第21話 バイバイ
ぽたぽたと服の中で滴る雨粒が冷たい。気持ち悪いはずなのにとても心地よくて、胸いっぱいに風を受ける。冷たいのに、寒いのに、危ないのに。坂を駆け下りる自転車は無意識にもブレーキをかけることを忘れていた。
このまま身体がロケットになって飛行機雲を燻る雨雲の一つになれたらいいのに。きっとどんな人にだってすべてを投げ出したくなる時はあって、私も今その時間を生きているのだと思う。共感が欲しいわけではない。ただ理由が欲しかった。だからこの気持ちは誰にも言えない。全てを諦めてしまいたいなんて言うのは私の傲慢さでしかないから。
『キリキリキリ……』
自転車が小刻みに揺れ、ハンドルの制御が利かなくなる。
『ガガガガッビちゃっ』
横転して身体を投げ出される。痛い。腕も頬も背中も。それでも雨はやむことを知らない。
「違うやろ……未央ちゃん探しに行くんやろ、井戸子」
自分にそう言いきかせながら体を起こすと、再び傷ついてしまった自転車にまたがり、防波堤の方へと自転車を走らせた。
最悪な状況を避けたかった。
「未央!どこやー!未央ー!」
呼びかける声は嵐の中に消えていくようで、もし未央ちゃんがこの近くにいたとしてもこの声が聞こえているとは思えない。
「未央ーーー!みんな心配しとる、帰ってこいよ!」
「お姉ちゃん?」
防波堤の下の方から声がする。
「未央ちゃん!」
覗き込むとそこには身動きが取れない未央ちゃんがいた。この海は満潮時、防波堤から砂浜に降りるための階段付近から潮が満ちることがある。そうなると砂浜は孤立した小さな島のような状態となり、防波堤を上がるには自力でよじ登るほかなかったのだ。
防波堤は子どもにとって高すぎる。井戸子にすら砂浜から防波堤を登れるかどうかは怪しかった。
「待っとき、今行くから」
高さのある防波堤を飛び降りる。
『ドサッ』
「痛ったい!」
「お姉ちゃん!?大丈夫?」
「いててててて……平気や。ちょっと足ひねっただけ。ほら、未央ちゃん行くで。お母ちゃん心配してたで」
井戸子は未央ちゃんを抱え、防波堤へと持ち上げた。未央ちゃんの手から小さな貝殻がいくつか落ちる。
「未央ちゃん、公民館まで走れるか?」
「うん。お姉ちゃんは行かへんの?」
「私も登ったらすぐ行くよ」
井戸子は辺りを見回した。手をかけられる場所はどこにもない。
「未央ー!ここにおったか心配したで」
未央ちゃんの背後から遅れてやってきた圭介が合流した。圭介が未央ちゃんを防波堤から道路側へ降ろす。
「圭介か!?丁度よかった、未央ちゃん公民館まで送ったってや。そこにある自転車も使ってええから」
「何言うとるんや、お前も早う行くで」
圭介は身を乗り出し、砂浜にいる井戸子に手を伸ばす。
「すぐ行くって。先行っといて私おったら足手まといや」
「お前それ来る気ないやろ。自転車まで寄越しておかしいもん」
「圭介」
井戸子は未央ちゃんに聞こえないように声を抑えた。
「足くじいてん。そっち上がっても走れへんし、いや多分上がられへん。やからさ、小絵の子と頼むよ圭介」
「もう分かったて。ええから。今はお前を助けたいんやワシは」
顔をゆがめる圭介の顔に流れるのは涙なのか雨粒なのか分からない。ただ圭介の声はいつも以上に掠れていた。
「はよう行け」
「わかった。……井戸子、冷静になれんくてごめん。戻ったら救急隊に伝えるから、頼むからそこにずっと居ってくれよ」
そう言い残すと圭介と未央ちゃんは遠くへ駆けた。佇む防波堤の奥で自転車のスタンドを蹴る音が聞こえた。
「バイバイ」
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