ECHOES OF THE VOVOID

伝福 翠人

雨とノイズと、存在しない男

西暦2084年、メガロシティ「ネオ・キョート」。




この街では、雨はいつも酸っぱい匂いをさせた。




空を覆う鉛色の雲から絶え間なく降り注ぐそれは、巨大なホログラム広告のけばけばしい光を滲ませ、アスファルトを濡らし、人々の安物の義体を静かに、だが確実に蝕んでいく。




俺、ライア・ミカミは、そんな雨が嫌いではなかった。




世界の何もかもが洗い流されていくような、つかの間の錯覚に浸れるからだ。俺自身の、心の澱みさえも。




ダウンタウンの雑居ビルの4階。


すりガラスのドアに、かろうじて判読できる文字で「ライア記憶探偵事務所」と書かれたプレートを掲げたそこが、俺の城であり、ねぐらだった。




室内は、混沌と呼ぶのがふさわしい。


栄養バーの空き袋が小さな山を築き、脱ぎ散らかしたコートが死体のように床に横たわり、用途不明のケーブル類が蛇のようにとぐろを巻いている。




その中心に鎮座するのが、旧式のダイブチェアだ。


無数のケーブルが接続されたその古めかしい椅子こそ、俺の商売道具であり、同時に、この空虚な現実から引き離してくれる唯一の逃げ場所でもあった。




現実の俺は、抜け殻だ。


7年前のあの日から、俺の時間は止まったまま。




だが、この椅子に座り、後頭部のニューラル・ポートにプラグを差し込めば、俺は誰にでもなれる。


英雄にも、恋する学生にも、億万長者にも。




他人の記憶は、アルコールよりも安く、手軽に手に入る鎮痛剤だった。




コン、コン。




雨音に紛れそうな、ひどく控えめなノックの音。


俺はディスプレイに並ぶ無意味な文字列から顔を上げ、重い腰を上げた。




ドアを開けると、場違いなほど上等な生地のロングコートを着た初老の男が立っていた。


その顔には、長年かけて築き上げたであろう富と権威、そして、それらを一夜にして無に帰すほどの、深い疲労が刻まれている。




「ライア・ミカミ氏かね」


静かだが、芯のある声だった。




「あんたが依頼人か。まあ、入れよ。綺麗とは言えないが」




男は、ヤマシロと名乗った。


その名には聞き覚えがあった。ネオ・キョートの上層区に本社を構える、大手義体パーツメーカー「ヤマシロ・インダストリー」の会長。




そんな大物が、なぜわざわざこんなダウンタウンの、ネズミが住み着いたようなビルまで足を運んだのか。




答えは、彼が震える手で差し出した、白金のデータチップの中にあった。




「娘が、死んだ」


ヤマシロは、感情を押し殺した声で言った。


「一週間前、自室で。……警察は、事故だと言っている。違法な記憶ドラッグの過剰摂取による、ショック死だと。だが、私は信じない。あの子は、そんな子ではなかった」




「……それで、俺に何をしろと?」


俺はチップをつまみ上げながら尋ねた。




「娘の最後の記憶を読んでほしい。あの子は几帳面な性格で、毎日、その日の出来事をメモリーログとして記録していた。警察は『プライバシー』を盾に、その中身をまともに調べようともしない。だが、そこに、"何か"が映っているはずなんだ。あの子を死に追いやった、何かが」




チップを受け取り、コンソールに差し込む。


ディスプレイに、ヤマシロ・ミナ、享年19歳、という無機質な文字と、花が綻ぶように笑う彼女の顔写真が映し出された。


写真の中の彼女は、幸福の絶頂にいるように見えた。




「料金は前払いで頼む。口座に振り込んでくれ」


俺は事務的に告げた。


「それと、これは非合法スレスレの仕事だ。警察に嗅ぎつけられても、俺はあんたを知らない。いいね?」




「構わん。金は望むだけ払う。ただ、真実を見つけてくれ。それだけが、私の望みだ」




ヤマシロが、まるで亡霊のような足取りで帰った後、俺は一人、ダイブチェアに深く身を沈めた。




後頭部のニューラル・ポートに、使い慣れたプラグが差し込まれる、ひやりとした感触。


目を閉じると、意識が急速に現実から乖離していく。




さあ、仕事の時間だ。


他人の人生を覗き見る、神をも恐れぬ冒涜の時間が。




視界が、ノイズの奔流から、鮮やかな光で満たされる。




五感を満たすのは、懐かしい初夏の午後の匂い。


青々とした芝生の匂い、湿った土の匂い、そして隣で優しく笑う恋人のシャンプーの香り。




ヤマシロ・ミナの記憶だ。


緑豊かな公園のベンチで、彼女は若い恋人と肩を寄せ合っている。




幸福そのものを真空パックしたような、完璧な光景。


これが、彼女が最後に見たかった記憶なのだろう。多くの人間がそうだ。死の間際に、人生で最も輝いていた瞬間の記憶を、お守りのようにリピート再生する。




記憶の中の時間は、夢のように穏やかに流れていく。


木々の葉が風にそよぎ、木漏れ日がきらきらと地面に落ちる。遠くで聞こえる子供たちのはしゃぎ声。恋人が、彼女の耳元で愛の言葉を囁く。




すべてが完璧で、満ち足りていて、永遠に続くかのように思えた。




だが、俺の意識は、その完璧すぎるほどの幸福さに、微かな違和感を覚えていた。


探偵としての直感が、この甘美な記憶の薄皮一枚下に潜む、異物の存在を嗅ぎつけている。




俺は意識を集中させ、記憶の細部を探る。フレームの隅々まで、音の微細な変化まで、何一つ見逃さないように。




再生開始から、3分12秒。


その瞬間は、何の前触れもなく、唐突に訪れた。




世界が、軋む。




幸福な光景に、テレビの砂嵐のような激しいノイズが走った。


ジジッ、という耳障りな音と共に、恋人の優しい顔が、まるで悪夢のように歪む。


公園の木々がぐにゃりと溶け、青かったはずの空の色が、血のような赤黒い色へと反転する。




「な……っ」




ミナの記憶が、純粋な恐怖に染まっていくのが、俺自身の肌を粟立たせる。


心臓の鼓動が激しくなり、呼吸が浅くなる。




何かが、この聖域を、彼女だけの楽園を、外側から汚染し、侵食している。




そして、"それ"は現れた。




さっきまで恋人がいたはずの場所に、一人の男が立っていた。




全身が、まるで放送事故のように激しいノイズに覆われ、顔も、服装も、その輪郭さえも判然としない。


ただ、そこに「人型の何か」がいることだけが、嫌というほど分かる。




男はこちらを、つまり恐怖に凍り付くミナを、じっと見ているようだった。


その姿からは、何の感情も、意図も読み取れない。


ただ、この世界に絶対に存在してはならないという、圧倒的な「異物感」だけが、そこにあった。




公式記録上、市民のデータはすべて巨大企業メモリア社のサーバーに登録されている。


このネオ・キョートに、データベースに存在しない人間など、いるはずがないのだ。




だが、目の前の男は、どう考えても、明らかに「存在しない」はずの男だった。


ゴーストだ。




ノイズの男が、ゆっくりと、こちらに手を伸ばす。


その動きは、ビデオテープをスロー再生したように、ぎこちない。




ミナの記憶が、声にならない絶叫を上げる。




その純粋な恐怖の奔流が、俺の精神を直撃した瞬間、安全装置が作動し、俺は強制的にダイブから引き戻された。




「……はっ、ぁ……っ! ぐっ……!」




全身にびっしょりとかいた汗が、急速に冷えていく。


心臓が警鐘のように激しく鳴り響き、吐き気がこみ上げてくる。


椅子のひじ掛けを握る指が、白くなるほど震えているのが自分でも分かった。




あれは、なんだ?


単なるデータ破損か?


それとも、誰かが意図的に彼女の記憶に仕掛けた、悪質なウイルスか?




思考を巡らせていると、ふと、外から奇妙な音が聞こえてくることに気づいた。




雨音に混じって、微かに、だがはっきりと聞こえるメロディ。




それは、どこか懐かしい響きを持つ、けれどひどく歪んで聞こえる、古い童謡だった。


俺はよろめきながら窓に駆け寄り、通りを見下ろす。


雨に打たれるネオンの光が、気味の悪い影を落としているだけで、人影はない。




だが、その時。


事務所の向かいの路地裏で、何かが倒れる鈍い音がした。




俺はコートをひっつかむと、錆びた手すりに体重を預けながら、階段を駆け下りた。


さっきヤマシロが消えていった路地だ。




最悪の予感が、冷たい手で俺の心臓を鷲掴みにする。




路地の奥、ゴミ収集ポッドの影に、人影があった。


間違いない。さっきまで俺の事務所にいた、ヤマシロ会長だった。




彼は壁に背をもたせ、ぐったりと座り込んでいる。


その上等なコートの胸には、高出力のレーザーで焼き切られたような、黒い穴がぽっかりと開いていた。


まだ微かに息はあったが、もう助からないだろう。




彼の震える指が、俺を指した。


いや、違う。俺の背後を。




弾かれたように振り返る。




誰もいない。




ただ、酸性雨が降りしきる薄暗い路地に、あの不気味な童謡のメロディが、幻聴のようにまとわりついていた。




手の中には、ヤマシロ・ミナの記憶が入ったチップが、まだ生温かい熱を放っている。




これは、ただの事故じゃない。


俺は、死んだ少女の記憶に触れたせいで、とんでもないものに首を突っ込んでしまったらしい。

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