第2話:王立ヴィタルナ魔法学園
星々がまだ空に残る夜明け前。青と白の車体に金色の紋章を輝かせた魔法馬車は、静かに石畳を滑っていた。車内では、イルミナがゆっくりと身を起こす。彼女の傍らには、ぬいぐるみのシェルカがちょこんと座っていた。
『おはようございます、ルミナ。そろそろですよ』
師匠から贈られたベルを通じて、シェルカの軽快な声が頭に響く。寝起きのぼんやりとした頭には少し刺激が強い。イルミナは眠い目をこすり、窓の外に視線を向けた。
「おはよう、シェルカ……。まだ外、暗いよ?」
『なにを寝ぼけているんですか、よく見てください!』
シェルカはぬいぐるみらしく静かにしながらも、その小さな腕で窓を指し示した。イルミナはシェルカを抱きかかえ、窓の外を覗き込んだ。
馬車は、巨大な城門をまさに通過するところだった。白亜の城壁からいくつもの尖塔が高くそびえ立ち、その赤い屋根が夜明け前の薄藍の空にくっきりと映えている。
(すごい……師匠が言ってた通りだ……)
思わず感嘆の息が漏れる。初めて見る王都の威容に胸が高鳴るが、同時に、あまりに現実離れした光景に足が地に着かないような浮遊感を覚えた。
『フンッ、見てくれが派手なだけですよ。こんな仰々しい建物、住みにくいに決まってます! お掃除大変そうじゃないですか?』
シェルカのひねくれた物言いに、イルミナはくすりと笑って囁き返す。
「ふふ、でもシェルカも、なんだか楽しそうだよ?」
『むむっ、気のせいです! 本で読んだことのある光景と一緒だな、なんて思ってませんからね!』
慌てたシェルカの早口に、イルミナは再び笑みをこぼした。
その時、馬車が停車し、扉が音もなく開く。ひんやりと澄んだ朝の空気が流れ込んできた。
『おや、馬車の旅はここまでのようですね』
イルミナは立ち上がり、素早く身支度を整える。制服のしわを伸ばし、青のケープを羽織る。帽子を被り直し、肩にシェルカを捕まらせると、トランクケースを手に馬車を降りた。
イルミナが地面に足を下ろすと、魔法馬車は役目を終えたとばかりに静かに滑り出し、朝霧の中に溶けていく。その姿が見えなくなるまで見送り、イルミナは小さく頭を下げた。
(長い道のりをありがとう)
王都ヴィタルナの綺麗に舗装された道を歩く。まだ日も昇っておらず人通りは少ないが、魔法の光が街灯からあふれ、石畳を濡らす朝露をきらめかせていた。どこからかパンの焼ける香ばしい匂いが漂ってくる。活気ある日常の息吹に、心が躍った。
『ルミナ、キョロキョロしてないで、前を見て! お師匠が言っていた目印の、青い尖塔を探しませんと!』
シェルカの声に、イルミナは我に返る。
「そ、そうだよね、ありがとう」
指でシェルカの頭をそっと撫で、歩き出した──その時、すぐそばの路地裏の方向から、ガシャン、と何かが倒れる大きな音が聞こえた。
『おや、物騒な音ですね』
イルミナは迷わず音のした方向へ足を進める。
路地裏では、作業着の男性が座り込み、倒れた手押し車と散乱した荷物を前に途方に暮れていた。
『……先を急ぐ身ですし、見て見ぬふりをするのも手ですが、どうします?』
知らない人と話すのは少し怖い。だが、困っている人を前に背を向けることはしたくなかった。
「……話しかけてみる」
イルミナは小さく息を吸い、震える膝に力を込めて近づく。
「あの、すみません……お困りですか?」
緊張して上擦った声を聞き、男は訝しげに顔をあげたが、イルミナの制服に目を丸くした。
「おお、学生さんがご丁寧に。実は、車輪を止めていた部品がこの通りでな……」
男は、割れて二つになってしまった金属片を見せてくれた。
イルミナは割れた金属片を手に取り、割れた断面を丹念に観察する。(これくらいなら、なんとかなるかも……)
「これがくっつけば、応急処置にはなりますか?」
「ああ、だがそんなこと、簡単には……」
男は半信半疑といった風だが、イルミナは告げた。
「少し待っていてください」
深呼吸し、意識を集中させる。(急がなくていい、正確に……)
手に持った金属片に、白銀の魔法陣が浮かぶ。割れた断面同士を繋ぐ橋渡しを、物質創造魔法でゆっくりと、精密に作り上げていく。
やがて魔法陣の輝きが消えると、割れ目に沿って白銀の線が淡く灯っていた。何度か軽く指で弾いてみても、すぐまた割れることはなさそうだ。
「おおっ、本当にくっついちまった!」
「使えそうでしたら……どうぞ。ただ、お仕事が終わったら、ちゃんとした部品に替えてくださいね」
驚く男に、おずおずと部品を渡す。彼は笑顔で受け取り、手際よく手押し車を修理する。そのまま二人で荷物も乗せてみたが、魔法で補強した部品は、しっかりと重さを支えているようだった。
(よかった、上手くいった……)イルミナはほっと胸を撫で下ろす。
「いや本当に助かったよ。お礼を……」
男が何かを取り出そうとするのをみて、イルミナは慌てて首を振った。
「いえいえ、そんな! 好きでやったことですから! あっ、でも良かったら……」
実は学園へ向かう道がわからないのだと伝えると、男は一度は目を丸くしたが、すぐ笑顔に戻り、丁寧に道を教えてくれた。
「いや、まさか新入生とはね。ありがとうよ」
男はその後も何度もお礼を言いながら、仕事に戻っていった。イルミナは手押し車が無事に進み見えなくなると、ほっとため息をついた。
『……上手くいって何よりです。でも、ああいう時はお礼を受け取るのも筋ですよ? それと、もう少し笑顔を意識しましょう。せっかくの可愛いお顔が台無しです』
いままで黙って見守っていたシェルカが、笑い声を含んだような声を響かせる。イルミナは頬を僅かに膨らませ、指先でシェルカの鼻先を押し込んだ。
(だって緊張したんだもの……)
それでも、人の役に立てたという確かな実感に、心が少し温かくなった。イルミナは軽い足取りで教わった学園への道へと歩を進めた。
教えてもらった通りに街を歩いていると、青い尖塔はすぐに見つかった。──王立ヴィタルナ魔法学園。
敷地を取り囲む金色の高い鉄柵が、王都の街並みとの境界線を示しているかのようだ。正面にそびえる巨大な校舎、その尖塔の頂きには紫色の光球が浮かんでいる。まるで学園全体を見下ろす瞳のようで、どこか不気味な威圧感を放っていた。
その雰囲気に、イルミナの胸の不安がじわじわと膨らんでいく。
『豪華ですけど、ちょっと威圧的すぎますね。でも、ルミナは入学前にヤミクイを倒した言わばスーパーなエリートなんですから。シャキッと胸を張って!』
シェルカの檄に、苦笑する。
「そんなことないよ。倒せたのだって、シェルカと、剣の不思議な動きのおかげで……」
初めてのヤミクイとの戦いを思うと、足が重くなる。剣の予期せぬ動き。ヤミクイの結晶から放たれる赤黒い光。馬車の人々の言葉。そしてどうしても思い出してしまう、5歳の時の記憶。様々な負の感情が絡み合い、冷たく胸を締め付けた。
『またお師匠に言われますよ、「悩みすぎだ」って。それにわからないことを知るためにもここに来たんでしょう?』
シェルカは周りに悟られないよう、僅かに腕を動かし、イルミナの頬をつつく。その柔らかな感触にイルミナはハッとして、かぶりを振った。
「うん……ありがとう、行こう」
意を決し、校門の先へと足を踏みいれる。
──その瞬間、足元で紫色の魔法陣が一瞬だけ瞬いたことに、二人とも気づかなかった。
校門の先は、大きな広場となっていた。早朝ゆえか静寂に包まれ、中心にある噴水からの水音がやけに響き渡る。見渡すといくつも校舎らしい建物が見えた。
ひとまずは正面の一番大きな建物に向かえば何か分かるだろうと、歩き出そうとした、その時。
「イルミナ・セラヴィスさんですね?」
凛とした声に飛び上がりそうになりながら振り返ると、黒髪を低い位置に結び、眼鏡をかけたすらりとした印象の若い女性が、音もなく立っていた。
「私はフィオナ・リヴェル。この学園の教員です。あなたの案内を任されています」
「は、はい! よろしくお願いします!」
丁寧だがどこか冷たい口調に、イルミナは慌てて頭を下げる。
「こちらを」
フィオナは、手にしていた金色のバングルをイルミナに手渡した。
「そのバングルは学生証も兼ねています。授業の出席確認や施設利用に必要なので、常に身に付けておいてください。次に、あなたの生活する寮へ案内します」
彼女は言うが早いか、踵を返して足早に歩き出してしまう。
『ふむ、真面目そうな方ですけど、ちょっと事務的過ぎますね。もっと愛嬌が欲しいところです』
失礼なことを頭に響かせたシェルカを指で制しながら、イルミナはフィオナの後に続いた。
たどり着いた「エリート生徒寮」は、小さな城のようだった。内部も王族の別荘さながらの豪華さだが、その豪奢さに似つかわしくない静寂が漂っている。
『ふむ、朝早いせいか随分と静かですね?』シェルカも疑問を口にする。
「一階に関してはあまり使われていない、と他の寮生から聞いています。……階段を上がって右手が女子生徒用のフロアに続いています、行きましょう」
フィオナの淡々とした説明に、イルミナは頷き、二人で階段を登る。
二階に上がると、そこは名札もない無機質な扉が三つ並んでいるだけという、短い廊下だった。どこか不自然な空間に見える。
フィオナは迷いなくそのうちの一つの扉に歩み寄り、手にしていた鍵を鍵穴へと差し込んだ。すると、扉の名札部分が淡く光り、「イルミナ・セラヴィス」という文字が浮かび上がる。
「魔法によって、鍵に応じた部屋とつながります。ここの三つの扉からであればどこからでもあなたの部屋に繋がるというわけです」
そう説明しながら、フィオナはイルミナに鍵を手渡し、そのまま扉を押し開けた。
中に広がっていたのは、重厚な机に山積みの教科書、魔道具が並ぶ棚。天蓋付きのベッドに、キッチンやバスルーム、そしてバルコニーまで備えた、完璧すぎるほどの空間だった。
あまりに整いすぎた空間に、イルミナは自分が本当にここで生活できるのか想像が追いつかず、軽く眩暈を覚える。
「部屋は自由に使っていただいて構いません。必要なものは揃っていると思いますが、不足があれば事務所へ。それと本日の夕方、同期生の顔合わせがありますが、あなたの参加は任意です。それでは、良き学園生活を」
言い切ってフィオナが去ろうとするのを見て、イルミナはぐっと勇気を振り絞った。ここで聞かなければ。
「リヴェル先生! あの……エリートと呼ばれる人たちは、みんな自分の力をちゃんと制御できているんですか? それとも……私みたいな人も、いるんでしょうか?」
フィオナの足が止まり、眼鏡の奥で瞳が揺れた。彼女は眼鏡を押し上げ、初めて少し考えるような素振りを見せる。
「……エリート生徒は、能力や実績によって選抜されています。制御ができていない、という生徒はここにはいません。あなたのような、というのは……新入生がエリート生徒として入学してくるのは、この学園でも初めてのことです」
少し会話が噛み合っていないような返事に、イルミナは困惑した。
『……この方も多分、理由をご存知ないですね』
シェリカの冷静な声が頭に響く。イルミナは俯くしかなかった。
「……それでは、私はこれで失礼します」
フィオナは一礼し、部屋を出ていった。
「ルミナ? 大丈夫ですか?」
部屋に二人きりになると、ぬいぐるみの振りをやめたシェルカが、ベルを通さずに声をかけてくる。
「うん……でもわからないことだらけで……」
イルミナはその場にしゃがみこみ、力なく答えた。
「あの方はまだお若いようでしたし、もうちょっとお偉い先生を探して、直接聞いてみるのがいいかもしれませんね」
シェルカは真面目な言葉で話を続ける。
「それに……もしも、本当に昔のことが原因だったとしても、入学が許されたということは、きっと力の制御の仕方も、ここでならしっかり学べるということですよ。焦ることはありません」
シェルカはイルミナの手の平に腕を置き、優しく撫でる。その温かさに触れていると、じんわりと胸も温かくなった。
「ありがとう、シェルカ。……そうだといいな」
イルミナの表情が、少しだけ和らぐ。それを見て、シェルカはいつもの早口でまくし立てた。
「ところで、久しぶりにあんなに長くぬいぐるみの振りをしていたら疲れちゃいましたよ! ほら、肩が凝っちゃって。ルミナも大丈夫ですか? わたしをずっと肩に乗せていたから、よく回しておいた方がいいですよ?」
シェルカがわざとらしく細かく動きながら冗談をいう。いつもの調子だった。それがなんだか嬉しくて、イルミナはかすかに微笑んだ。
夕方だという顔合わせまでは、まだ随分と時間がある。「せっかく自由にして良いといってるから」というシェルカの言葉に背中を押され、イルミナは備え付けのバスルームで身を清め、用意されていた予備の制服に袖を通した。少しだけ気分が軽くなるのを感じた。
「ルミナが温まっている間に、いろいろと見つけておきましたよ。学園の地図もありました。やっぱり広いんですねぇ。図書館なんて五つもあるそうですよ?」
「本当にすごいんだね。本は借りられるのかな……。調べたいこともあるし」
イルミナはベッドに腰を下ろし、髪を結びながら答えた。寝る必要のないシェリカは、夜はよく本を読んで過ごしている。いくつか借りておくと時間も潰せるだろう。それに、なにか自分の力のことも分かるかもしれない。
「それもいいんですけど……お腹、空いていませんか? 昨夜から何も口にしていないでしょう?」
言われて、イルミナははたと気がついた。自覚すると、途端にお腹が鳴りそうになる。
「フフ、そういう顔をすると思って、食事ができそうな場所に目星を付けておきましたよ。さっそく、学園探検と洒落込みましょう!」
二人で寮を出て、地図を片手に近場の購買部を目指して歩き始める。
広大な学園の敷地内は、朝の静けさが嘘のように活気に満ち溢れていた。生徒たちの話し声、次の授業に向かう足音。時折、金属のぶつかりあうような音も響いてくる。
地図に「訓練広場」と書かれた場所では、生徒達が物質創造魔法の反復練習を行っているのも目に入った。
『あれを見てるとお師匠のスパルタ修行を思い出しますねぇ、早朝に叩き起こして“創造と回収を100回繰り返せ”なんて言い残して自分は目の前で爆睡するなんて酷いと思ったものですけど』
再び肩に掴まりぬいぐるみのふりをするシェルカが、ベルを使って声を届けてくる。イルミナは口元を地図で隠しつつ、そっとシェルカに囁いた。
「……でもあれのおかげで剣と盾くらいは作れるようになったよ」
『それは、ルミナが100回と言われたら150回やるような、生真面目のおかげだと思いますけどね? わたしなら50回くらいでやめて叩き起こしますよ。目の前で寝てるのもムカつきますし!』
シェルカの冗談に少し頬が上がる。確かに大変ではあったけど、あの頃は自分の力の制御に必要なことだと一生懸命だった。
(結局、まだまだだと私は思うんだけど……。)
ヤミクイとの戦いでの剣の動きを思うと、「大丈夫」などとは口が裂けても言えなかった。懐かしさと同時に湧き上がる胸のもやもやを振り払うように、少し歩くペースを速めた。
たどり着いた購買部はまだ昼には早いせいか、生徒の姿もまばらだ。ちょうど棚にパンを並べている女性店員がいたため、イルミナは話しかけることにした。
「あら、見ない顔のエリートさんね。新しく選ばれた子? 好きなだけ持っていっていいからねぇ」
にこやかな返答に、なんといえばいいかイルミナは戸惑う。するとその様子に気がついたのか、店員は作業の手を止めてイルミナをまじまじと見た。
「もしかして……新入生? あらやだ、ごめんなさい? 新入生でエリートさんなんて初めてみたものだから! 説明しないとよねぇ!」
購買部の女性店員はからからと大きな声で笑う。周りにいた数人の生徒たちの視線が一斉にこちらへ向かうのを感じた。そんなイルミナの状態にはお構いなしに、店員は説明を続けてくれる。なんでも、エリート生徒は購買部の品物がすべて無料であり、学生証バングルをかざせば支払ったことになるという。
「どれにしようかね。王都から直接仕入れているから、どれも焼き立てで美味しいわよ!」
『貰えるというのだから好きなだけ貰っておきましょうよ』
「で……では、何か二つほど、いただけますか……」
シェルカは気楽に言うが、イルミナはとてもそんな気にはなれず、そう返すのが精一杯だった。しかし店員の圧が強く、遠慮がちなイルミナを見て「たくさん食べなきゃだめよ!」と大きな紙袋にあれよこれよとパンを詰め込み、結局、大量のパンを持ち帰ることになってしまった。周りの生徒からの視線が痛い。
(どこか……静かなところで食べよう。)
イルミナは逃げるように購買部を後にした。
『いやあ、あのおばさんもすごかったですね。押しが強いというか、商売上手というか』
シェルカは笑っているが、イルミナの表情は硬い。人目を避けられる場所を探して、黙って歩く。制御もままならない自分が、本当にこんな生活をしていていいのだろうか。
エリート生徒だ、特別だと言われるたびに、心がささくれ立っていく。黙り込んだまま、イルミナは近くの校舎の裏手へと続く小道に入る。地図によれば、この先は行き止まりのはず。ここなら誰も来ないだろうと思った。
その時だった。
「うおっ!」
「きゃっ!」
角を曲がろうとした瞬間、誰かと勢いよくぶつかった。衝撃でイルミナは体勢を崩し、石畳に尻餅をついてしまう。手から滑り落ちた紙袋から、いくつかのパンが地面に転がった。肩に掴まっていたシェルカも宙を舞い、ぽとりと石畳に落ちる。
「ご、ごめんなさい!」
「悪ぃ……って、金か」
ぶつかってきたのは、イルミナより少し背の高い、深い赤紫の髪色をした少女だった。片方の目が隠れるほど長い前髪が揺れている。
少しぶっきらぼうな口調で謝りかけた少女は、イルミナの制服の金装飾に気づくと、ぴたりと言葉を止めた。差し伸べようとした手も、宙でためらうようにわずかに揺れている。その表情は、驚きと警戒が入り混じっているようだった。
そのぎこちない態度に、イルミナの胸がチクリと痛む。まただ。金色の装飾が、見えない壁を作る。
(もう……いい)
ささくれだった心で、イルミナは何も言わずに散らばったパンとシェルカを拾おうと手を伸ばした。
すると、少女もしゃがみ込み、イルミナが手を伸ばすより先にシェルカを拾い上げた。
「なんだ?エリート様はぬいぐるみなんぞ持ち歩……」
軽口を叩こうとした少女の言葉が、途中で不自然に途切れた。みるみるうちに、その顔から血の気が引いていくのがわかる。
返して、と叫びそうになったイルミナも、その表情の変化に戸惑った。少女は、手に持ったシェルカを凝視したまま、動かない。
「……なあ、エリート」
少女はシェルカを見つめたまま、問いかけてきた。その声は静かだったが、有無を言わせない響きを帯びている。
「こいつ……生きてるのか?」
イルミナの心臓が、大きく跳ね上がった。
全身の血の気が引き、師匠との約束が脳裏をよぎる。──『シェルカが生きていると、他人に知られるな』
頭の中が真っ白になる。
「ご、ごめんなさいっ!」
イルミナは叫ぶように言うと、少女の手からシェルカをひったくり、パンもそのままに、脇目もふらず走り出した。
背後で少女が何かを言った気がしたが、聞こえなかった。
(どうして……どうして、わかったの!?)
師匠との大切な約束。それを、初日に破ってしまったかもしれない。恐怖と後悔で、涙がにじむ。イルミナはただひたすら、走り続けた。
一方、その場に残された少女──リゼ・アルカンは、唖然とした表情で立ちすくんでいた。栗色の瞳には困惑が宿る。
「今のは……」
手には、先ほど掴んだぬいぐるみの、柔らかな感触がかすかに残っている。彼女はそっと自分の頬に触れ、風に揺れる長い前髪を指先で払った。
その前髪の奥から現れたのは、淡く光る翠玉色の瞳。色の違う二つの瞳が、イルミナの走り去った方角を静かに見つめていた。
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