僕のせいじゃなかった 修正版

在藍隅

短編

昔は楽しかった。それは、まぎれもない事実として僕の記憶の奥底に刻み込まれている。


小さい会社を経営しながらも、忙しい合間を縫って僕と遊んでくれた父。専業主婦として、僕の身の回りのことだけでなく、家の隅々まで気を配ってくれた母。そして、何か怒られるようなことをしても、いつも優しく慰めてくれた祖母。側から見ても、本当に恵まれた環境だったと思う。


小学校何年生だったか、正確な記憶はない。ただ、漠然とした不安が日常に忍び込んできた頃だった。父の会社が倒産したのだ。それに追い打ちをかけるように、母には癌が見つかった。


それからの日々は、それまでの光景とは一変した。父は人が変わったように酒浸りになり、何かにつけては母と喧嘩を繰り返すようになった。食卓では酒の缶や灰皿が飛び交い、幼い僕の目には、それがまるで終わりのない地獄のように映った。お金がなくなり、母は身を粉にして働き詰めるようになり、家にはほとんどいなくなった。僕はその頃の記憶があまりない。いや、正確には「覚えていない」のではなく、「忘れたかった」から、必死に記憶から消し去ろうとしたのかもしれない。ただ、ふとした瞬間に、寂しそうに「ごめんね」と繰り返す母の顔だけが、今でも鮮明に思い出される。


そんな崩壊寸前の家庭の中で、祖母だけは変わらなかった。長年生きているだけあって、様々な苦難を乗り越えてきたのだろうか。それとも、幼い僕を不安にさせないように、必死に取り繕っていたのだろうか。祖母はいつも、僕を近くの駄菓子屋に連れていってくれたり、一緒に畑仕事をしたり、遠くの映画館まで連れていってくれたりした。彼女の存在があったからこそ、僕はなんとか自分を保っていられたのだろう。テストの点が悪くて父に蹴られても、気に食わないことを言われて暴言を吐かれても、祖母は決して僕を責めなかった。反抗することこそなかったけれど、いつも優しく僕を慰めてくれた。僕の居場所は、いつも祖母の隣だった。


しかし、その安息も長くは続かなかった。数ヶ月後、祖母が突然亡くなった。事故だった。あまりにも突然の出来事に、僕は現実を受け入れることができなかった。僕の唯一の居場所が、跡形もなく消え去ってしまった。お金もなかったため、葬儀は小さな家族葬で済ませられた。その時だけは、父も母も声を上げて泣き、僕も人目もはばからずに泣いた。今までバラバラだった家族が、その時だけは一つになったような気がした。まるで漫画の登場人物のように、「ここから一緒に頑張りましょうね」なんて言って、新しいスタートを切れるのではないかと、幼い僕は淡い期待を抱いた。


そんなことはなかった。現実は物語のようにうまくはいかない。父と母の喧嘩は相変わらず続き、変わったことといえば、僕の居場所がなくなってしまったことだけだった。


でも、父も母も、決してそんなに悪い人たちじゃなかったんだ。僕が悪いことをしなければ、基本的に二人でいるときは怒らなかったし、むしろ優しい瞬間のほうが多かった。ただ、決定的に心に余裕がなかったのだと思う。必死に頑張ってきたはずなのに、それが報われなくて、もうどうしようもないほどに落ち込んでいて。自分が余裕がないのに、相手も余裕がないから、いつも喧嘩をしていたのだと、今ではわかる気がする。


そんな家庭は、やがて終わりを迎える。父と母が離婚したのだ。まあ、妥当な選択だったと思う。でも、僕はまだその時小さかったし、なんだかんだ言って、このまま三人で生きていくものだと思い込んでいた。


ある日、父が久しぶりにスーツに身を包んでいた。どこに行くんだろうと思って聞いてみた。すると父は、「パパ、ちょっといってくるから」とだけ言って、家を出ていってしまった。その時は、新しい働き口でも見つけたのかと、これからまた再スタートできるのではないかと期待したのに、父はもう二度と帰ってこなかった。離婚のことを知らされたのは、その数週間後のことだった。「遠くに働きに行っている」という淡い期待は、そこで無残にも打ち砕かれた。


そこから、母との二人だけの生活になった。相変わらずお金はなく、母の精神が不安定な部分はあったけれど、昔よりも仲良く生活できていたと思う。嫌な記憶も色々あるけれど、女手一つで僕を育てようと必死に頑張ってくれていた。将来は、しっかりと恩返しをしよう。勉強を頑張って、よくわからないけれど、とにかく「いいところ」に就職しよう。今考えると、幼いながらに随分と立派なことを考えていたものだ。


そんな時だった。母が亡くなった。癌治療の甲斐も虚しく、遠隔転移しており、もう抗がん剤治療しか残されていなかったらしい。一人で家計を支えるために無理をしていたことも、病状を悪化させてしまったのかもしれない。母が亡くなり、僕は父のところに行くのだろうと思っていた。


すると、遠い親戚だと名乗る人たちが、家に訪ねてきた。確かに昔、どこかで見たことがあるような気がする。彼らは僕を父のところまで連れていってくれるのだろうか。あまりいい父親ではなかったけれど、もう唯一の肉親となった父に、久しぶりに会えるという少しのワクワク感があった。


「お父さんは亡くなってるから、俺の家に住むことになった」


無愛想にそう言われた。父は、母と別れた後も酒浸りの生活を続け、アルコール中毒で死んでしまったという。僕はもう、一人ぼっちらしい。どうしようもない虚無感に苛まれた。いっそのこと死んでしまおうかとも思ったが、そんな勇気もなかった。


そうして僕は、親戚の家に引き取られた。親戚は素晴らしい人で、高校、大学と学費も出してくれ、返す必要もないという。喧嘩らしい喧嘩もないし、毎食温かいご飯が出てくるし、本当に素晴らしい環境だったと思う。でも、なぜかどうしようもなく前向きにはなれなかった。


そうして、僕は大学二年生になった。そこそこ友人もでき、いい成績とは言えないまでも、単位はそこそこ取れていて、順調な大学生活だと思う。でも、なんでだろう。小さい頃に家庭が壊れたのは僕のせいじゃない。そんなことはわかっているのだ。あの時小さかった僕に、できたことなんて何もない。でも、「あの時、何かできたんじゃないだろうか。実は僕が全て壊してしまったんじゃないか」と、ふとそう思ってしまうのだ。そして、「どうせ頑張っても報われない。何にもやる気が出ない。死にたい」そんなことを、一人でいるとずっと考えてしまうようになっていた。


鬱とは違うのだと思う。友人と酒を飲めば楽しいし、大学もまあ行けているし、楽しい時は楽しい。ただ、一人でいるとどうしようもなく考え込んでしまうのだ。


そんな時、大学で変なやつに出会った。そいつは「幽霊やオーラ的なものが見える」というのだ。正直、大学生になってまで中二病かよ、とも思ったが、話してみると面白いやつで、幽霊が見えるとかふざけたことを言うこと以外は、むしろ僕と気が合った。それから僕たちは、よく一緒に遊ぶようになった。


二人で酒を飲んでいる時、そいつは言った。「お前のオーラ、めっちゃ黒ずんでてさ。昔なんかあったとか?」


そんな非科学的なものは信じていない。でも、学校では明るく振る舞っていたつもりだし、そんなことを言われたのは初めてだった。あまり気乗りはしなかったが、もしかしたら、このどうしようもない気持ちを理解してくれる人がいたら、何かが解決できるかもしれない。僕はそいつに、昔のことを色々話し始めた。話し出すと止まらなくて、最後には泣きながら話すことになっていた。


「ああ、そういうことね。今度さ、お前ん家行ってみない?よくないものとかいるかもよ」


そんなわけはないと思った。でも、もし本当にそうなら、全部そいつのせいなのではないか、僕が悪かったのではないんじゃないか。そんな思いが頭をよぎった。


思い立ったが吉日。次の日、車で数時間かかる距離だったが、僕たちは二人で昔の家へと向かった。道中、昔のことはあまり思い出さないように、日頃の話や、テストの話、将来どうするかなど、たわいもない話をした。大して時間はかからなかったように思う。


家に着くと、昔とはずいぶん様子が変わってしまっていた。障子は破れ、壁は汚れ、幼少期を過ごした家とは思えないほどにボロボロだった。手入れをしないと家はこうなってしまうんだと、改めて実感した。


駐車場がないので、近くに車を止め、家まで歩く。すると急に、一人の老人が話しかけてきた。駐車してはいけないところだったかと不安に思っていると、老人は優しい顔で言った。「あらぁ、田中さんとこのようちゃんかい?」


よく見ると、昔隣に住んでいたおじいちゃんだった。懐かしさに胸が締め付けられる。「ようちゃん大変やったねぇ。やっぱり地鎮祭しとらんのがよくなかったんかねぇ」


僕は詳しく話を聞いてみることにした。どうやら僕の家が建っている土地では、なぜか地鎮祭をしておらず、昔、自殺した人がいた土地らしい。そんなことは聞いたことがなかったが、僕を怖がらせてはいけないからと、周りの人たちは秘密にしてくれていたのだという。世間話もそこそこに、僕たちはおじいちゃんと別れることにした。いい思い出ばかりの土地ではなかったけれど、どこか温かい、懐かしいような気持ちになった。


二人で家に入ろうと、鍵を開ける。


「いやぁ、やっぱりおるわ。すごいのが」


隣にいた友人が、顔を真っ青にして言った。


「ちょっと入るくらいなら大丈夫やろうけど、ずっとおったら殺されるんやないか、これ」


僕らは、そこで家に入るのをやめた。おじいさんの話といい、友人の話といい、あまりいい気はしなかった。それに、ずっと住んでいたとはいえ、そんなことを言われたら、さすがに怖くなってしまった。


帰り道、僕たちは二人で話していた。


「やっぱりお前の親とかがそんなんなったの、あの家のせいだったのかもしれんぞ」


友人がそう言うと、僕は思わず応えた。「いやぁ、やっぱりそうなんかなぁ」


そんなことを話していると、僕の心はスッと軽くなっていた。正直、こいつが言っていることが正しいともわからないし、おじいさんが言っていたことも全くの勘違いかもしれない。でも、それでいいのだ。


ずっと、あの家を壊してしまったのは僕だったんじゃないかと、苦しめられてきた。でも、そうじゃないのかもしれないのだ。あそこにいた幽霊のせいだったかもしれないのだ。そんなことないのかもしれない。全部嘘っぱちで、ただの勘違いかもしれない。しっかり調べたら、あそこは何もない、ただの土地なのかもしれない。


そんなことはしない。ただ自分に言い聞かせているだけだという人もいるだろう。それでいい。


やっと僕は、「自分のせいじゃないかも。幽霊のせいだった」と思うことができたのだ。もし将来、僕が自分をしっかりと持てるようになったら、あの場所をしっかりと調べてみるのもいいかもしれない。でも今は、「僕のせいじゃなかった。幽霊のせいだった」そう思いたいのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕のせいじゃなかった 修正版 在藍隅 @aransumisiyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る