失われた日々の残響

路地裏の酸性雨は、ヤマシロ会長の流した血をあっという間に薄め、アスファルトの染みへと変えていった。


俺は走った。


どこへ向かうでもなく、ただひたすらに。


肺が焼けつくように痛み、義体化していない生身の足が悲鳴を上げる。


背後で、あの不気味な童謡が反響しているような気がした。


幻聴だ。分かっている。だが、それはまるで呪いのように、俺の鼓膜にこびりついて離れなかった。


どれくらい走っただろうか。


気づけば、俺は自分の事務所のドアの前に立っていた。息を殺し、震える指でキーコードを打ち込む。


部屋に転がり込むと同時に、背後でドアをロックし、すべてのセキュリティを最大レベルに引き上げた。


気休めにしかならないことは、百も承知だ。


本気で俺を消すつもりなら、こんな安物のセキュリティなど、紙同然だろう。


床にへたり込み、荒い息を繰り返す。


ヤマシロ会長の、最期の目が脳裏に焼き付いている。俺の背後を指した、あの絶望に満ちた目。


やめだ。もう、やめだ。


こんな仕事、割に合わなすぎる。


ただの記憶調査のはずが、殺人事件の目撃者になってしまった。それも、依頼人が目の前で殺されるという最悪の形で。


相手は、"ゴースト"を操るような連中だ。


俺のような場末の探偵が、太刀打ちできる相手じゃない。


チップを破壊して、今日のことはすべて忘れる。


それが、賢い選択だ。


唯一の、生き残るための選択肢。


俺はよろめきながら立ち上がり、コンソールに向かう。


ヤマシロ・ミナの記憶が入ったチップを、物理的に破壊するためのツールに手を伸ばす。


だが、指が止まった。


脳裏をよぎるのは、記憶の中で見た、あのノイズまみれの男。


そして、恐怖に歪むミナの顔。


彼女は、なぜ死ななければならなかった?


ヤマシロ会長は、なぜ殺された?


あの"ゴースト"は、一体なんなんだ?


クソッ。


探偵なんて人種は、どうしようもなく業が深い生き物だ。


目の前に転がった謎を、どうしても無視することができない。


「……一度だけだ」


俺は誰に言うでもなく呟いた。


現実から逃げるための、最後の一服。


それが終わったら、この街を出るか、チップを壊すか、決めればいい。


俺はダイブチェアに身を預け、コンソールを操作した。


ヤマシロ・ミナのチップではない。


机の引き出しの奥に、大切に、そして恐る恐るしまい込んでいた、自分自身のチップ。


7年前のあの日。


俺の世界が終わった日の、記憶の断片。


プラグをポートに接続する。


目を閉じると、意識は再び、現実から遠ざかっていく。


目を開けると、そこは俺の古いアパートだった。


今よりずっと小綺麗で、陽の光が満ちている。


そして、彼女がいた。


「ライア、起きて。遅刻するよ」


キッチンから、エプロン姿のユキが顔を出す。


太陽みたいな笑顔。俺の世界の、中心だった女。


「ん……あと5分……」


「もう、昨日も夜更かししたんでしょ。ほら、朝ごはんできてるから」


コーヒーの香ばしい匂いと、トーストの焼ける匂い。


テーブルには、他愛もない朝食が並んでいる。


これが、俺の失われた日常。


爆破テロが、すべてを奪い去る前の、最後の朝。


俺は記憶の中の俺として、ユキとテーブルにつく。


彼女が淹れてくれたコーヒーは、少しだけ苦い。後味が、どこか化学的な味がする。


「ねえ、ライア。今日の夜、楽しみだね」


ユキが、いたずらっぽく笑う。


「ああ。セントラルタワーの、新しい展望台だろ」


「うん。予約、取るの大変だったんだから。絶対、残業とかしないでよ?」


「分かってるよ」


何気ない会話。


永遠に続くと信じていた、幸福な時間。


俺は知っている。


この後、何が起こるのかを。


だからこそ、この一瞬一瞬を、網膜に焼き付けるように見つめる。


ユキが、俺の手に自分の手を重ねてきた。


温かい。だが、生きている人間の確かな温もりにしては、ほんの少しだけ、冷たい気がした。


「最近、元気ないみたいだけど、悩み事?」


彼女が、心配そうに俺の顔を覗き込む。


「……なんでもない」


「そっか。でも、無理しないでね」


彼女は、ふわりと微笑んだ。


「大丈夫、私がいるから」


その言葉が、胸に突き刺さる。


彼女の口癖だった。


根拠のない自信に満ちた、おまじないのような言葉。


その日の夜。


俺たちは、セントラルタワーの展望台にいた。


眼下には、宝石をちりばめたようなネオ・キョートの夜景が広がっている。


「すごい……きれい……」


ガラスに額をくっつけて、ユキが子供のようにはしゃいでいる。


その横顔を、俺はただ見つめていた。


この笑顔を、俺は守らなければならなかった。


なのに。


その瞬間。


世界が、白く染まった。


鼓膜を突き破るような轟音。


遅れてやってきた衝撃波が、展望台の分厚いガラスを、まるで砂糖菓子のように粉砕する。


悲鳴。怒号。


一瞬にして、天国は地獄へと変わった。


俺は、吹き飛ばされそうになる体を必死で支え、ユキの名を叫んだ。


「ユキッ! どこだ!」


煙と粉塵で、視界がほとんどない。


人々の逃げ惑うシルエットが、悪夢のように揺れている。


「ライア……!」


すぐそばで、彼女の声がした。


瓦礫の下敷きになり、片足が動かせなくなっている。


「今、助ける!」


俺は必死で瓦礫をどけようとする。


だが、巨大な鉄骨はびくともしない。


天井が、嫌な音を立てて崩れ始める。


もう、時間がない。


「ライア……逃げて……」


ユキが、か細い声で言った。


「馬鹿言うな! お前を置いていけるか!」


「お願い……生きて……」


彼女の瞳から、涙がこぼれ落ちる。


俺は、ただ、彼女の手を握ることしかできなかった。


無力な自分を呪いながら。


そして、二度目の爆発が、すべてを飲み込んだ。


「……う、ぁあああああっ!」


絶叫と共に、俺はダイブから覚醒した。


頬を伝うのは、汗か涙か、もう分からない。


心臓が、張り裂けそうに痛い。


7年間、何度この記憶をリピートしても、この痛みだけは、決して薄れることがなかった。


俺は、コンソールの前に座り直すと、震える指でキーボードを叩いた。


警察のデータベースに、裏口からアクセスする。


ヤマシロ・ミナ。19歳。死因、薬物の過剰摂取によるショック死。


処理済み、捜査終了。


本当にそうか?


俺は検索ワードを打ち込んだ。


「過去一年」「20歳未満」「事故死」「記憶ドラッグ」。


いくつものデータが、画面に表示される。


その一つ一つを、根気よく調べていく。


30分ほど経っただろうか。


俺は、ある一点に気づいて、息を呑んだ。


この半年で、3件。


ヤマシロ・ミナを含めれば、4件。


裕福な家庭の若者が、自室で、記憶ドラッグの過剰摂取が原因で死亡している。


全員、警察は早々に事故として処理していた。


偶然か?


いや、偶然にしては、出来すぎている。


俺は、ヤマシロ・ミナのチップを、再びコンソールに差し込んだ。


あのノイズまみれの男。


死んだ少女たちの記憶にも、あの"ゴースト"は現れたのだろうか?


もう、後戻りはできない。


俺は、自ら地獄の蓋を開けてしまったのだから。

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