第6話 心の一番弱いとこ
「何て呼べばいいですか?」
彼女の言葉に、ぼぅっとしていた頭の中が途端に現世に戻される。
「えぇっと、じゃあ井戸子……で」
「ふーん。井戸子ちゃんね」
ちゃ、ちゃちゃんんん!?!?
「そそそそれでお願いします」
芦戸居井戸子は人見知りである。生前友達を作らなかった彼女には人間の友達との接し方がわからない。
「私は……」
「朝比奈さんって呼ばせていただいてもよろしいでしょうか」
「いいですよ全然。にしても固いなー」
朝比奈杏はふふふと笑うと二人分のお会計を済ませて言った。
「今日は私の奢りです。また行こうね」
ニコッとはにかんでその場を後にする彼女は井戸子にとって死後初めての友だち、まるで太陽のように見えた。
(私たちのせいで浅井沙那という一人のアナウンサーが行方不明になってしまった事実はどう足掻いても変わらない。朝比奈さんは彼女を探して記者になったらしいけど、この真実を知ってしまったらきっと傷つくだろうな)
「ダメダメ、今はイアンのお子さんの容態を優先しないと。すべては私たちの研究にかかってるんだから」
『幽霊の正体について』論文発表から僅か2日後のことであった。
*
「ただいま」
「おかえり」
家に帰ると挨拶が帰ってくるという当たり前の感覚にまだ慣れない私は、そのむずがゆさを真っ向から受けないよう少し身をかがめてしまう。
「どうだった?その身体での初めての外出は」
早速カルロから質問が飛ぶ。
「やっぱりちょっと重いな。生前もこんな感じだったんだろうけど、さすがに幽霊でいた時間が長すぎて忘れちゃってる。慣れるまではまだ時間がかかるかも。でも味は問題なく感じるよ。特に新作のケーキは当たり!おすすめ!」
「そうか、ありがとう」
手でグッドサインを作る私をみて微笑むカルロは、私から聞いたことをそのままメモしてくれているようだった。
「それと、友達ができた」
メモをしていたカルロの手が止まる。
「お前、案外ちゃんと人間みたいだよな。一緒に過ごした時間が長かったから気にしてなかったけど、何というか今でも年頃の時間を生きてるというか」
「いや私人間ですけど!?幽霊になる前は普通の女子大生(と同じ年齢)だったんですけど!?」
「あそうか。いやでもそれだけじゃないんだよ。井戸子が亡くなったのは確かに20歳だが、その後幽霊として二十年の時を経ている。単純に四十年分の経験がありそうなものなのに、井戸子はいつも若々しいなって思うんだよ」
「確かに私まだ自分の中で20歳の感覚が抜けきってないかも。え!もしかして痛いお姉さんとか思われてないかな!?自分の今までのムーブを思い出せば思い出すほどぞわぞわしてきたよ……」
「そんなこと思ってないよ」
カルロは清々しいほど純粋に笑ってみせ、それから真面目な顔をする。
「過去を振り返りたくないほど呪っているのは俺たちの方だ。俺たちは事実に固執していたんだ。芦戸居井戸子を元人間としてではなく、幽霊、未知の存在という大きな括りでしか見ていなかった。だから……」
「いいよ。過ぎたことに何を言ったって意味ないって言ったのカルロでしょ?今から培っていこう。研究は終わってないんだから」
「ありがとう」
「あと私も贖罪なんだけど。早速友達に奢ってもらいました」
「な……」
二人の会話を隅で黙って聞いていたイアンがいきなり口を開く。
「何ぃ!俺としたことがちゃんとお金を渡しておいたというのに、足りなかったか……。次逢った時に必ず返しなさい」
「君は私の保護者か」
イアンの優しさには相変わらずホッとする。残された時間は一年。私はこの一年で今度こそ研究を完結させるための情報を彼らと導き出さなければならない。
私のせいでイアンの子どもが助からなかったら?論文の偽装で消えたアナウンサー浅井沙那が見つからなかったら?私たちのしたことは本当に正しかっただろうか。
不安は募るばかりで、時が経つほどに焦りを感じ続けている。目の当たりにできないままひしひしと近くにいる背徳感は心の一番弱いところに今も少しずつ蠢いていた。
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