【善と悪】「正しくあれ」とは「強くあれ」と同義である。それができない者だけが「悪で何が悪い」と開き直るのだ。
善を貫くことは努力がいる、しかし悪は簡単だ。私たちは努力し、悪に流されないように強くならなければならない
【善と悪】「正しくあれ」とは「強くあれ」と同義である。それができない者だけが「悪で何が悪い」と開き直るのだ。
晋子(しんこ)@思想家・哲学者
善を貫くことは努力がいる、しかし悪は簡単だ。私たちは努力し、悪に流されないように強くならなければならない
権力者には「心」があるのか。人間の顔を見ているのか。それとも、我々をただの「数」としてしか捉えていないのか。近代以降の政治が合理主義・数値主義に基づいて構築されてきた以上、この問いはもはや疑問ではなく事実である。権力者は我々一人ひとりを見てなどいない。彼らが見るのは、グラフと統計と「パーセンテージの支持率」であり、目の前で泣いている一人の人間など見ようともしない。見えないのではない。見たくないのだ。なぜなら、見てしまえば、少しでも心が動いてしまえば、悪を実行するのに支障が出るからである。
権力とは、時に冷酷でなければ維持できないものだ。百万人の暮らしを統治するためには、百万人の物語を無視しなければならない。それは支配者の合理であり、自己防衛でもある。だが、その合理の果てに、人間らしさを失った者が「政治」を行っているという現実がある。彼らにとっての民衆とは、選挙で投票してくれる「票」であり、税金を納める「財源」であり、経済を回す「労働力」でしかない。つまり、数字であり、コマであり、命ではない。こうして「一人」は軽視され、「大衆」だけが一見大切に扱われる。しかし、それは本当に「大衆」を大切にしているのではない。「大衆という力」が恐ろしいからだ。
だが、大衆とは本来、一人ひとりの集まりではなかったか? 一人を軽視するということは、その大衆の構成要素を軽視するということに他ならない。人間を数として扱い、一人に人権がなく、数が揃ったときにだけようやく人間として扱う――そんな社会はすでに倒錯している。人権とは、「人数」によって発生するものではないはずだ。生まれた瞬間から、一人の人間に内在しているはずのものだ。それを「100人になったら聞く耳を持ちます」と言ってのける権力者たちは、もはや民主主義の仮面を被った選別主義者である。
そのような彼らに「正しくあろう」という矜持はあるのか? 本来、政治に携わる者は、自己の快楽や利益ではなく、「公共善」を目指すべきである。しかし現実には、政治家や権力者の多くが、「善」に対して懐疑的ですらある。「善を貫いても意味がない」「善は美辞麗句に過ぎない」「この世界はそう単純ではない」。彼らはそう言い訳しながら、自らの悪行を正当化し、ついには「悪で何が悪いのか」と開き直るに至る。
これは単なる堕落ではない。意志的な脱落である。彼らは自分のしていることが悪であるとわかっている。わかっていながら、それをやる。なぜなら、善であることにはコストがかかるからだ。善を貫くには努力がいる、自己犠牲がいる、痛みを引き受ける覚悟がいる。だが悪は、もっと簡単に手に入る。誰かの苦しみの上に自分の幸福を積み上げればいいだけだ。だから悪は、いつだって「楽」であり、「便利」であり、「効率的」なのだ。
しかし、その「楽さ」は長くは続かない。悪とは、本質的に「破壊する力」だからだ。他者を踏み台にして登った権力者は、やがて自らの足元が崩れていくことに気づかなくなる。悪は他人の信頼を削り、協力を消し、社会の連帯を断ち切る。すると、いずれ誰も支えてくれる者がいなくなり、悪そのものが孤立していく。そして孤立した悪は、自らを疑い始め、周囲に敵を感じ、最後は身内すら粛清するようになる。歴史はそれを幾度となく繰り返してきた。
ナチスもソ連も、最初は「国益」の名のもとに動いていた。しかしその「国益」はすぐに「支配者の都合」へとすり替わり、民衆の自由を奪い、心を殺し、国そのものを崩壊させた。悪は勝ち続けることはできない。なぜなら、悪とは他者を搾取することで成立するが、搾取される側が枯渇すれば、悪はもはや何も奪えない。つまり、悪は自らの土台を喰らって生き延びる自殺者であり、必ずや自己崩壊する運命にあるのだ。
では、善は敗れたのか。否。善は勝たずとも、滅びることもない。善とは、奪う力ではなく「与える力」だからだ。与える者が一人でもいれば、その善意は受け取られ、次の人間へとつながる。悪が人を傷つけるように、善も人を癒す。だから、悪が広がっても、人は必ず善を求めるようになる。傷ついた人間は、やがて「優しさ」や「連帯」を渇望し、悪の終焉を望むようになる。だからこそ、悪は永遠には続かない。そして善もまた、必ずよみがえる。
権力者は、しばしば「人間とはこういうものだ」「世界は綺麗事では動かない」と言って、悪の現実主義を語る。しかしその言葉の裏には、自分が正しくあろうとすることをすでに放棄した人間の悲しい諦念がある。「正しくあれ」とは「強くあれ」と同義であり、それができない者だけが「悪で何が悪い」と開き直るのだ。その時点で彼らは、支配者である以前に、人間としての尊厳を放棄している。
私たちが忘れてはならないのは、悪がどれほど強く見えても、それは長くは続かないという事実である。悪は自らを焼き尽くし、善を恐れ、真実を忌み嫌い、そして最終的には「無力な暴力」によってしか自らを表現できなくなる。そこにあるのは「恐れられることによってしか存在を証明できない」という、非常に哀れな生存形態だ。だから私たちは、悪を恐れてはならない。悪は強いのではない。ただ弱さを偽装するために暴れているだけなのだ。
権力とは、本来「誰かの幸せを守る力」であるはずだった。しかし、現実の権力者たちは「誰かの自由を奪う力」へと変質してしまった。だからこそ、私たちは今、もう一度「一人の人間の価値」を見直さなければならない。一人を軽視する社会に、正義はない。一人を犠牲にして成り立つ幸福に、持続性はない。そして、一人ひとりの命に心を向けることができない者に、政治をする資格など本来ないのだ。
【善と悪】「正しくあれ」とは「強くあれ」と同義である。それができない者だけが「悪で何が悪い」と開き直るのだ。 晋子(しんこ)@思想家・哲学者 @shinko
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