絢爛(2)

 世界はいつだって不可解だ。

 唐突に浮かんだその言葉が、水の中に落とされた絵の具のように私の頭の中に広がって、一色になる。


 紅葉が散らばるアスファルトの上を歩いていた私は、頭の中で浮遊しているものを外へと追い払うために、その場で足を止めて、頭を左右に振った。考え事をしながら歩くのはよくないからだ。その考えは、私のような出来損ないの人間だけに限定されるのかもしれないけれど。


 鞄を持ち直した私は、視界の端で揺れている秋桜の花を横目に、駅に向かって再び歩き出した。


 世界には、私のような人間がどれくらい存在するのだろう。普通に焦がれ、平凡に憧れている、もので例えるならば欠損品のような存在。そんな人間である私は、生まれてから十七年の月日の中で、何度も冷たい水を浴びせられるような思いをしてきた。


 理由は単純明確だ。誰もが持って当たり前のものを、私が持っていないから。この世に生を受けた時は持っていたが、それからひと月も経たないうちに高熱を出した私は、生死の境をさまよった時にそれを失ってしまったらしい。物心ついた頃に、母がそう教えてくれた。


(早く、帰ろう)


 いつもよりほんの少し顔を上げてみれば、全てを包み込んでくれそうなくらいに広い空が、見慣れた駅のホームの向こうに広がっている。


 この街の象徴である無数の桜の木が、葉を散らしそうな勢いで吹き荒れる風に揺られていた。その様は、秋の訪れを喜んでいるようにも見える。


(あき、だ)


 頬を撫でた風から、ほんのりと甘い香りがした。恐らく、駅の近くにある老舗の焼き菓子屋さんのものだ。子供の頃からよく食べた、優しい味がするお菓子のにおい。


 ここ数年の間口にしていないから、たまには良いだろう。そう思い立った私は、目的地を駅の向かい側にある焼き菓子屋さんへと変更し、横断歩道へと足先を向けた。


 その時、どこからか飛んできた無数の紙が、私の視界でひらひらと舞った。


 どこからやって来たのだろう。そう思った私は、信号が青に変わるまでのほんの何十秒の時間を潰すために、それらを目で追いかけた。


 飛んできた紙には無数の音符が踊るように描かれている、楽譜と呼ばれるものだった。それが何の曲で、どのような楽器で奏でるものなのかは、その手の知識に疎い私には分からなかった。


 なあんだ、楽譜か。そう口遊んで、目を逸らす。

 その、瞬間。細くて白い手が何かを追うように伸びてきたのが、視界の端に映った。


 誰のものなのだろうという興味から、私の目が動く。

 その手は、あの紙を取ろうとしていた。けれど、吹き込んだ風に邪魔をされて、触れることすら叶わずに、宙を掻いた。


 世界にはやさしい人がいるものだ。私とは違う、持つべきものを持っている人は、やはり違う。


 隣に立つ人が歩き始める靴音を聞いた私は、信号が青に変わったのか、と顔を上げ、一歩を踏み出そうとしたが、信号の色がまだ赤であることに気付き、踏みとどまった。だというのに、隣にいた人は横断歩道の上にいる。


 よく見たら、その人は私が通っている高校の男子の制服を着ていた。少し袖を捲ってしゃがみ込むと、辺りに散らばっている楽譜を拾い始めている。


 何をしているんだ、あの少年は。車が来ているのに、危ないじゃないか。

 向かって来ている車がクラクションを鳴らしているというのに、聞こえていないのか。それとも無視をしているのか。


「(あぶないっ、)」


 私は咄嗟にそう叫んだ。けれど、私の声は相も変わらず今日も無音で、何の音も奏でられなかったこの声は、誰の耳にも永遠に届かず、何度叫んでも、誰の鼓膜も揺らすことが出来ない。

 私は肩に掛けていた鞄を放り、横断歩道の上にいる少年の元へと駆けた。


「(危ないよっ!)」


 駆け寄った私は、楽譜を拾い集めている少年の肩を叩き、魚のように口をぱくぱくと動かした。

 危ないよ、車が来ているよ、と。音を持たない声を、必死に少年に掛けながら、問答無用でその手を掴んで歩道側へと強く引いた。


 振り返った彼の顔には、見覚えがあった。


「(こっちに、来て。あぶないよ)」


 彼は必死に腕を引っ張る私の手と私の口元を交互に見ながら、安全地帯へと足を動かす。やがて、クラクションを鳴らしていた車が通り過ぎ、信号が青に変わった時、私は安堵の息を漏らした。


「(…よかった。けがは、ありませんか)」


 彼は大きな瞳を一度揺らすと、こくりと頷いた。その瞳の色は、灰色だった。今日目が合ったあの子と同じだなあと思い、彼の足元にも落ちている楽譜を一枚拾い、そっと差し出す。


「…ありがとう」


 そう呟いた彼の声が、あの男の子のものであることに気がついた私は、弾かれたように顔を上げた。


 光を受けると灰色であることが分かる大きな瞳に、ぽかんと口を開けて固まっている私が映っている。


 馬鹿だ、私。どうして気がつかなかったんだろう。クラスメイトの顔を覚えられていないのは、私がいつも俯いている所為なのだけれど、まさか彼の——来栖くんの顔すら分からなかったなんて。

 恥ずかしさに、みるみるうちに顔が赤くなっていくのを感じた。


「熱が、あるの?」


「(えっ!?)」


「赤いから。……顔」


 そんな私を不思議そうに見ていた来栖くんが、言葉を選ぶようにゆっくりと声を落としていく。


 私は首を横にぶんぶんと振った。それを見て、来栖くんはふんわりとした笑顔を浮かべる。


 来栖くんは何一つ音を発していない私に、何も言ってこなかった。何も気にしていないようだった。

 てっきり、あなたは声が出ないのですか、というお決まりの質問をぶつけられると思っていた私は、かなり驚いた。

 世界には、不思議な男の子がいたものだ。

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