか弱くて、それでいて離せない重さを持っていた。


 「……お父さん……」


 呟くような声。

 その言葉の意味が、少しずつ彼の中に沈んでいく音が聞こえた気がした。


 「命を背負うっていうのは、そういうこと。……軽く言える話じゃないんだよ」


 私は告げる。

 それは過去に何度も聞きたかったのに、誰からも聞かせてもらえなかった言葉だった。


 「……」


 ソラは黙っている。

 その沈黙は、子どもの無知ではなく、初めて知る重さを受け止めようとする時間だった。


 「だから、本当に考えて。答えは急がなくていいから」


 急がせる必要なんてない。

 今ここで返ってくる軽い返事より、これからの時間で深く育てた答えの方がずっと価値がある。


 「……わかった。ちゃんと考える」


 その返事に、私はほんの少しだけ笑みを浮かべた。

 この子が考え続ける限り、未来はきっとまだ変えられる。


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 神聖ヴェルメルデ帝国の辺境一区、ハンサ村。

 季節の境界を縫うように敷かれた農道を、一人の少年が歩いていた。松葉を圧搾したような千歳緑の軍服。その規律の色は、この土の匂いと混じるにはあまりにも異質だ。脇に抱えた赤い包装箱だけが、田舎の風景に不釣り合いな点滅のような存在感を放っている。パーン、と乾いた破裂音。森の奥から飛び出したのは野鳥か、それとも木々が軋んだだけか。


 ──異物。そう言い切ってしまえるほど、彼はこの村の景色から浮いている。


 農夫たちは手を止める。目は語らない。ただ、視線だけが刺すように言う。ああ、まだその気なのか、と。

 半年に一度。士官学校から帰郷するたびに、彼はこの村で同じことをしていた。


 少女に結婚を申し込む。


 教会に住む十六の少女。二つ年上の彼女は、仕立ての良い墨色の修道服をいつも纏い、凪いだ水面のような目でいつも彼を見返す。だが、その身分は奴隷だ。


 ──けれど、シスターは言った。少女が「いい」とさえ言えば、二人を隔てるものは何もない、と。


 だからこそ、これはすでに村の儀式のようになっていた。

 萌木色の春祭りにも似た、ささやかで、だけど誰もが知っている半期に一度の出来事。


 村人は予想している。どうせ、また同じ答えだ。

 結局、返ってくる言葉はこうだろう、と。


 「え? えーと……あ、じゃあまた今度、ね?」

 「あぁ……そっか。とりあえずまた今度ね」

 「──これ、帰ってくる度にやるの? ──また今度ね」

 「はいはい、また今度ね」。


 その「また今度」にどんな意味があるのか。

 わかっていてやっているのか。わかっていないふりなのか。

 どちらにせよ、今回もきっと「また今度」だろう。

 村人たちはそう決めつける。


 ──それでも、彼は歩みを止めない。


 セミが狂ったように鳴き続ける夏。

 今年の空気は例年とは違っていた。湿り気も、陽の匂いも、何かが混ざっている。


 パーン。

 森に響く破裂音。弾丸が五百メーラの木々の間を貫く。その射線が通る場所は一つしかない。エルが教えてくれた、あの場所だ。だから、ソラにとって探すのは容易だった。銃声を辿ればいい。ただそれだけのこと。


 ──いた。


 木漏れ日の中、そこに立つのはエル。

 野外活動モード。迷彩柄の戦闘ズボンに黒のタンクトップ。汗で張りついた布地の下、呼吸に合わせて肩がわずかに揺れる。

 左腕に刻まれた幾何菱文。黒く、鋭利で、ナイフで肉に彫り込まれたかのような文様。

 それが左半身全体に広がっていることを知るのは、ソラだけの秘密だ。


 士官候補生の目は、その戦闘服を「見慣れたもの」として処理する。だが、この田舎では異様に目立つ。

 けれどエルは気にしない。それは彼女の主人である元軍人のシスターが、奴隷である彼女に贈ったものだから。そして、お気に入りだから。


 ──服は人を守るものじゃない。心を守るものだ。そんな風に思えてしまう。


 エルは今日の訓練を終えたらしい。

 ライフルを脇に置き、身を伏せていたマットを丸めている。乾いた布が擦れる音。風に運ばれてくる火薬の匂いがまだ消えていない。


 枯れ枝が砕ける。落ち葉が跳ねる。わざとだ。ソラは大きな足音を立て、背後から近づいていく。

 半年間、遠く離れた地で焦がれ続けた姿が、今そこにいる。土に膝をつき、いつもの無駄のない動きで片付けをしている。


 「きたね。おかえり」


 くるくるとマットを丸めながら、エルが振り返る。半身だけをこちらに向け、視線が重なる。

 その瞳の中に自分がいる。忘れられていない。ほんのそれだけのこと。

 なのに、エルの「おかえり」は、ソラに自分の欠けた一部を返してくれたようだった。

 十年ぶりの再会のような感覚。そんな経験はないのに、そうだとしか言えないほど。


 ──きっと再会って、こういうことなのだろう。


 「ただいま。今日はもう終わり?」

 「うん。ちょうどね。八発当てて二発外した」


 エルは晴れの日はほぼ毎日、ここで十発だけ長距離射撃をする。

 それは護身のための習慣であり、同時に彼女に残された数少ない楽しみの一つ。


 「──けど、今日はこれからカモか何か鳥も獲るから。そっちが本命」


 ライフルの銃身がまだ熱を帯びている。遠くでカラスが鳴いた。夏の湿った風が髪を撫でる。

 そこでエルの目が動いた。ソラが抱えている、鮮烈な赤色の箱。


 「その箱は結婚のご相談ですか」

 「あ、はい。俺と──」


 結婚してください。そう続けようとした声は、淡々と遮られる。


 「待って。その話は帰り道にしよう。いまは獲物が先」


 ほら、と無言の合図。マットを手渡される。ホルダーの硬い縁が肩に食い込み、体温を奪う。

 ──結婚よりも、いまは狩り。そういう世界線で、彼女は生きている。


 森を抜ける頃には、陽は少し傾いていた。

 背に負ったマットが軋み、ソラの肩にかすかな痛みを残す。獲物は結局、手ぶらだ。エルはそれを気にする様子もなく、枝を踏みしめる音だけを連ねて進んでいく。


 ──言葉が続かない。結婚の話を切り出そうとして、また置いていかれた。いつもそうだ。

 追いつこうとしても、エルの背中はわずかに前を歩く。その距離が縮まらない。


 村の端に差しかかる。夏の匂いがする。干された麻布の匂いと、誰かが夕餉の準備で煮ている豆の匂い。風が頬を撫で、汗の塩が皮膚に乾いていく。


 その時、エルがふいに立ち止まった。

 振り返らずに、背中越しに言葉を落とす。


 「──“共連れ”になってくれたら、考えてあげてもいいよ」


 淡々とした声。だけど、その沈み込むような小ささが、かえって重い。


 「え、共連れ……?」


 口に出した途端、自分が間抜けに思えた。けれど、わからなかった。本当に何のことかわからなかった。


 「そう。今度ダルムバッハに行きたいんだけど、連れて行ってくれる?」


 彼女は奴隷だ。自分で汽車に乗ることもできない。だから頼む。そういう声だった。


 「いいけど……。そんなことでいいの?」

 「汽車賃とか、あとちょっとお願いを聞いてくれたらね」


 影が二つ、長く伸びて交わった。ソラの鼓動は耳の奥で膨らみ、言葉を飲み込む。


 ──“そんなことで”いいのか。いや、本当は、そんなことじゃないのかもしれない。

 ソラはまだ士官候補生だが、すでに軍人として扱われている。だから給金をもらっている。


 「……ああ。お願いって?」

 「それはまだ秘密。だけど、それを聞いてくれたら結婚のこと、考えてあげる」


 その軽やかな声に、ふと過去が滲む。

 ソラはもともと、この教会の孤児院で育った。

 そしてエルは、地方都市アルベルクで奴隷として売られていたとき、ある村人の慈悲によって買い取られ、ハンサ村へ連れてこられたあと、教会に寄付された。


 それから、エルは孤児院で働き、子どもたちの面倒を見るようになった。

 ソラも、その“面倒を見られた”うちの一人だ。


 ──だから、彼女の「考えてあげる」には重さがある。

 対等ではなかった頃の自分。憧れにも似た感情。

 過去と今が一瞬で重なり、言葉がうまく出てこなかった。


 ──一緒にダルムバッハへ行けば、結婚を考えてくれるらしい。

 妙な話だ。軽口なのか、本気なのか。それすらも測れない。


 それでも、エルのその応えを聞いてからというもの、ソラは落ち着かなかった。

 教会で馴染みの孤児たちとパンをちぎり合いながらも、視線は何度もエルを追った。

 浴室で麻のガーゼタオルを絞るとき、掌に伝う水の冷たさに彼女の声がよみがえった。

 干し草の詰まったベッドに沈み込んでも、瞼の裏には結局あの横顔があった。


 エルがダルムバッハに行くと言っていた日は、ソラの夏季休暇の最終日だった。

 ハンサ村から帝都までは馬車と汽車で片道八時間以上。

 その日程では往復は不可能だと伝えたが、エルはただ淡々と「帰りは一人でも大丈夫」と答えた。


 ──大丈夫、というその言葉が、大丈夫じゃないことの証明みたいで。喉が塞がった。


 休暇のあいだ、ソラは村に溶け込むように過ごしていた。

 農夫たちの手伝いをし、日が落ちると教会に戻り、孤児たちと夕餉を囲む。

 干し草の匂いと、煮豆の甘い香りと、蝋燭の揺らめき。そんなものが、帝都ではもう味わえないことを知っていた。


 エルはその間も、いつもの修道服で淡々と働いていた。

 だが、ソラのそばにいる時間が明らかに多かった。

 ──理由はわかっている。彼女には神に与えられた特殊な事情がある。

 ソラがそばにいれば、少なくとも「そういう目」で見られずに済む。


 だからソラは、できるだけ彼女の隣にいた。

 孤児たちと遊ぶときも、教会の掃除をするときも、時にはただ夕暮れの外階段で並んで座るときも。

 互いに多くを話すわけではなかったが、その沈黙には意味があった。


 ──守る、というより、ここにいる。

 それだけで、少しだけ世界が穏やかになる気がした。


 結婚の話をはぐらかされても、ソラは苛立たなかった。

 それがいつものことだと知っていたし、むしろ彼女がそうやって少し先へ逃げるからこそ、この距離は保たれている。


 エルもまた、多くを語らなかった。

 日が暮れると、孤児院の裏庭で洗濯物を取り込む。

 ソラは無言でその隣に立ち、湿った布の重みを分け合う。

 風が吹けば、まだ乾ききらない麻の匂いが二人の間を満たした。


 ──それでいい。


 言葉がなくても、ただそばにいること。

 それが二人にとって、最も安心できる状態だった。

 守っているのか、守られているのか、それさえはっきりしない曖昧な関係。

 けれど、いまのソラにはそれで十分だった。


 「──じゃあエルの足輪の登録をし直さなくちゃね」


 出発前夜。

 孤児たちと、そしてエルとともにいつもの夕食を終えたあと、シスターは席を立ちながら言った。

 その声は、祈りの後のように淡々としていた。


 足輪──正しくは縄索器と呼ばれる術具。

 奴隷や罪人の両足首に装着され、装着者の神聖力を吸い尽くし、追跡する。

 主人を中心とした行動可能範囲を設定し、登録された者の支配下でのみ存在を許される。

 許す、というより、縛るための仕組み。

 吸い上げた神聖力で自己修復を続け、骨の髄にまで食い込み、外すことも壊すこともできない。


 ──つまり、一度嵌められたら、生涯その身から離れることはない。

 それが当たり前のように語られることが、どうしても気味が悪かった。

 鎖が目に見えなくても、彼女は鎖につながれている。


 ソラは視線を落とした。

 エルの足首。その布の下にあるものを、見たくなかった。


 「さぁソラ、神聖力を込めて」

 「……出かけるだけなのに、こんなことするんですか?」


 ソラは訝しんだ。

 薄明かりの礼拝堂。蝋燭の炎が揺れ、影が長く伸びる。


 「ええ、そうよ。あなたを主人として登録するの」

 「でも、俺は行ったら半年帰ってこないのに……」

 「いいのよ。まぁ細かい事情はあとでわかるから。とりあえず、ほら」


 シスターの声は静かで、淡々としていて、逆らう理由を削ぎ落とす。

 床にひざまずいたエルが、何も言わず足首を差し出している。


 ──これも妙だった。

 エルは奴隷としては教会の所有物であるとはいえ、行動範囲の制限などないに等しい距離を設定されているはずだ。

 それなのに、どうして今さら俺が“主人”として登録される必要がある?


 答えは与えられない。

 ただ冷えた礼拝堂の空気が、問いを飲み込み沈黙に変える。

 腑には落ちなかったが、シスターの有無を言わさぬ仕草に気圧され、ソラは言われるままエルの右足首に手を伸ばした。


 普段は修道服の裾に隠れている、白い肌。足首から弓なりに伸びるふくらはぎの線に、一瞬だけ目を奪われる。触れてしまいそうになり──いや、何かの拍子で触れてしまえばいいとさえ思いながら、その奥に漂う体温と神聖力を吸い上げてほんのり温まった、グングラム鉄鋼製の足輪に指先を添える。


 シスターが先に神聖力を込め、文様が淡く発光する。光が呼吸するように脈打ち、そこにソラは自らの神聖力を流し込む。


 瞬間、重力がずれる。意識が遅れて身体に追いつくような感覚。世界が一歩遠くなる。

 呼吸が一拍遅れた。足元から体の奥に、冷たさとも熱ともつかない奔流が走る。


 「……できました」


 声は出たが、自分のものではないみたいだった。

 エルはそっと足を引き、修道服の裾を整えた。

 まるで何事もなかったかのように。


 けれど、その指先はわずかに震えていた。

 脛のあたりを一度撫でてから、すぐに手を離す。触れてはいけないものに触れた子どものように。


 「ありがと」


 それだけ。いつもの調子。

 だが、目は合わなかった。

 ソラの方を見ているようで、その奥のどこかを見ているみたいだった。


 ──きっと好きなものじゃない。

 彼女がどう思っているかまではわからない。けれど、少なくとも、この瞬間を楽しんでいるわけじゃない。


 一日だけか、それともそれ以上かはわからない。

 だが、これで足輪は「ソラがエルの主人である」と認識した。


 ──複雑な心境だった。

 好きな女の子の行動の一切が、いま自分の手中にある。


 胸の奥がふわりと浮いた。ずっと欲しかったものをようやく手に入れたような、甘い感覚。

 だが、その甘さに気づいた途端、心のどこかが冷えていく。


 これは奪ったのかもしれない。

 不当な手段で、誰かから大切なものをもぎ取ったときのような、満たされない罪悪感。


 ──それでも。

 期間限定であることが、惜しかった。

 いまだけで終わってしまうことが、どうしようもなく悔しかった。


 その感情の底には、一抹の不安があった。

 ──この旅のあと、エルは本当にこの教会に帰ってくるのだろうか。


 大丈夫。

 エルは「結婚を考える」と言った。

 なら、またここに戻ってくる。

 そう信じ、胸の奥で揺れる影を懸命に追い払う。


 「じゃあ、さっさと身体を洗っておやすみ。お前は朝に弱いんだから」


 言外に“エルと違って”という意味が込められているような口調だった。

 微かな棘。けれどそれは、朝が来るまでの不安をやわらげるための、形を変えた優しさでもあった。


 ──翌早朝。

 夜はほとんど眠れなかった。

 神聖力と足輪を通して、曲がりなりにもエルとつながっている。

 その事実が胸を締めつけるたび、鼓動が早まる。


 エルが言った「結婚を考える」という言葉。

 彼女の未来のこと。

 そして、自分と彼女の未来のこと。

 期待と不安がないまぜになり、頭の中を何度もぐるぐると巡った。


 それでも、夜明け前の空気は思ったよりも冷たく澄んでいて、熱を持った心臓を少しだけ鎮めてくれた。

 ──寝坊はしなかった。


 目を閉じたまま、息を整える。

 足輪を通じて、エルの居場所がわかる。

 彼女はもう起きて、教会の中を移動している。


 こんなことまで、わかってしまうのか。


 体の奥でぞわりとしたものが走った。

 自分の神聖力が、あの足輪を介して彼女に絡みついている。

 まだ視界には入っていないのに、彼女の存在が肌の下で生きている。


 起き上がれず、ベッドの上でただ時間を潰す。

 早朝の冷気が頬を撫でるのに、頭の奥は熱くて、落ち着かなかった。


 まだ早いだろうか──そう思いつつも、これ以上ベッドにいても落ち着かない。

 胸の奥がそわついて、寝具がただの重しに変わっていた。

 ソラは深く息を吐き、身体をベッドから引き剥がした。


 廊下。食堂。台所。

 誰もいない。

 しんと張り詰めた静けさ。虫の声だけが、夜の帳がまだ完全には明けていないことを告げている。


 顔を洗い、冷たい水で熱を持った頬を鎮める。

 勝手口から裏へ出ると──エルがいた。


 やっぱり。

 でも、思った以上に早い。


 いつもの修道服。

 蔦の這うレンガの壁に背をもたせ、身体の前で手を組み、親指同士をくる、くる、と回しながら、エルは向こう側──草雲雀の鳴くあたりを見つめていた。


 夜明けを惜しむような、リリリ──というか細い鳴き声。

 その音を背景に見るエルのうなじは、どこか哀しげな気配をまとっているように見えた。


 そこでソラは気づいた。

 髪が十サンチほど短くなっている。

 すっきりとしたショートカット。

 ──昨日までの彼女とは、少し違う。


 胸の奥で何かがちいさく軋んだ。

 変わっていくのは髪だけじゃないのかもしれない。


 一瞬、声をかけるのをためらった。

 背中越しに見えるのは、夜明け前の光を受けて淡く透けるエルの髪と、修道服の裾が風にわずかに揺れる様子。

 草雲雀の鳴き声がまだ続いている。遠くで鶏が鳴き、村の朝が目を覚まし始めていた。


 息を吸い込む。胸の奥がきしむ。

 いま声を出したら、この静かな絵が壊れてしまう気がした。

 それでも──振り絞る。


 「……早いね」


 振り返ったエルの顔は、どこか寝不足の影を落としていて、それがまた彼女を遠く見せた。


 「──あんまり眠れなかった。……着替えてきなよ、もう馬車来てるよ」


 その声が、朝の冷たい空気を震わせる。

 心の奥がざわめき、胸に小さな痛みが広がった。


 「……なんて勤勉なんだ」


 視線の先にあったのは、夜明けの靄に沈む一台の馬車。

 馬車といっても、立派な幌も座席もない。

 ただの荷台に簡素な手すりを取りつけただけのものだ。


 剥き出しの木材はところどころささくれ立ち、夜露を吸って暗く濡れている。

 二頭の馬が鼻を鳴らし、白い息を吐いて立っていた。

 車輪は手作りのように粗雑で、濡れた地面に沈み込みながら、わずかにきしんでいる。


 昨日、村の小間使いに頼んでおいたものだ。

 夜明け前に来てくれと言っても、渋い顔ひとつ見せなかっただけのことはある。


 荷台には干し草が薄く敷かれ、角には布に包まれた小さな荷物が置かれていた。

 古い木と馬の汗、湿った草の匂いが鼻をくすぐる。

 ──旅立つというより、少しだけ村を離れるだけ。

 そんな現実感のある匂いだった。


 「朝ごはんは馬車で食べよう。用意しといたから」


 エルの声が、ひんやりとした朝の空気を和らげた。

 村はまだ眠っていた。

 低い石垣に囲まれた畑は夜露を帯び、か細い茎が冷えた風に震えている。

 藁葺き屋根の家々は煙突からかすかな白煙を吐き、昨日の焚き火の匂いを残していた。


 土の道には、夜のうちに馬か犬が歩いた小さな足跡がまだ新しい。

 遠くで鶏が鳴き、どこかの戸がきしむ音が響く。

 それだけが、この村が目を覚ましつつある証だった。


 ──貧しい村。

 それでも、この場所がエルの帰る場所であり、ソラの原点だった。


 急いで部屋に戻り、村にいる間はクラブバッグに押し込んだままの千歳緑の軍服を、手もどかしく引っ張り出す。

 雑に詰められていたせいで、変な折り目がつき、しわしわになっている。

 ──げんなりする。

 最低限、エルの品位を損なわないようにと、掌で必死にシワを伸ばす。だが、生地は頑固で、努力が無駄だと悟る。


 それでも、シャンクボタンをひとつひとつ留めると、少しだけ軍服らしい形になった。

 革の匂いが残るベルトを腰に巻きつける。かすり傷の目立つそれを、ややきつめに締めた。

 息が浅くなる。


 ──これでいい。いや、これでいくしかない。

 歪な軍服のまま、今日が始まる。


 ──そういえば、エルが着る服は限られている。

 昼間は仕立ての良い墨色の修道服。夜は薄手の寝間着。

 そして森へ出る日は、迷彩柄の戦闘ズボンに黒のタンクトップ──彼女が「野外活動モード」と呼ぶ服装だ。

 その三つ以外で彼女を見たことはない。


 唯一の例外は、彼女が初めて教会に連れてこられた日の記憶だ。

 奴隷として売られていた少女が着ていたのは、色の抜けた麻袋を引き裂いたような布きれ。縫い目はほつれ、裾は泥で重く、肩紐は今にも千切れそうだった。

 それでも、当時の彼女は何も言わず、ただその服を着て立っていた。


 ──あの時の光景が今も頭を離れない。

 端正な修道服も、実用一点張りの戦闘服も、そのときの痛々しい布切れも、すべてが同じ人間を包んでいる。

 そう思うと、胸の奥が鈍く疼いた。


 表に出ると、エルはすでに荷台に腰かけていた。

 荷台といっても、外れの村にあるものだ。

 粗く削られた板が打ちつけられただけの簡素な作りで、夜露を吸った木の匂いが鼻をかすめる。

 二頭の馬が白い息を吐き、耳を小さく震わせている。


 ソラも荷台に上がり、エルの隣に腰を下ろした。

 板のきしみが響き、朝靄の中で小さな音が広がる。


 「ダルムバッハまで行くのに、エルは服はそれでいいの?」


 問いかける。ほんの会話のつもりだった。


 「……何をいまさら」


 視線を合わせずにそう言った。

 それは突き放しでも茶化しでもない。

 修道服と寝間着、そして野外活動用の戦闘服──彼女の衣服は、それで全てだ。

 自分には他の選択肢がないという現実を、あえて言葉にするまでもないという響きだった。

 ソラは言葉を飲み込み、彼女の横顔を見つめるしかなかった。


 「いや、そうだけど……動きにくそうだと思って」


 思わず口にすると、エルは横目でこちらを見て、口元だけで笑った。


 「それで言ったらソラのその格好だって動きにくいでしょ。軍服って……。かっちりしすぎじゃない?」


 その言葉に、反論できなくなる。

 士官候補生用の千歳緑の軍服。

 きちんとした装いのはずなのに、笑い混じりでそう言われると、ただ窮屈なだけの服に思えてくる。


 バツの悪さをごまかすように、上着の裾を引っ張った。布がぎしりと張って、さらに居心地の悪さが増す。

 ──これでもまだ候補生用の簡素なものだ。本物の士官の軍服はもっと仰々しい。

 そう思うと、息苦しさが胸の奥に沈んでいく。


 エルは修道服のまま、膝の上で指を組み、視線を前へ向けている。

 まるで自分だけが、余計な殻を着込んでここにいるような気がした。


 「いいんだよ、俺だって外行き用はこれしかないんだから。ダルムバッハに戻れば他に──」


 少しだけ間を置き、照れ隠しのように言葉を継ぐ。


 「エルだって、そのヒラヒラで水たまり入ったりしないようにね」


 修道服はワンピース仕立てで、裾が足首の下まで届く。

 墨色の布は厚手で、質素ながら丁寧に織られており、動くたびにひそやかに衣擦れの音を立てる。

 それが足輪をすっぽりと隠してくれる。

 だからこそ、彼女はこの服を着て外に出られるのだ。


 けれど、外を動き回るには不向きだ。

 長い裾は湿った土や草に触れやすく、ちょっとした段差でも足さばきを鈍らせる。

 ──それでも、エルは当たり前のように着ている。

 彼女にとっては選択肢のない「普段着」なのだ。


 ソラは言いながら、裾の奥に隠された銀の足輪のことを意識してしまう。

 見えないはずのそれが、ずっとそこにある。


 「お願いします」


 エルが御者に短く声をかけ、馬が鼻を鳴らす。

 荷台がわずかに沈み、ソラとエルの身体が揺れた。

 軋む音とともに、馬車はゆっくりと前へと進み出す。


 村の大通りと呼ぶにはおこがましい、ただの土の道。

 車輪が濡れた泥を踏みしめ、ぬかるむ音が足元から響いてくる。

 朝靄はまだ完全には晴れず、藁葺き屋根の家々が輪郭を曖昧にしている。

 焚き火の残り香と、濡れた木材の匂いが混じり合い、旅立ちの匂いと呼ぶには素朴すぎる空気を作っていた。


 エルは無言のまま、前を見ている。

 修道服の裾が荷台の木肌にかかり、衣擦れの音だけがささやくように響く。

 ソラは隣で、膝の上に置いた手をどうにも落ち着かせられず、軍服の裾を指先でいじっていた。


 道の脇で犬が一匹、こちらをじっと見ている。

 見送っているのか、ただの興味か。

 ──村の人間が見送るわけでもない。

 早朝のこの道を知っているのは、犬と鶏と、自分たちだけだ。


 御者台から、御者が軽く咳払いをする。

 その音がやけに大きく響いて、ソラは少し背筋を伸ばした。


 村の外れに近づくにつれ、道はさらに荒れていく。

 車輪が石を踏み、荷台が跳ねるたび、ソラの体が小さく揺さぶられる。

 隣のエルもわずかに身体を傾けるが、姿勢は崩さない。

 ──この人は、こういうときも全然ぶれないんだな。

 そう思いながら、ソラは自分の足元を見て、革靴の先で泥をかき混ぜた。


 まだ村の匂いが残っている。

 湿った土の匂い。牛小屋から漂ってくる獣の体温のような匂い。

 それが、少しずつ、風に流されて遠のいていく。


 ふと振り返ると、教会の塔が小さく見えた。

 赤茶けたレンガの壁に、朝日がうっすらと差し込んでいる。

 屋根の端には、磔刑に使われるためだけの十字の木枠が、無言で立っていた。

 祈りのためではなく、罰のための形。

 その影が、地面に長く伸びていた。


 ──あそこに帰ってくるのか。

 それとも、もう戻らないのか。


 考えても、答えは出ない。

 ただ、馬車は淡々と村の外へと向かって進んでいく。


 村を抜ける道は、思った以上に長い。

 畑が途切れ、土の匂いが薄れていく。

 代わりに鼻をつくのは、湿った草の匂いと、夜露の残る木々の青い匂いだった。


 荷台はごとごとと音を立て、時折、石を踏んで大きく揺れる。

 ソラは慣れない衝撃に足を突っ張って耐えた。

 隣のエルはまるで揺れを受け流すように、上体をほとんど動かさず座っている。

 淡々と前だけを見つめる横顔は、感情の揺れを一切見せない仮面のようだった。


 村の家並みがもう見えない。

 ふと背後を振り返ると、赤茶けたレンガの教会の塔だけが、まだ朝靄の中に小さく浮かんでいる。

 その屋根の端に立つ磔用の木枠が、無言でこちらを見下ろしていた。

 それは村の象徴というよりも、帰属の証──自分たちがどこから来たのかを刻みつける無言の印のように思えた。


 エルはまだ前を向いたまま。

 ソラは何度も何度も振り返りたくなる衝動を抑え、視線を落として拳を握った。


 馬の足音と、車輪が土をかき分ける音。

 御者のときおりの咳払い。

 それ以外の音はない。


 時間が伸びる。

 村を離れるということが、こんなにも静かで、こんなにも重いのかと初めて知った。


 村の家並みが、もう見えない。

 畑も、石垣も、低く立つ煙も──全てが靄の向こうに溶けていった。

 ふと背後を振り返る。


 赤茶けた教会の塔が、朝靄の中にひとつだけ浮かび上がっていた。

 その屋根の端に立つ、磔用の十字の木枠。

 それは、ただの建築物ではなかった。


 以前なら、そこを振り返ることに意味があった。

 エルがいたから。自分が帰る場所だったから。


 けれど、今は違う。

 エルは隣にいて、馬車は前に進んでいる。

 戻ることを前提にした旅ではなく、まだ見ぬ何かを含んだ移動。

 帰り道を意識するのではなく、地図に存在しない感情の先へと連れ出されているような感覚。


 この先、何が起きるのか。

 どこまで行って、何が決まるのか。

 何も決まらないまま戻る可能性もある。


 ソラは振り返ったまま、もう一度その塔を見た。

 そこにエルはいない。

 そこに、もう以前と同じ意味はない。


 ──まだ始まってすらいないのに、何かが変わりはじめていた。


 道がなだらかな下りに入り、馬車の車輪がときおり小石を弾く音が響く。

 空はすっかり明るくなっていた。

 朝靄は遠くへ引いて、草原の先に見える防風林の線がくっきりと浮かんでいる。


 ダルムバッハまでの道は何度も通っている。

 士官学校の長期休暇ごとに、この道を、逆方向から帰ってきた。

 けれど今、足が向かっているのは「帰り道」ではない。

 今回は、何かが違う。


 だからだろうか。

 ふいに、声をかけたくなった。

 沈黙が続きすぎると、言葉のひとつも宙に投げたくなる。


 「──で、エルの用事って……何しに行くんだっけ」


 エルは返事を急がなかった。

 馬車の揺れに合わせて、わずかに背をゆらしながら、草原の先を見ていた。


 やがて口を開く。


 「ちょっと、ね。人に会うの」

 「ふうん……」


 思ったよりも簡素な答えだった。

 誰に会うのかも、どうして会うのかも、何も言わない。


 ソラは追及するのをやめた。

 その答えが、すでに用意されていたような気がしたからだ。

 はぐらかすというより、最初から核心に触れさせないための返事。

 そう──それは、「見せない」と決めた人間の静かな防御。


 修道服の裾が風でわずかに揺れた。

 その下に足輪があることを思い出し、視線を逸らす。

 誰かに会いに行くという言葉が、いつになく遠く感じられた。


 馬の歩調が少しずつ早まり、御者の姿が陽の中に溶けていく。

 荷台に残された静寂だけが、かえって会話の重さを浮かび上がらせていた。


 「──朝ごはん、もう食べる?」


 エルの声は荷台の揺れに溶けて、少し柔らかく響いた。


 「うん」


 ソラは頷き、渡されたサンドイッチを手に取る。

 馬車の振動が一定のリズムで体に伝わり、その不安定な中でパンを頬張ると、塩気の効いたハムと、少し辛味のある葉野菜の味が舌に広がった。

 こんな何でもない食事が、旅の朝を実感させる。


 「──ていうか、エル身軽だね」


 視線を向けると、彼女の足元にはバスケットがひとつあるだけだった。

 まるでピクニックに行くような風情。

 だが、ここからダルムバッハまで片道八時間以上。

 用事を済ませるなら泊まりになるだろうに、着替えも何もない。


 エルは少しだけ口角を上げて、まるで当然のことを言うように返した。


 「……服もそうだけど、私、奴隷だよ。持って行くようなもの、持ってないよ」


 失言だった、とソラは思う。

 だが、その瞬間、自分の中に小さな違和感が残った。


 エルの口ぶりは、ただの事実の羅列に聞こえた。

 悲しみも、卑下も、諦めもなかった。

 それがかえって不自然だった。

 ──何かを隠している。

 そんな考えが、胸の奥でざわつきとして残った。


 馬車はそのまま淡々と進む。

 揺れる視界の向こう、草原の緑が陽に照らされて眩しい。

 パンを咀嚼しながらも、ソラはエルの言葉の残響をどうにも飲み込めずにいた。


 シスターに借りればいいのでは──と喉まで出かかった言葉を、ソラは飲み込んだ。

 代わりに、エルは先に答えを出すように口を開いた。


 「それに、何か足りないものがあったらソラが買ってくれるでしょ。ご主人さまなんだから」


 軽く笑って、サンドイッチの端をかじる。

 言葉だけを抜き取れば冗談のようだった。

 けれど、声の底に冷えた水面のような平らな響きがあって、それがどこか本気にも聞こえた。


 なんだ、そういうことか──と、ソラは思った。

 しかし胸の奥では、別の感情が波立っていた。


 ご主人さま。

 足輪を通して形式的に登録された、自分の立場のこと。

 そう言われることで初めて、それが「形」だけではない現実として重さを帯びる。

 旅の間だけのものとわかっていても、身体の奥で熱を帯びるものがあった。

 所有と呼ぶには脆く、けれど一方的な力の関係がそこにある。


 パンの咀嚼音と、車輪が土をかき分ける音。

 馬の息づかい。

 旅の音が混ざり合う中、ソラは上着の裾を指先で強く握りしめ、内側のざわめきを押し込めた。


 「ご主人さまなんだから」

 そう言ってエルはパン屑を払う仕草をして、まるで話題が終わったとでも言うように視線を前に戻した。


 ソラは言葉を探した。

 何を言えば、この沈黙を埋められるのか。

 けれど見つからない。


 「……で、本当は何しに行くんだ?」


 結局、直接的な問いを投げるしかなかった。

 エルはわずかに首を傾けると、頬杖をつき、薄く笑った。


 「何だと思う?」

 「いや……知らないよ」

 「だったら考えてて。正解は会ってからのお楽しみ」


 はぐらかされた。

 あえて答えないのではない。

 最初から、その答えをソラに渡す気がない。

 そういう声色だった。


 もう一度何かを言いかけたが、ソラはやめた。

 押しても扉が開かないとわかっているものに、これ以上力を使う気になれなかった。


 馬の足音と車輪の軋みだけが、再び二人の間に戻ってきた。

 その沈黙は、さっきよりもずっと重かった。


 しばらくして、道の脇に柵が現れはじめる。

 乾いた風が吹き、草の匂いが薄れていく。

 農夫の姿ももう見えない。


 遠くで鳥の群れが旋回していた。

 湿った土の匂いに混じって、焦げた油のような匂いが鼻をかすめる。

 近郊の工場群から漂ってくる煙だ。


 地面は硬い砂利道に変わり、車輪がごつごつと音を立てる。

 馬の呼吸が少し荒くなる。

 人の声がちらほらと聞こえ始めた。

 見慣れたはずの風景なのに、今日は違って見えた。

 街へ帰る、ではなく、街へ踏み込む──そんな感覚が胸に広がる。


 エルは荷台の端に座り直し、まるでそれを迎える準備でもするように、スカートの裾を整えていた。


 前方に、大きな屋根が見えた。

 ダルムバッハ行きの汽車が発着する、小さな駅だ。


 白い壁と赤い瓦屋根。

 駅舎の前には旅人や荷物を抱えた商人たちが集まり、馬車の列が途切れなく出入りしている。

 油の匂いと人いきれが重なり、田舎道の澄んだ空気はもうない。


 御者が短く手綱を引く。

 馬車が減速し、ぎしぎしと木が軋む音が大きくなった。

 その音が、ソラには汽笛よりも重く聞こえた。


 「……着いたね」


 エルが小さくつぶやいた。

 ソラは頷くことしかできなかった。

 これから何が起こるのか。

 考えても、答えは出なかった。


 馬車が止まると同時に、ざわめきが押し寄せてきた。

 馬の息づかいと御者の短い声、その背後で響く荷台の積み下ろしの音。

 駅前の広場には、旅人や商人が群れをなし、売り声や取引の声が交錯している。油の焦げた匂い、石畳の熱に染み込んだ昨日の雨の湿気、干からびた果物を積んだ屋台の甘い匂いが、重なり合って鼻腔に届いた。


 ソラは軍服の裾を整え、深く息を吐いた。

 見慣れているはずの駅舎が、今日はやけに大きく、遠く感じられる。

 赤い瓦屋根の下で、金属製の時計が無遠慮に時を告げていた。


 エルは先に荷台を降り、裾を踏まないように持ち上げながら、迷いのない足取りで駅舎の方へ向かっていく。

 修道服の墨色が、雑多な人の群れの中で不思議な静けさをまとっている。

 ソラはその背に目を奪われ、慌てて後を追った。


 切符売り場の前には長い列ができていた。

 並ぶ人々の服装は、農夫の粗末な麻布の衣から、金糸の縫い取りが施された外套までさまざまだ。

 油で固められた髪の匂いと、獣の皮の匂い、汗の混じった人いきれが充満している。


 「……ソラ、買ってきて」


 エルがそっと言った。

 それは命令でも依頼でもなく、ただ当然のこととして口にされた。

 ソラは頷き、財布を取り出す。

 ポケットの中で硬貨がからりと鳴った。


 順番が来て、窓口の小柄な駅員が顔も上げずに切符を差し出す。

 手のひらに触れた厚紙が、妙に現実的な重みを持っていた。

 片道八時間以上。

 それは、ただの紙ではなく、日常からの隔たりを保証する通行証だった。


 ホームに出ると、目の前には下りの汽車が停まっていた。

 こちら側、ハンサ村方面の車両。

 煤けた鉄の車体から白い蒸気が吐き出され、金属の匂いが風に混じって漂ってくる。

 乗り込む人々の姿がちらほらとあり、馬車の荷を積み込む音が遠くで響いている。


 だが、自分たちが乗る上りはまだ来ていない。

 駅員が立て札を掛け替えるのが見えて、あと十分ほどかかるとわかった。


 「……来てないね」


 エルがそう呟き、荷物代わりの小さなバスケットを足元に置いた。

 ソラは無言で頷き、軍服のポケットに手を入れた。


 待ち時間というのは、どうしてこうも落ち着かないのか。

 ただ立っているだけなのに、体の芯がむずがゆい。

 聞きたいことがいくつもあった。

 ダルムバッハで誰に会うのか、どうして自分を連れて行くのか。

 けれど、ここで問いかけたところで、エルが答えるとも思えない。


 ホームの向こう側、下りの車両から降りてきた乗客が談笑しながら去っていく。

 旅の終わりの顔をしている人々と、これから旅を始める自分たち。

 それだけで、この場所が境界線のように思えた。


 エルは黙って線路を見つめていた。

 細い足首に絡む足輪の感触を、ソラは意識してしまい、すぐに視線を逸らした。

 時間を埋めるために、ソラは話を振った。


 「で、ダルムバッハには、何の用で行くんだ?」


 エルは少しだけこちらに顔を向けたが、答えは簡素だった。


 「人に会うの」

 「誰に?」

 「秘密」


 そこで会話が途切れる。

 ソラは話題を変えた。


 「俺がいない間、村ではどうだった?」

 「特に何も」


 淡々とした返答。

 それ以上は続かない。

 彼女が話したがらないのか、自分が聞き出すのが下手なのか。

 いずれにせよ、言葉は空気に溶けて消えていく。


 足元の石畳に目を落とし、沈黙が重くなっていくのを感じる。

 近くで売られている揚げ菓子の甘ったるい匂いが漂い、余計に居心地が悪くなった。


 ホームに置かれた時計の針がじりじりと進む。

 十の数字を指し示す前に、遠くから低い轟きが近づいてきた。

 レールの振動が靴底を震わせ、かすかな風がホームの空気を押し動かす。


 「来たね」


 エルがぽつりと言った。

 視線の先に、黒い車体が近づいてくる。


 蒸気の白い靄が広がり、金属の匂いと熱気が一気に押し寄せる。

 ソラは深く息を吸った。

 会話の残り火のようなざらつきを、肺の奥で押し殺すように。


 低くうねるような地鳴りが線路の奥から迫ってきた。

 レールが鳴き、ホームの床がかすかに震える。

 黒鉄の巨体が蒸気を吐き上げながら姿を現す。

 煤で黒光りする車体が、軋む金属音とともにホームを覆い尽くした。

 それは見慣れたはずの光景だった。


 ソラにとって、汽車は半年ごとに往復するただの移動手段だ。

 帝都ダルムバッハとハンサ村をつなぐ、時間を埋めるだけの道具。

 だが今日のそれは違って見えた。

 この旅の意味が、ただの帰省や帰還ではないことを、無言で突きつけてくる。

 その差異が、鉄の塊を異様なほど大きく感じさせた。


 エルが修道服の裾を押さえ、初めて見るものに近づくような慎重さでホームの端まで歩く。

 その仕草のどこかぎこちないところが、彼女が滅多に汽車に乗らないことを物語っていた。


 ソラは一歩先に進み、先導するようにステップを上がる。

 鉄の手すりの冷たさが掌に張り付き、足元から伝わる重い響きが体内に沈んでいく。

 慣れたはずの感覚が、なぜか今日は落ち着かない。


 エルも後を追い、扉をくぐった。

 中は油と鉄と人いきれの匂いで満ちていた。

 革張りの座席が軋み、会話と荷物のぶつかる音が交錯する。

 エルは一瞬立ち止まり、周囲を見回した。

 その横顔に浮かんだ小さな緊張が、ソラの胸にちくりと刺さる。


 扉が重く閉じ、汽車が内部の熱を吐きながら唸り続ける。

 車内の鈍い明かりが現実を支配し、外の世界はもう遠い。


 革張りの座席は使い古され、背もたれの縫い目に小さな裂け目がある。

 車輪が重く回り始め、鉄路を噛む規則的な振動が足元から伝わってきた。

 ソラにとっては何度も経験した感覚だ。だが、今日は違う。

 半年ごとに繰り返してきた単なる帰路の一部ではなく、不可逆な何かが始まる予兆を帯びている。

 そのせいで、馴染んだはずの鉄の匂いさえ、胸の奥をざわつかせた。


 エルは窓際に座り、視線を外に固定したまま動かない。

 村の駅を離れるとすぐ、空は赤みを帯びた灰色に変わり、夜と朝の境界が後方へと遠ざかっていく。

 その光を、彼女は見逃すまいとでもいうように、まばたきもせず追い続けていた。

 汽車に乗り慣れない者の、緊張と好奇心の入り混じった視線。

 ソラはその横顔を盗み見ては、何か話しかけようとしたが、言葉は空気に紛れて消えていった。


 村を離れて一時間もすると、窓外は見渡す限りの丘陵地帯となった。

 青く茂る麦の穂が風にたなびき、線路沿いの林からは鳥の声が絶え間なく響く。

 季節は盛夏。車内の空気は早くも湿り気を帯び、吐息が重くなる。


 ソラは再び口を開く。


 「ダルムバッハで、誰に会うんだ?」


 エルは少しだけ首を傾けたが、答えは一言。


 「人」

 「……誰?」

 「秘密」


 それ以上は続かなかった。

 会話の糸口は見つからず、沈黙が二人の間に根を下ろす。

 汽車の揺れが、むしろその沈黙を強調しているように感じられた。


 途中駅で乗客が入れ替わる。

 農夫風の男が大きな籠を抱え、軍帽をかぶった中年兵士が乗り込んできた。

 それぞれが会話し、荷を置き、匂いとざわめきが満ちていく。乾いた藁の匂いと金属の油の匂いが入り混じり、長旅の汗と汽車の鉄臭さに重なって、車内の空気をさらに濃くした。


 そんな雑踏の中でも、エルはひとり外を見つめ続け、村の延長のような景色を眼に焼き付けていた。眼差しはどこか遠く、目の前を過ぎる畑や林を見ているのか、もっと先の何かを見ているのか判然としなかった。


 やがて太陽が車内を白く照らす時刻になった。時計の針なら十一時を指している頃だ。朝から座りっぱなしの身体はじわじわと重く、硬い座席に押しつけられた尻や背中には鈍い痛みがこもっている。ソラは軽く伸びをして背を鳴らすと、持ってきたサンドイッチを取り出し、エルにも差し出した。


 「食べる?」


 靴を脱いで向かい側──ソラの側のシートに足をかけて膝を抱えていたエルは小さく頷き、ためらいなく受け取った。脱いだ足裏に触れる床は冷たく、汽車の細かな振動がそのまま伝わる。

 昼食と呼ぶにはささやかな食事。だが、腹を満たす以上の意味があった。

 言葉はなくても、一緒に食べるというだけで、どこか少しだけ近づけた気がする。


 満腹のあとの眠気が車内を支配する。

 車輪のリズムが子守唄のように続き、幾人かは座席で眠りこけていた。

 ソラも目を閉じたが、眠りには落ちきれない。

 隣のエルが時折姿勢を直し、窓外を見やる気配だけが、意識の底で途切れず残っていた。


 午後に差し掛かると、景色が変わる。

 草原は消え、無骨な石造りの小屋や、煙突から煤を吐き出す工場が現れた。

 焦げた油と煤煙の匂いが窓の隙間から入り込み、肺を重たくする。

 都市の匂いだ。帝都が近いという合図だった。


 エルは初めて、窓から視線を引き、息を吐いた。


 「……変わってきたね」


 その声は、旅の終わりを知る者のものでも、何かを覚悟する者のものでもあった。


 ソラはその声をどう受け止めればいいのかわからず、ただ頷く。

 この旅の本当の目的も、彼女の真意もわからない。

 わかるのは、帝都という巨大な口が、自分たちを飲み込もうとしているということだけだった。


 列車は速度を落とし、連結部の軋む音が長く尾を引く。

 窓の外には整然と並ぶ建物群、石畳の広い道路、列をなす馬車と人々。

 田舎の景色は完全に消え失せ、帝都ダルムバッハの輪郭が目前に迫る。


 ソラは深く息を吸った。

 半年ごとに訪れてきたはずの街が、今は異質な重みを持って見えた。

 エルは黙って座席の端で手を組み、指先に力を込めている。

 その仕草の意味を、ソラは問えなかった。


 ──軍服の少年と修道服の少女の長い旅路は、こうして始まった。

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