のま

 本当はこの話はしたくないんです。


 話しているうちに咳が出てしまうのですが、内容が内容だけに信じてもらえなくて。「過剰な演出しなくても」とまで言われます。

 それにいつも最後まで話せた試しがないんですよ。ええ、咳が……止まらなくて。




 その「咳」を聞くことになったのは一年前、あるアパートに越したからです。多少築年数は経ってますが、きれいにリフォームされた二階建ての木造アパートです。その二階の右端、階段側の部屋。もちろん今もありますよ。どなたかが住んでいますね。

 その方にはあの「咳」が聞こえてないのでしょうか。


 私は当時会社を退職して求職活動中でした。前のマンションの家賃は無職の自分には到底払える額ではなかったため、そのアパートへ越してきたわけです。

 そうですね。敷金一ヶ月で礼金不要、即入居可という好物件でしたから、何かあるとは思いました。ええ、ちゃんと物件担当者から説明はありました。

 前入居者の方が病死された。つまり事故物件です。


 エッエッンッンッ……すみません、喉がイガイガして。


 そのアパートは閑静な住宅街の一角にあるのですが、普段は静かで、朝と夕に通勤通学の人々が近くの駅へと行き来するとき、多少賑やかになるくらいです。同じアパートの住民も狭い間取りもあって、せいぜいが二人暮らしで子供の姿も見かけたこともありません。

 ようするに昼間は皆ほとんど出払っていて、自分の息遣いすら聞こえるほどの静かな環境でした。そんなある日、


 ゲッホ ゲッホ ゲホゲホッ


 下の方から誰かの咳が聞こえてきました。ですから最初は下の階の人がひどい風邪を引いたのか、苦しそうだなと思っただけでした。


 ゲッゲッ ハァハァゼロゼロゲホッ ゲホッ ゴホッ


 痰が絡むような咳です。初めは同情していましたが、夕方までほぼ間断なく聞こえてくると、さすがに神経に障ります。早く薬を飲むなり、医者にかかるなりすればいいのにと耳を塞いでみても、まだ聞こえてくるのです。人のせいにしてはいけませんが、咳が気になって履歴書が思うように書けず、思わずペンを壁に投げつけました。


 すると不思議なことに咳がピタッと止みました。


 ゲホッ ゲホン ゲホン


 ああ、すみません。これは私の咳ですゲホッ。やっぱり出始めたなゴホン。


 私がその咳をさすがにおかしいと思いはじめたのは、三日目でした。

 咳の聞こえる時間が決まっているのです。朝は午前五時から夕方は午後五時半頃まで。


 それ以降は嘘のように静かになります。思えば最初にペンを投げつけて止まったと思ったのも、時刻としては五時半頃だったのかもしれません。


 そんなのゲホッおかしくゲホンいですか?


 買い物に行こうと階段を下りると、たまたま真下の住人らしき人物が帰宅したのに出くわしました。私と同年代の若いサラリーマンで、すこぶる健康に見えました。

 ということは、咳の正体は隣か斜め下の住人なのか。

 私は引越してきた挨拶とともに、それとなく彼に話しかけました。


「ずっと苦しそうな咳が聞こえませんでしたか」と。


 すると彼はさっと表情を歪め、何か嫌なものでも見るような目を私に向けたのです。


 なゲホッにかゲホンゲフンガッガッすみません。

 そのとき私も感じました。直感のようなものでしょうか。


「私の前の住人が病死したと聞いたのですが、何かご存知ですか」

 

 重ねて尋ねると、彼は――仮にTさんとしましょう――浅い息づかいでポツポツと語ってくれました。その苦しそうな咳をTさんは二年前、真上――つまり私の部屋から毎日のように聞いていたと言うのです。

 上の住人は四十代の独身男性でした。不規則な仕事なのか夜中に帰宅することも多く、物音をたてられてTさんは何度か目が覚めたそうです。そして二年前、男性が亡くなる少し前から、酷い咳を耳にするようになりました。


 私が聞いたのと同じ絶え間なく続く苦しそうな咳だったそうですが、違うのは一日中聞こえていたと言うのです。おかげでTさん自身も寝不足になり、しばらく経った帰宅後に上の男性を訪ねました。

 は、肺炎にでもゲホンなってるんじゃないか。医者にかかることを奨めようと、ゴホッ。


 ところが応答はなく、その日以来、咳は聞こえなくなったそうです。


 一ヵ月後。

 家賃の支払いがなかったため、男性は発見されました。かなり腐敗は進んでいたようですが、冬場だったのもあり、あまり匂わなかったのでしょう。家族や職場の誰かが気づかなかったのかなどの事情はTさんにもよくわからないそうです。

 おおよその死亡推定日時はちょうどTさんが彼を訪ねた日の夕方頃とされました。死因は肺炎と脱水。大量の吐血の跡があったそうです。それらは警察から話を聞かれた際、Tさんが聞きたくないけれど耳にした情報でした。

 半年ほどかけてリフォームが行われた後、初めて入居したのが私というわけです。


 まだ話せますねゲホンゲホンゲホンよかったゲフンゲホンゼロゼロ……まだ続きがあるんです。


 Tさん自身は私と話すまで、上の階のことは忘れていたそうです。きっとあえて忘れようとしたのでしょう。ただ、私がうるさいくらいに悩まされたあの「咳」を彼は一切聞いていませんでした。休日の昼間、家にいたこともあったようですが。


 嫌なゲホンたしかにゴホン嫌な話ですゲフンゲフン。ただ私も今すぐここを出るわけにはいかず、我慢するしかありませんでした。せめて就職先が決まるまでは。


 変な話ですが昼間部屋にいるのが怖いのもあり、就職活動には積極的になりました。咳が亡くなった男性の霊によるものなのかは何とも言えませんが、とにかく夕方五時半すぎに帰れば、咳に悩まされることはありませんでした。


 それでも日中部屋にいることもあります。その時はTVをつけたり音楽を聴いて、やり過ごしました。

 そうすると気味は悪いけれど我慢できないこともなくて。

 私は窓辺に平机を置いていたのですが、もしかすると亡くなった男性はそこにベッドを置いて寝ていたのかもしれません。咳は主にその辺りから聞こえてくるからです。


 やがて就職先が決まり、私も昼間は部屋を空ける生活になりました。家賃が格安だったのもあり、もう少し貯蓄ができるまで出なくてもいいかと暢気なことを考えはじめてもいました。

 たかだか咳です。咳の音さえ我慢すれば他に実害もありませんでした。


 ところがある週末のことです。

 部屋にいた私はヘッドホンをつけて映画を見ていました。


 ゲホン ゲホッ ゴホッツ


 ああ、また聞こえているなと思った次の瞬間、私は背中に氷水を入れられたように全身を震わせました。


 なぜなら――私自身が咳をしていたからです。


 そしてそれはだんだん間隔も狭まり、息苦しいほどになりました。


 すぐに風邪ではないとわかりました。夕方五時半になると嘘のように治まったからです。

 しかし、その苦しみは週末、部屋にいると必ず起こりました。もうその時は死ぬかと思う苦しさです。息も出来ない位、絶え間なく出るのです、咳が。


 念のため病気を疑って医者に診せました。胸のレントゲンはもちろん、結核の検査もしてもらいました。ところが何の異常もありません。

 たしかに昼間、部屋にいなければ、私は健康そのものなのでした。


 ただ、ここまで聞けば、さすがに誰もが同じことを考えると思います。

 できるだけ早く部屋を引き払う準備をしました。昼間は部屋にいるのを避け、引越しも夜に手配しました。


 ああ、今日は最後まで話せそうです。

 ゲホン ガホッ ガッガッ……失礼、痰が絡んで苦しいので。


 私は引越しました。そしてあの咳ともお別れできたのです。

 今の部屋ではゴホッ何事もなく、快適にゲホッ暮らせています。


 ただ、この話をゲホンゴホンゴホホッ

 誰かにする時だけはゴホンガッゲッ

 こうやってゴホンゲホン

 咳がゴホン出てきて

 ゲホッ苦しいのです……  

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のま @50NoBaNaShi60

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