第2話 勇者様

雑巾でバーカウンターの頑固な汚れをこすりながら、額に細かい汗がにじんだ。オーク酒場の午後の陽光はステンドグラスを通り、床にまだらな影を落としている。


「これを使ってみなさい」アードが小さな瓶を差し出した。中には淡い緑色の液体が入っている。「エルフ特製の洗剤だ。酒の染みに特に効く」


瓶を受け取り、興味深そうに振ってみる。「この世界には本当にエルフがいるんだ」


「エルフも知らないの?」近くでグラスを磨いていたウェイトレス、エリーが目を丸くした。「まさか、どこの未開の山奥から出てきたんじゃないでしょうね」


「エリー」アードが優しく、しかし疑う余地のない口調でたしなめた。「リンユエンは特殊な事情がある」


エリーは舌を出し、トレイを抱えて新たな客のもとへ走っていった。私は感謝の視線をアードに向け、洗剤を数滴雑巾に垂らした。染みは魔法のように消え去った。


「わあ! 食器洗剤よりすごい!」思わず叫んでから、また口を滑らせたことに気づいた。「えっと……うちの故郷の洗剤よりいいね」


アードは私の失言に気づかないふりで、水晶のグラスを丁寧に磨き続けていた。陽光が彼の横顔を照らし、柔らかな輪郭を浮かび上がらせる。手首の鉄の鎖はほとんど音を立てず、まるで体の一部のように自然に動いている。


「親父! 麦酒もう一杯!」ひげ面の冒険者がテーブルを叩いて叫んだ。


「すぐにお持ちします」アードは微笑んで応えたが、ふとよろめき、手からグラスが落ちそうになった――


瞬きをすると、アードはバーの反対側にしっかりと立っており、グラスは無傷でトレイの上に乗っていた。さっきの出来事は幻だったかのようだ。


「まいったな……」目をこすりながら聞いた。「ねえ、さっき――」


「リンユエン、地下から蜂蜜酒を持ってきてくれるか?」アードは優しく私の言葉を遮った。「階段を降りて左の三番目の棚だ」


「はい!」私はすぐに気分を切り替え、楽しそうに厨房へ駆け出した。酒場で働き始めて三日、この異世界の全てが新鮮で興味深かった。


地下室はひんやりとして乾燥しており、整然と並んだ樽や棚はゲームのワンシーンのようだ。『蜂蜜酒』と書かれた陶器の瓶を見つけ、手に取ろうとした時、頭上で騒ぎ声が聞こえた。


「魔王タネスの封印がまた緩んでるらしいぞ!」しわがれた声が響く。


私は耳を澄まし、階段にそっと近づいた。


「静かに! 禁句だぞ」別の声が警告した。「だが……王宮で働く叔父が言うには、最近魔法議会が夜遅くまで会議してるらしい」


「二十年前、ガーリン様が命をかけて封印したあの怪物が……」最初の声はさらに低くなった。「もし復活したらどうする?」


「余計な心配をするな! ガーリン様の封印は堅固だ。さあ、飲もう!」


足音が遠ざかっていく。私は蜜の瓶を抱え、考え込んだ。魔王?勇者?なんて陳腐なRPGみたいな話だ……


「蜂蜜酒は見つかったかな?」背後から突然アードの声がして、瓶を落としそうになった。


「び、びっくりした! なんでここに?」


アードは瓶を受け取り、一瞬表情を曇らせた。「客が待っている。何を聞いていた?」


「魔王の話なんだけど……」頭をかきながら聞いた。「この世界には本当に魔王がいるの?」


アードはしばらく黙り、階段を上り始めた。「上がろう。ゆっくり話す」


酒場に戻ると、アードはジュースを注ぎ、隅のテーブルに座るよう促した。


「八十年前のことだ」アードの声は静かだが、驚くほど明確だった。「魔王タネスが魔族の軍を率いて人間の王国に侵攻した。深淵から来た彼は不死に近い力を持ち、行く先々で生きとし生けるものを滅ぼした」


私はストローを噛みながら、瞬きもせず聞き入った。


「最も暗い時代に、ガーリンという勇者が現れた。貴族ではなく、ただの田舎の青年だったが、驚異的な魔法の才能を持っていた」アードは無意識に胸の十字架に触れた。「長い戦いの末、ガーリンは単身魔王の城へ赴き、命を賭けて最終封印術を発動させた」


「伝説みたいな話だね……」


アードは微笑んだ。「王都の中央広場にはガーリン様の像がある。機会があったら見てみるといい。魔王の封印については……」彼の視線は遠くを見つめた。「確かに弱まっているという噂は絶えないが、公式には否定されている」


「老板、詳しいんだね」


「酒場でよく聞く話さ」アードは立ち上がり、私の肩を軽く叩いた。「夕食の支度をしよう。今日はハニーケーキの作り方を教える」


「やった!」私はすぐに魔王のことを忘れ、アードの後を追って厨房に入った。


キッチンにはシナモンとバニラの甘い香りが漂っている。アードはエプロンを付け、優雅な手つきで小麦粉を計量し始めた。お菓子作り中の彼は特に集中力が高まり、炉の火に照らされた淡い青色の瞳は溶けた水晶のようだった。


「まず卵と砂糖を泡立てる」アードは手本を見せながら、鎖が攪拌のリズムに合わせて軽く揺れた。「色が薄くなり、膨らむまでだ」


私は真似しようとしたが、手にべとべとをつけてしまった。「難しいよ!」


アードは笑い、背後に回って私の手を包むように握った。「手首の力を抜いて、腕全体で……」その声は耳元で響き、温かな息が触れた。


私は突然頬が熱くなるのを感じた。アードの服からは日光に晒された羊毛のような、どこか安心させる香りがした。


「ね、ねえ老板」私はどもりながら聞いた。「どうして酒場をやってるの?」


アードの手が一瞬止まり、また動き出した。「美味しいものを食べて幸せな顔を見るのが好きだから」私の手を離し、「さあ、やってみて」と言った。


私は先程の動作を思い出しながら混ぜてみる。今度は少し上手くいった。アードの横顔を盗み見ると、首の金色の十字架が炎の光で奇妙な輝きを放っているのに気づいた。


「その十字架って……宗教的なもの?」


アードの表情は一瞬で変わった。十字架を軽く握りしめ、「ただの古い品物さ」それ以上は話したくないという態度だった。


その時、酒場の扉が勢いよく開き、銀の鎧を纏った騎士が入ってきた。


「アード様! 王宮からの緊急召集です! 北地区で奇妙な疫病が発生し、治癒魔法を使える者全員が出動を命じられています!」


酒場内が騒然とする中、アードはエプロンを外し、「すぐに向かう」と深刻な表情で答えた。私に向き直り、「ケーキは25分焼けば出来上がりだ。酒場を任せる」と言った。


「え、老板って治癒魔法も使えるの?」


アードは答えず、急いでトレンチコートを羽織った。振り向いた瞬間、手首の鎖がかすかに金色に光ったような気がしたが、一瞬で元に戻った。


「また夜に」アードは一言残し、騎士と共に扉の外へ消えた。


私は呆然と立ち尽くした。今日聞いた情報が頭の中で駆け巡る――魔王の封印、謎めいた老板、突然の疫病……これらは何か関係があるのだろうか?


「おい新人!」エリーの声が思考を遮った。「ぼーっとしてないで、客の対応手伝ってよ!」


「はいはい!」私は慌ててケーキの生地を型に流し込み、オーブンへ押し込んだ。この世界にどんな秘密があろうと、今はハニーケーキを完璧に焼き上げることが最優先だった。

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