かがみよかがみ

西野 夏葉

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 新生活――という聞こえ方はよくても、私にとってはそれほど重要なターニングポイントとはならない。そんなふうに思いつつ、大講義室の跳ね上げ式の椅子に腰かけて、オリエンテーションの開始を待っていた。


 周りの人たちの協力もあって……なんて偽善ぶったことをのたまうつもりはない。私は自分だけで傷ついて、血を流し、他人を押しのけてこの場所を勝ち取った。それも周りの大人たちに、そうしろ、と言われたからそうしただけの話だ。そもそもが別に大学に来る理由なんか特に思いつかなかったのに、家の教育方針が厳しかっただけで、私は高校を出て更に四年間、勉学へ勤しむ羽目になってしまったのだから。


 ただ、それらしい理由をつけて、ああだこうだとうるさい両親がいる実家から通うことのできない遠くの大学に進むことができたのはラッキーだったと思う。進学によって、一人暮らしを始める口実ができたことはよかった。もともと家事は普段から手伝わされていたから、家のことをするのは特に苦ではない。


 だから尚更、新生活とやらに、新鮮味が感じられない。

 最短で四年後に迎えるであろう卒業式でも、同じことを言っていそうな気がする。




 高校時代は、教師に怒られたいがためかガチガチにメイクをしてくる同級生たちを尻目に、スッピンでの通学を続けた。もともと私はガリ勉の陰キャ女として認識が通じていたし、そのことで揶揄からかわれることすらなかった。

 だから今日もそのクセで、同じような顔のままこの場所に腰を下ろしていることに気づく。一人暮らしをしている部屋が大学から目と鼻の先なだけに、余計に気を配ることを失念しやすい。


 まあ、今日はオリエンテーションと健康診断だけで終わる一日だというし、それでも構わないだろう。終わったらとっとと帰って、ほどききれていない荷物をほどいて―――。



「こんにちはー!」



 勢いよくグラスに炭酸飲料を注いだときみたいに、急に声が耳元で弾けた。私でなくても、誰でもびっくりして身体を震わせることだろう。

 明らかにその声のベクトルは私に向いていた。しかし、私の高校からこの大学に進学してきたのは、私ひとりだけだ。そもそも私には友達がぜんぜんいなくて、他の高校から来た友達がこの大学にいるわけでもなかった。


 にもかかわらず、なぜ私に声をかけるのか?

 声のした方へ、ゆっくり視線を向けてみた。



「ここ、空いてますかぁ?」



 可愛らしい女の子がそこに立っていた。私と違って、とても眩しくて煌めくオーラを撒き散らしている。目に映る笑顔も、たった今ナイフを入れた果物の断面みたいにみずみずしい。

 性別問わず人付き合いになんか興味はないのだけど、きっとこういう明るい女子に、そのへんにいる男どもは簡単にひっくり返るんだろう……とは容易に想像ができた。ともあれ、誰も来ない場所なのに、自分だけが占有する理由もない。


 私は三人掛けの机の真ん中に座っていたから、ひとつ横にずれて、さっきまで座っていた場所に自分の鞄をよけて、空席を生み出す。一応は、彼女の荷物も置けるようなスペースをつくっておいた。



「……どうぞ」

「おっ。ありがとう」



 彼女は私が空けた席に腰を下ろすと、鞄を真ん中の席に置いて、シラバスやルーズリーフを取り出す。その様子を眺めていたとき、私はひとつ気づいたことがあった。家にシラバスを忘れてきたのだ。


 そういえば昨日、夕食を食べ終わってからペラペラとめくって、そのまま机の上へ置きっ放しにしたような気がする。それすらもあやふやだが、他の可能性に思い至らない。何も知らないで話を聞くより、多少はどこに何が書いてあるのかを把握しようと思った結果、本番でそれを丸々忘れてきたというわけで。


 ああもうバカ。ドジ。ドベ。どうでもいいけどドベって何。


 思わず深いため息が、口からこぼれ出ていった。



「……ん?」



 声とともに、彼女の瞳がこちらを向いた。私と違って、きっちり隙のないメイクがなされている。まあもともとの顔もいいんだろうな……というのは、ちらりとその顔を見ただけで想像ができた。


 顔もよくて性格もいいだなんて。これで頭もよかったら最高だけど、この大学の入試レベルはそこそこ高いし、きっと頭もいいんだろう。

 ああもうすみませんでした。

 帰ろうかなもう。



「もしかして、忘れちゃった系?」



 そう問いかけながら、彼女は自分のシラバスを人差し指でつんつんと示す。ああそうだよ忘れちゃった類・ノーメイク目・陰キャ女子科の生物だよちくしょう。こちとら真面目なこと以外は特に何の取り柄もないのに、それすらも自分でおびやかしていることがショック過ぎて、もう自分の名前すら忘れそうだよ。


「うん」という声すらもあげられずに、私は力なく首を縦に振った。

 すると彼女は瞬きひとつの間に、その整った顔を、さっきと同じような笑みに変化させた。



「なあんだ。じゃあもうこれは運命だと思って、一緒に見ようよ」

「へ?」

「初対面で、たまたま一緒の席になったことも、何かの縁ってことでさ。さあさあ、さっさと荷物と席を交換しなさい」

「いや……」

「ほーれほれほれほれ」



 言いさま、彼女は自分の鞄を膝の上に置いたかと思えば、私の鞄をひょいと持ち上げて、鼻先に突き出してくる。荷物を端に置いて、真ん中の席に座れというのだろう。


 私はこんな性格なので、押しにはめっぽう弱かった。鞄を受け取ると、求められるまま尻をずらして、真ん中の席に移動した。

 それと同時に、いつの間にか学務の職員が教壇に立っていて、マイクをぼこんぼこんとやりはじめた。もう今更、席を立つこともできそうにない。私はこの名も知らぬ彼女に甘えて、オリエンテーションの時間を過ごさざるを得ない。


 肝心なところでの詰めの甘さは、昔も今も変わってないんだな。ばか。

 鼻歌まじりにシラバスをめくりはじめた彼女の隣で、私は少しずつ背を丸め、小さくなっていった。

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