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 ★

 


 その後、私がしていたのは、幸那があれやこれやと私の顔に塗りたくったり描いたりするのを受け入れつつ、幸那の後ろにある窓の外が暮れなずむのを眺めていただけだった。故郷でも飽きるほど眺めていたはずの夕方の風景が、なぜか少し違って見えるのは、私が置かれている環境が大きく変わったせいなのだろうか。身分が大学生になっただけではなく、高校時代はずっと参考書が友達だった私が今、同級生から顔に落書きを受けているという現在の状況も大きく寄与しているように思えた。

 

 やがて幸那は満足げに息を吐くと、ほれ、と鏡を鼻先に突き出してきた。



「……すごい」

「へっへっへ。もしかしたら、自分の顔をつくるのよりもうまくいった気がするぜ」



 スタイリスト幸那は、誇らしげにそう言った。そんな幸那のすがたより、私は鏡に映る自分の顔に驚くことしきりだった。

 私以外は私じゃないのに、鏡に映る私は、私じゃない。

 単純に、メイクを施した自分の顔を眺めることに慣れていないのは当然だとしても、それ以上に。


 今日、大講義室で見た他の子たちと遜色ないと自己評価できる、小綺麗な「女の子」の姿が、そこにあった。

 


「いやあ、垢抜けたねえ。へへへ」とにやける幸那に、私は訊いた。



「幸那、私にどんな魔法をかけたの」

「あたしゃホグワーツから進学してきたわけじゃないよ。一つひとつ丁寧にすれば、失敗なんかそうそうしないって」

「そうなのかな」

「そうだよ。……それにさ、女の子が可愛くなれるのは、女の子だからなんだよ。メイクやコーディネート次第で、どんな花でも咲かせられるの。それは男には逆立ちしたってできないことだから」

「花」

「大学生なんて時間はさ、せっかく髪もメイクも好きなようにできる期間なんだよ。やれることやっといた方が、後悔しなくてすむと思うな。特に晴子なんて、もともと可愛い顔してるんだし」



 今までの私だったら(どんな花だって、ひとたび咲けばいつか散るじゃないか)と思っていたのだろう。

 けれど、いま胸の中で芽吹いたのは、もっと違った気持ちだった。



 変わりたい。

 変えたい。

 もっと鮮やかに、自分という花を咲かせてみたい。



 こんな気持ちになることなんて、絶対にないと思っていた。なんなら目立たないように、アスファルトの隙間からこっそり顔をのぞかせるタンポポみたいな存在でありたいと思っていたのに。


 私も、人々の目を引くような、鮮やかな花を咲かせたい。

 たとえ相手が誰でも、この気持ちを、傲慢だなんて言わせるものか。

 


「……幸那」

「うん?」

「もっと、知りたい」

「いやん。急に肉食的ね」

「そっちじゃない。メイクの方法」

「ははは。いいよいいよ、先生があたしでよければ」



 惰性で年号や公式を叩き込んでいた時とは、気分が違った。

 その日、私は純粋なる興味、好奇心、向上心のすべてを混ぜこぜにした気持ちをもって、幸那からメイクの方法を教わったのであった。


 幸那はメイクだけでは飽き足らず、ハサミを片手に私の髪型まであれこれとやりはじめた。なすがままになりつつ、私は訊いた。

 

「そういえば、さっきもオリエンの前に訊いたけど」

「んー?」

「幸那は昔から、そんなノリの子だったの?」

「あー、それね。まあ自分からはここまでぺらぺらと喋る子ではなかったかもしれん」


 

 幸那はふいに、声のトーンを少し下げて呟きはじめた。


 

「周りに合わせて生きてきたかな。見た目は派手だったかもしんないけど、うちの高校ってすっごいバカ学校だったから、普通にしてたら逆に浮いちゃうんだよ。化粧したり髪を染めたりしたことも、いじめられたくなかったからそうしただけ」

「そうなんだ。ずっとこうだったのかと思った」

「……ね。あたしがこうやって答えなければ、みんな〝こいつは元々こういうやつなんだろうな〟って思うもんなのよ。たぶん晴子もそう思ってるだろうなーと思ったら本当にそうだったから、なるほどなあって思ったわけ」


 

 幸那の言っていた「第六感って当たるね」とは、このことを指していたのだろう。まあ、厳密に言えばそれは第六感とは違うものかもしれないが、いちいち突っ込むのも野暮なことだと思ったから、私は黙って耳を傾けていた。

 

 

「どうせバレやしないんだから、ずっと私はキラキラしてきましたが何か、みたいな顔して過ごしときゃいいのよ。だから晴子だって、これからいくらでも変われるよ」

「はあ」

「これまで十分、土の中で耐えてきたんでしょ。いい加減、種を割って明るいところに顔出してやんなよ。そうすればどいつもこいつも、みんな晴子のほうを向いてくるから」



 そんなもんなのかな……と、まだどこか、狐につままれているみたいな感覚があった。

 それでも、私の胸の奥では、幸那がそっとまいてくれた水を浴びて、少しずつ芽吹きはじめるものの存在を感じる。


 いずれは身体も頭も硬化して、他人の助言を素直に受け入れられなくなってゆくのかもしれない。

 だとするならば、まだ柔軟性の残っている今のうちに、自分自身を変えることは、いまできる最善のことのように思えた。


 なにより、ただの言葉だけじゃなく、実際に私へ魔法をかけてみせてくれた幸那の言葉なら、水よりもすんなりと浸透してきてくれそうだ。


 訊いた。



「幸那」

「なに」

「つまりは、私が開花したら、幸那も夢中になってくれるってこと?」

「あたしが夢中になったら、たぶん晴子が満開のときにちょん切って、プリザーブドフラワーとかにしちゃうけど」

「ハサミ片手に言わないでもらえますか。怖いんですけど」


 

 手元に残す価値がある、と思ってくれるのなら、それも悪くないけど。


 一瞬でもそう考えてしまった自分のことが、ほんの少しだけ怖くなった。そんなことも露知らず、幸那は鼻歌まじりに、その後も私を練習台にしながらスタイリングを楽しんでいた。


 

 ★



 あの日、私は人生で初めて、家族以外の誰かと能動的にツーショット写真を撮った。誤って消さないようにその写真は保護をかけていて、携帯を機種変更しても一緒にデータを引っ越している。


 幸那のスタイリングで、高校までとは別人みたいになった私。そして、環境によって別人を演じ続けた結果、役柄が自分自身を喰った……という幸那。今だからこそ、どうせなら比較対象としてビフォーの写真も撮っておけばよかった……と思ったりする。


 幾度かの課題を乗り越えて、私と幸那はともに大学三年生となった。所属したゼミこそ違うが、今でも授業を一緒に受けたり、遊びに行ったりする仲だ。磁石みたいに人にひっついていく幸那が友達を増やすほどに、私もその相手との繋がりを持つことになって、スカスカだった頃のLINEの友達リストは、今や見る影もない。


 ふとした時、私はあの日の写真を眺めている自分のことに気づく。幸那との出会いが私にとっての特異点となったことに、疑いの余地はない。交友関係が広がるほど、私の人見知りは半強制的に解消していったし、自分と違う環境で育ってきた人たちとの関わりは良くも悪くも刺激的で、いつも内向的だった私の性格も少しずつ変化していった。


 あの頃に戻りたいとは思わない。

 それでも時々、急に過去を懐かしく思う瞬間がある。時が経ったことで負の要素が弱まっている、ノスタルジア。

 廃墟化した建物みたいに目に見えた劣化はなくても、少しずつ記憶の嫌な部分が壁のタイルみたいに剥がれ落ちて、ただただ(あんな時代もあったよな)と思い返すだけになった、過去の自分のすがた。いずれは今日という日も、そんなふうに、ただ目を細めてしみじみするだけの記憶になってゆく。



 人生とはなんと儚いことだろうか。大学生の今のうちから、こんな縁側で茶をすすりながら考えるようなことに思考を巡らせることもないのに、何をやっているんだか。あと最近の家にはそもそも縁側なんかないんだよな――と思いつつ、読み進めていた文庫本をぱたんと閉じた。たとえ外見が変わっても、読書が趣味なところは今も変わっていない。

 

 

「晴子。随分物憂げな表情で読んでたけど、なんかあった?」



 昼休みの学食で、ランチプレートを食べ終わった幸那が、ニコニコしながら訊ねてきた。

 仲良くなってから知ったこととして、幸那は可愛い子ぶってるわけでもないのに食べるスピードがかなり遅いし、好物のナポリタンやミートソースは八割の確率で服へはねる。そのくせ本人は淡い色合いの服が好きだというのがなんとも絶望的なミスマッチだが、いかんせん可愛らしい彼女の顔つきとはベストマッチしているのが悩ましいところだった。


 文庫本を鞄へ放り込んで、私はまったりした声の調子をつくった。

 


「べっつにぃ」

「怪しいなぁ。また新しい男でも捕まえたか」

「それはないんだけど、まあ、そろそろ喪に服す期間も終わるからね」

 

 

 大学に入学してから初めてできた彼氏という存在の男は、頭の中のゴミ箱に突っ込んだ存在も含めれば、そろそろ片手の指がすべて折れる。恋愛は女に主導権があるんだよ……と私に刷り込んだのは、いま目の前にいる、例によってネイビーブルーの服の上へまばらにコロッケの衣のくずを散らして褐色の星空をつくっている幸那だ。そんなことはないだろう、と思っていたかつての私はもうここにいない。


 恋人として付き合うことに互いの合意が必要でも、その後の交際中の意思決定に大きな力を持っているのは概ね女性側だということは否定できない。需要と供給の関係でそうならざるを得ないのだから仕方がない。そう気づいてしまってからは男性に対する恐怖心も薄れ、数十年前に潰れたおもちゃ屋の看板くらいには色褪せている。


 直近で付き合っていたのは、同級生で水泳部の男子だった。グループワークがある授業で一緒の班になったことがきっかけで付き合いはじめた。水の中で泳ぐのは抵抗がないくせに、私に溺れることにはひどく臆病な男だった。よく言えば凪、悪く言えば退屈な付き合いが続き、私のほうからサヨナラを告げたのが先月のこと。

 もうそろそろ一ヶ月経つしな……と思っているからこそ「喪明けが近い」ということを付け加えたわけだが、幸那はその言葉にツボを押されたらしく、ひとしきり大笑いしたあとで言った。

 

 

「ほんと、その変わりようにはびっくりしちゃうわ。入学した頃はあんなに純真無垢だったのにねえ」

「無垢だったのかもしれないけど、純真ではなかったんじゃね? 私、あの頃は完全なる陰の世界の住人だったし」

「ほんとね……って言ったら失礼になるか。でも、見事に花開いたよね、晴子は」

「それはもう、カリスマスタイリストのご指導の賜物ですよ」



 言いさま、私は幸那に深々と頭を下げる。最近こそYouTubeなどで自学自習をするようになったものの、メイクやファッションに関する知識や技術のほぼ全てを、私は幸那から教わっていた。


 いやいやそんな、と手のひらをクラゲみたいにゆらゆらとさせる幸那。相変わらずその姿は可愛らしいのだけど、今の私は昔と違って、幸那と並んで歩いていても、甲乙つけ難いくらいの外見にはなれた気がする。


 違いがあるとするならば、幸那の笑顔は素直な感情をあらわすものであって、私の笑顔はほとんどそれと同じでも、心との間に薄く「あざとさ」というフィルターを噛ませていることくらいだ。

 ポップ体のフォントで効果音が出そうな笑顔のまま、幸那は言った。



「んでさ、晴子。いつものようにに行かない」



 この「遊び」が、いわゆるplayという単語で表せないものであることを、私は理解している。私と幸那のあいだでしか通じない、いわゆる隠語のようなものだ。


 そもそも「遊び」とはどこからどこまでを指すのだろう。出発点がお人形遊びとかから始まることくらいしか分からないし、ただ集まって戯れるだけなら飲み会だって遊びみたいなもんじゃん……と話したのは幸那だった。確かに私もそう思う。


 手を組むと、その上に顎をのせて、訊ねた。


 

「今日はどこの人?」

「北都学園大のアメフト部」

「はーん。大丈夫なの? ただの大酒飲みの筋肉お化け軍団はお断りだよ」

「大丈夫、大丈夫。あたしの友達もいるから、何かあったらぶっとばしてもらうよ」

「そ。……ま、予定ないし、いいよ」



 大学生の男女の飲み会など、愛でられたい花々と、その蜜を啜りたい蜂の関係性に等しい。今や私も胸を張り、吸えるもんなら吸い尽くしてみろ、と言えるくらいに自信はついた。男はたとえその蜜に毒が混ざっていたとしても、それで死にかけた経験だって、若かりし頃の苦い思い出として語ったら良い。私もまた、遠くない未来に肌が水を弾かなくなり、甘いにおいが打ち止めになる歳になれば、今のような振る舞い方を(馬鹿だったな)と思うのかもしれないけれど、それも良い。



 私は後悔なんてしたくない。

「女の子」でいられるうちは、精いっぱい女の子でいたい。

 いい思い出も悪い思い出も、時間が経てばどのみち美化されるのなら、思い出せる記憶の数は多いほうが楽しいだろう。だけど、過去に思いを馳せるべきタイミングは、少なくとも今日ではない。



 行こう、と私は席を立つ。

 幸那が同じように立ち上がった時、彼女の服に散らばっていた星々たちはぽろぽろと落下して、消えた。




/end/

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かがみよかがみ 西野 夏葉 @natsuha

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