日常

 紗英と暮らし始めてわかったことは、一日三度食後に一服することと、チーズケーキが好きなことだ。今の蒔実の興味は全てが彼女に向いている。誕生日が一ヶ月違いだったことも、知れてよかったことのひとつだ。出会って一週間とせずに三十三歳の誕生日を迎えて、一緒にチーズケーキを食べた。

 紗英は週に三日家を空ける。午前九時から午後五時までのパートだ。家から五分とかからず行けるファミレスらしいが、まだ行ったことはない。三日しか働いていないのに暮らしていける財源が最近の大きな疑問だ

 ファミレスで散々ハンバーグを作っているからなのか、紗英の料理スキルは高かった。家で食べたものとはまた違う美味しさで、野菜の新鮮さや肉厚感に私はあっと驚かされた。中でも、デミグラスソースではない紗英お手製のソースで食べるハンバーグが本当に美味しいのである。玉ねぎが関係しているらしいそのソースは、さらっとレシピを聞いてみたもののかわされてしまった。

「紗英さんは、どうして三日しか働かずに生きていけるの?」

 自分の声なのに、まだ寝ぼけた音だと思った。ロールパンを片手に持ち、左目を擦る。本を読んでいた手を止めた紗英は、じっとこちらを見つけた。怒り脳を手放すという本の表紙が見える。

「それを話すにはまだ早いな、私たちは。なんていうか、暗いし。朝からする話じゃない」

「それはそうだけど、私聞く準備はあるよ。紗英さんのこと」

「それは私がどうして父親を殺したかって部分? それこそ話したくない。それを話しても誰も得しないでしょ」

「でも、私はあなたのことが知りたい」

 気づけば目元に力が入っていた。顎を支えていた手が反対へと変わる。こちらが目を逸らさないからなのか、紗英の方が先に顔を揺らした。ひとつため息をつかれた。

「昔から言うでしょ。人に名前を聞く時はまず自分からって。あんたもあるんじゃないの? 傷、というか話したくないこと」

「……でも紗英さん引くかもよ。殺そうとした、なんて感情」

「……人を殺した私が本当に引くと思う?」

 言葉が出ないとはこれを言うのか、と思わず目を見開いてしまった。この人が本当に人を殺しているなら、確かに引くような事態にはならない。まだその言葉を信じられていない自分がいるのは、ただの願望だろうか。だったら話してしまおうかと思うのは簡単だった。

「階段から突き落として人を殺そうとしたの。当たり所が悪ければ死んじゃうなって。でも、やらなかった。止められて、できなくて」

「……で、何でそうしようと思ったの? そいつに振られた?」

「むしろ逆。向井が寛子を性的に見てたから許せなくなった」

 向井はクラスでも目立つグループにいるサッカー少年で、私と同じサッカー部に属している。それほど身長が高くないのに走りの速さでチームにいつも貢献していた。一転、寛子は文学少女だ。その両方を繋ぐ性欲が私は不服だった。

「じゃあ恋する少年少女諸君が憎いんだ、あんたは」

「そういうことじゃなくて、私はただ、私の顔で寛子の体してる女だったら付き合ってやってもいいって言って笑ってるあいつが許せなかったの。寛子は向井が好きだから。体とか顔しか見てないのが気持ち悪い。……私たちを消費してる」

「……悪いけど、その部門は私何も教えてあげられない」

 部門という響きに可愛さを覚えながら、私は赤いパーカーを見つめた。レースに縁どられた真白の下着が見え隠れするので、勝手にドギマギする。

「で、性的に消費されたくなくて、親友のためを騙って殺そうとしたんだ」

「騙るって何?」

「詐称するとか、騙すとか。この場合は殺意の在処を自分から他人のものへと偽った、みたいな感じ? 合ってるかわかんないけど」

 紗英がすらすらと話す言葉はどこまでも清らかだ。私をどこまでも見つめているのに、その顔色は芳しくない。これからどっちの方向に転ぶのか分からないのが些か怖くもあった。

「悪いけど、性差はどこまで行ってもなくせないの。女ってだけで被害者になりやすい瞬間はどうしたってあるし、性欲の強弱とか恋の感じ方もある。男の方が力が強い分、私たち女が武装しなくちゃいけない」

「だったらどうすれば良かったの?」

「そうね、私だったら気持ち悪いくらいは宣言する。私はそっち側じゃないし、そいつに嫌われたって何のデメリットもないんだから」

「でも、クラスの中で私は完全に置かれる立場が変わる。悪人になる」

「そう。……だから、何もしないことが正解なの。加害者になるのだけは絶対におすすめしない。するべきじゃない」

 声を荒らげて怒られているわけではないのに、何かと責められている気がして、私はずっと泣きそうだった。私は、私がそれほど可愛いなんて思っていないのに、寛子の可愛さを無視して私を貼り付けて評価するなんて絶対に間違っていると本気で思う。寛子の体は向井たちのものじゃないだろうと言いたいけど、それをこの人にぶつけてどうなるのか。思いがけず流れた涙を腕に塗りつけながら、紗英が耳に髪の毛をかける横顔を眺めた。

「……想像してみて。あなたが彼を殺した時、テレビで何て報道されるか。残念だけど、それはいじめに値しない。ただ些細な発言がきっかけでトラブルになったって言われるだけ。私が置かれた状況だってそう。そのきっかけでは軽すぎる。軽すぎるの」

 おもむろに立ち上がった背に私は涙いっぱいの視界を当てる。隣に足を伸ばして私の二の腕を撫でた紗英は、そっと私に頭をぶつけた。

「まだ会って一週間だけど、私はあんたが人を殺さなくて良かったって心から思う。この手をそんな簡単に汚しちゃいけないの」

 その細細とした指が蒔実の手を握った。彼女のものと比べると一回り小さい。もう涙が止まらなかった。ただただ滂沱し続ける。隣でくすりと笑って涙を拭ってくれる顔の神々しさに、何も言葉にできずにいる。思いのほか冷たい手だった。

「兄貴に言われたの。理由を聞き出せって。あなたも聞いてたでしょ。トイレの中で」

 返事の代わりに私は精一杯頷く。それをこの人に託した理由が、ほんの少しだけわかった気がした。この人は真っ当で、達観していて、それでいて優しいのだ。

「センシティブな問題だから隠したいならそうするし、何か別の理由を作るなら付き合うわよ。どうしたい?」

「一緒に考えて。殺そうとした理由。寛子にそのことを伝えたくない、私」

「うん」

 撫でていた手を最後に叩いてから、紗英は波のように引いて行った。真っ直ぐとした足取りは、冷蔵庫へと向かった。お茶を取りに行くのだろうか。紗英はコーヒーや牛乳、お茶を切らすことがない。煙草を吸うと喉が渇くと言っていた通りだ。朝の分の煙草は吸ったのだろうか。紗英は私の分のコップと共に、少し高い烏龍茶のペットボトルを持ってきた。

「そもそもの話よ。私は同級生を殺そうと思ったことがないの。だからいい答えが出るとは約束できない。いいわね?」

「……普通人を殺そうとすることはないと思う」

「でも人間って邪悪だから、頭の中で人を殺す人もいれば、本気で人を殺してやりたいと思う人もいる。もちろん人を殺した私を含めてね」

「私も頭の中で殺せば良かったのかな。向井のこと」

「でも結局それって何も改善しないじゃない? 性欲があることは人間には否定できないんだから。ただそれを笑って陰口で言っていること、その内容が面白くない。……クラス替えは一年に一度?」

「うん。七クラスあるから、嫌でも離れると思う」

「田舎じゃ考えられないマンモス校ね」

「紗英さんの学校は何クラスだったの?」

「多いところで三つ」

 小学校と同じだろうか。それは少ない。紗英の解像度が上がっていくのが変わらず嬉しくて、私は頭の中でメモを取った。

 音を立ててお茶を注いだ手が私の前にコップを置いた。自分は透明のグラスで飲みながら、自分の前にはピンクのコップを置いてくれるのがどうしても優しく思えた。

「向井に何かされたって嘘をつくのはいけない?」

「もっと悪化するでしょ、それじゃ。最悪親が出てくる問題になりかねないと思う。やってもないことでクラスに悪評が出回るのって誰でも嫌でしょ」

 時計が鳴る音を何度か聞いた気がする。それなりに時間は経っていた。やっとのことで思いついた可能性を、私は口にした。

「好きだったってことにするのはだめかな。寛子の恋心を知りながら向井を好きになってしまったから、寛子が好きだと発言した向井にどうしても何か言いたかった」

「そうね。それが及第点かもね。相手も性欲の部分は隠したいだろうし、なかなか納得は行く気がする。でもそれじゃあなたは向井のことが好きというレッテルを貼られ続けることになる。それはどうなの?」

 耐えられるのか聞かれたのだろう。確かに気に入らないが、両親や教師に私の顔で寛子の体をした女なら付き合ってもいいと発言した事実を伝えて苦しめるくらいなら、私が率先して嫌われに行った方がいい。そう思うくらいには、寛子が大切だった。たった一人の親友だ。

「私それでもいいよ。でも、なんか今さら泣きそうになってきた」

 私は急激に苦しくなるのを自覚した。自分の抵抗手段が向井を殺そうとすることだったのはどう頑張っても間違いだったと理解したせいだった。正しい対処法なんてわからない。それでも、殺そうとする手段を選んだのは確実に間違っている。こっちを見ていた顔が囁いてくる。

「怖い? 自分が。人を殺そうとした自分の人生が」

「ずっとわかんなかったの。どうしてそんな思考になったのか。殺さなくて良かったなって、今心底思ってる」

「人は瀬戸際に立たされると間違えることもあるの。だからってあんたは間違ってないとは言えないけど、人間ってそういうもんなのよ、きっと」

「紗英さんはなんでそんなことが言えるの?」

「……私が実際に殺されかけたから」

 時折この人のことがわからなくなる。父親を殺したろくでなしだという言葉はすっかり忘れていた。どこまでも澄んでいる顔だから、疑うのも野暮だと思った。首を絞められたのか、誰かに突き落とされたのか、鈍器で殴られたのか、何かで刺されたのか。どこかに正解がある気がして考えるのが蒔実は恐ろしくなった。

「……プリン残ってたっけ?」

 軽快に立ち上がった紗英が言う。

「ないと思う。昨日食べちゃった。ダメだった?」

「別にいいわよ。美味しかったでしょ、あれ」

「また食べたい。あれどこのプリン? ケーキ屋さん?」

「私のことが死ぬほど好きな女の手作り。また頼んどいてあげる。たぶんそのうち会いに来る頃だし」

 死ぬほど好きという言葉に出会った覚えがなくて、お茶をこぼしそうになったがあわててコップを持ち直す。ぎりぎりで回避した口で飲む烏龍茶は染み渡るようだった。

 なんとなくつけ続けていたテレビを見た。既婚者の女優と芸人の三股不倫。ツッコミどころが多すぎて連日テレビを賑わせていた。思い入れがないので、興味をそそられていないが、当人を推していたらまた違うのだろうなと思った。けれど、深刻な事件を報じられるよりましだろうかとも思えて、蒔実は暫くの間テレビを見つめた。

 それほど大きくなかったテレビの音だけがしている部屋で、けたたましく音が鳴った。それが透明なカバーをつけた紗英の携帯だと気づいて、そっと手渡してみる。音設定がやけに大きい。そこに理由はあるのだろうか。カバーに挟まれた花が描かれたペーパーを見ながら、タップして電話に出る紗英を見つめる。

「甘いもの食べたくない? こっちにさ、美味しいメロンパンのお店ができたの。今度行く時持っていくから楽しみにしてて。ていうか、紗英ちゃん元気?」

「普通元気って聞くのが先だと思うけど。そうね。甘いものは悪くない。今日も元気だね、莉穂は」

 スピーカーにしていないのに相手の声が聞こえてくるということは、よほど声が大きいのか、設定を大きくしているのかどちらだろうと考えていたのに、相手が名前を呼ばれていることに驚いて私はコップを落としそうになった。ここに来てから紗英にはあなたとあんたというバリエーションでしか呼ばれていない。どくどくと波打つ鼓動が速くなっていく。

「プリンそろそろなくなる頃でしょ。私の手料理足りなくない?」

「プリンちょうど言おうとしてた。人にあげちゃってもうないの」

「ちょっと待って。ストップ。何それ、私以外の女? 許さないよ、そいつに好意ないよね」

「女が好きなのはそっちでしょ。……ごめん、これアウティングか」

 女が好きという言葉をぱっと変換ができず、蒔実は六年ほど前のカレンダーを見上げた。紗英がまだ若い。その隣にはもっと古いカレンダーが置いてあった。写真館で撮ったような写真が一枚だけ棚の上に立てかけられている。

「……そっちに誰かいるの?」

「言ったら莉穂こっちに来るでしょ。だから言わない。それが友達であれ恋人であれ家族であれ、私と莉穂を繋ぐ糸が恋人や夫婦じゃない限り、束縛はできないと思う」

「じゃあ私と付き合う?」

「嫌だよ、めんどくさい」

 めんどくさいと言いながら、紗英の口元は笑っている。ぼんやりとした声を必死に聞き続けながら、プリンと私のことが死ぬほど好きな女という言葉が繋がって、私はなぜか距離を取ろうと立ち上がった。耳を塞いでしまいたいが、聞かないことの方が恐ろしい。

「ねえ、紗英ちゃん。私が憎いなら私をぶん殴っていいからね。めんどくさいことは否定できないし、私は本来憎まれるべき場所にいるし。でも、私はいつも紗英ちゃんに会いたいの。こんな身勝手を許さなくていいんだよ、紗英ちゃん」

「だったらもう二度と会いに来るなって言って、莉穂はそれを守れるの?」

 電話口の声が一瞬止まった。すぐに返事が返ってくることもなく不思議に思っていると、どこかからがちゃがちゃと何かをいじる音がした。電話を切って机に置いた紗英が、そっと玄関に向かってやっと誰かが訪ねに来たのだと蒔実は理解した。その相手は十中八九莉穂という名をした女だ。

「ごめんね、会いに来た。悪いけどこれ持ってくれない?」

 はいはい、と両手に抱えられた箱や袋を受け取る紗英の背中を見つめていたのに、おいでと言いたげに紗英が玄関へと呼ぶので私はびっくりした。紗英は一旦部屋に入りケーキが入っていそうな箱を机に置いてから、私の背を玄関にいる莉穂の元へと導く。

「ちょっと待って。いや待たなくていいわ。……え、紗英ちゃんの隠し子?」

 紗英が笑っている。紗英が私の肩に手を置いているからか、自分の口元を隠せずに俯いて笑っている。隠し子という勘違いがよほど面白いらしい。私には面白さがわからない。肩掛け鞄がずれて落ちそうになり、莉穂はそれをそっと直した。その勢いのままに、玄関へと腰掛ける。紗英がそっとドアをスライドさせた。

「で、この子は何? どこかから誘拐してきたとかじゃないよね」

「ドラマの見すぎ。早く上がって。お茶するでしょ」

 紗英に伸ばされた手で立ち上がりながら、莉穂はずっと紗英を見つめていた。その目がどうしても恋をしている人間に向けるそれに思えて、私は気が気じゃなくなってくる。それがどういう感情なのかは、まだわかっていない。二人の背を追ってリビングへと戻って、開け放たれがちな扉を閉めた。

 紗英に持たせていたケーキ箱にプリンが入っているのは予想通りだったが、その他の袋や紙袋から出てくるタッパーなどは予想外だった。

「……またドーナツ買ってきたの? あんたってやつは」

「うちで甘党なの私だけだから、一人暮らし始めてからこうなの紗英ちゃんも知ってるでしょ。まさか誰かいるとは思わなかったけど、数がある分気が利いてるみたいじゃない? 私」

「たまたまでしょ。しかもドーナツが大きい方の店にして」

「何でも大きければ大きいほどいいんだよ。すいかも、うどんも天ぷらも」

 紗英がいくつかの白い陶器皿を持って、私へと渡した。紗英自身は除菌シートで机を拭いていく。さっきまで食べていたパンを片付けると机は綺麗になって、私は真ん中辺りに皿を置いた。

「で、お嬢さんは何者なの? 本当に紗英ちゃんの隠し子ってわけじゃないんでしょ」

「そうなれなかったから私はここにいるの。もう忘れたの?」

「知ってるから聞いてるの。この子がどこの子か置いておいても、嫌なくらい紗英ちゃんを傷つけるんじゃないかって心配にもなる」

「心配しなくても見ての通り私は平気。あの子の顔、よく見れば少し似てるでしょ」

 口を挟む隙がなくて、自分が誰か名乗れなかった。莉穂と呼ばれた女はじっと紗英を見つめている。その言葉も心做しか強い。電話口で聞いていたより声が抑えられていて、それほど感情が乗っていることを知らせた。

 ドーナツの入った紙袋を卓上に出した紗英は、真っ先に座り込んだ。なんとなく紗英の向かいに座るのは気が引けて、お誕生日席へと座った。渋々と言った様子の莉穂もこちらへと移動してくる。手を合わせてから紗英が袋を開けた。

 私は砂糖をまぶされたプレーンのドーナツが好きだ。袋から覗いたそれを視線で感じ取ったのか、紗英はそっとそれを皿へと盛ってくれた。淡いブルーの花がアクセントになった真っ白の皿にどんと乗ったドーナツ。キラキラして見えて、嬉しくてその顔を見上げた。莉穂の方にいちごチョコのかかったドーナツを乗せていた横顔は少しの間気づかなかったが、こっちを向くと「早く食べたら?」と声を出さずに言った。

「莉穂、自己紹介。順番に名前、出身地、年齢、好きな食べもの、あとはそうね靴のサイズとか」

「それ最後絶対いらなくない?」

「そうね。適当でいいのよ。自己紹介なんて。ほら、早く」

「需要ないでしょ、私の自己紹介。隅野莉穂すみのりほです、出身地は東京都で、って聞かされて何が面白いのよ。靴のサイズは二十五ぴったり。……私の足の大きさ大好きよね、紗英ちゃん」

「だって私と二センチ違うの、どうしたって愛おしいじゃない。あとはそうね、私との関係でも交換したら?」

「それ、この子に言っていいの? 私この子に嫌われない?」

「この子は何も知らないの。別に構わないわよ、知られたって。そうじゃなきゃ莉穂とこんな風に付き合ってないでしょ。違う?」

 チョコドーナツを食べながら、紗英は淡々と言った。何もわからずに行く末を見守る私に、莉穂の視線が刺さった。

「私は、紗英ちゃんが結婚してたろくでなしの姉。もう別れたのにこうして会ってる自分勝手でわがままな女。あなたはそうね、今紗英ちゃんが付き合ってる人の連れ子だとか」

「……姪です。紗英さんはお父さんの妹で」

「そう。いいねえ、君は。なんて重い女みたいか」

 ドーナツを嚥下した紗英がふと莉穂の名前を呼んだ。その顔は驚くほど端正で、強く強く佇んでいる。

「あんたが私の親族なら、こんなに深く関わるのを許してない。私は親戚付き合いが嫌いだし、この子のこともそれほど知らないの。私の隣で笑ってられるのは、莉穂が私と何の関係もない他人だから」

「だって、それじゃあ私と紗英ちゃんの間に何も介在しないみたいで」

「快くない? だったらなんて言葉がお好みかしら。お嬢さん」

「傷がある。私たちを繋ぐあのバカの犯した罪が、私たちをぎりぎりのところで繋いでるの。きっとそれは友達とか仲間とか親族とかそういう形をしていないけど、私はその傷を手放せない。どうしたってそれに縋ってるのね」

「……じゃあ莉穂さんは紗英さんの特別なんだ」

 ドーナツを口いっぱい頬張ろとした手が止まった。私と合わせた視線はどこまでも揺れているように思える。私が姪であることをいいなと言った彼女の方が、付き合ってきた年数の圧倒的な差で愛されていると知らされて、負け惜しみみたいな気持ちもあったと思う。ただ自分の中にあるよくわからない悔しさや嫉妬心をおくびにも出さないようにしたかった。

 特別という言葉の懐は広い。いい意味でも悪い意味でも使えてしまうし、その称号はきっと誰しも欲しくなるものだ。少なくとも私は欲しかった。砂糖をまぶした指先を舐めて、もう一度ドーナツに向き直る。

「誰かの特別が欲しかったら、どうすればいいの」

「それは私に聞くことじゃない」

「じゃあ、莉穂さんでもいいよ。どうしても今知りたいの。私だって特別な人になりたい」

「そうだな、私はこう思うかな。考えること。いっぱいいっぱい考えること。相手を知ることでもいいかもしれない。その人との関係が必ずしも望んだものになるわけではないだろうけど、各々の形を模索するうちにきっと名前がつく。本当に考えた人との絆はきっと消えないからね。私は少なくともそう思う」

「……考えても報われない時はどうするの」

「どうしようね、紗英ちゃん。私ろくなこと言えないや。突っ走ってきたルートが特殊だもん。姪っ子の悩み相談答えてあげて」

 紗英は暫く沈黙した。やがて食べていたドーナツを置いて指先を払ってから、「……私は」と言葉を発した。

「私はろくな人間じゃない。前にも言ったけど私は人を殺してるの。誰かに心を許したいなら、その相手に私を選ぶのはやめて。あんたには未来があるんだから」

 私の代わりに声を出したみたいに、莉穂は紗英の肩を叩いた。その声に少なからず怒りが含まれていて私はドーナツを落としそうになった。無表情で殴られている紗英と、少し顔を歪ませた莉穂とは互いだけを見ていて、なんとなく歯がゆかったが、それ以上に私は眼中に無いのだという無力感があった。すっと部屋の温度が切り変わったみたいだった。

「だったら私はどうなの。紗英ちゃんは私に何を許してるの。切ったらいいじゃない、私を。拒絶されないからこんなに調子に乗ってるんだよ、私は」

「だったら私を忘れて生きられるの? あなたは」

「そう見える?」

 似たような問答を電話口でしていたような気がする。勝手に想像すれば、彼女の弟が紗英さんを傷つけて、結局別れることになった今も加害者の姉ながら関係を続けているといったところだろうか。わからない。わからないけど、この人は怒られたいのだと思った。

 ぴりぴりしている。息をするのも忘れていたからか、冷たい空間にピンポンと鳴る音がよく響いた。インターホン越しに帽子を被った男が見える。紗英はため息を着くとインターホンに出て、玄関へと消えた。

「……こっちに戻ってきてたんだ、田汲」

「あんたの方も。東京で働いてたんじゃなかったの。ずいぶん大きな箱ね」

「お前に夢中になって別れることにした彼女の結婚式に呼ばれて、なんか虚しくなって、どうしようもないくらいに今いる場所じゃないどこかに行きたかった」

「へえ、結婚したの。紫香里ゆかりちゃん。それはそれは」

「何して暮らしてるんだよ、こんなところで」

「ファミレス。パートだけど、私にはこれがあるから」

「そういうところは強かだなって思うけど、なぜか弱く見えるんだよ。お前はどこまでも寂しいな」

「そうね。よく知ってるじゃない、私のこと。……こんなところでくっちゃべってていいの?」

 紗英と話している男の顔を覗き見ようと、引き戸を開ける。がらがらと音を立てて顔を覗かせたからか男と目が合った。すぐに顔を隠すみたいに帽子を深くして、男が去っていく。顔を覗けなくて悔しい私と、ため息を隠さない莉穂との間には溝がある。紗英は部屋にダンボールを運ぶと、電話の横に立っているはさみで、颯爽と箱を切り開いた。

「誰から誰宛の荷物?」

「私宛になってるけど、この子のもの。夏休みの宿題送るって簡素なメールで知らせてきたわ、あの人。あとはお義姉さんが気利かせてくれたんじゃない?」

 三つほどの林檎が上を飾っていた。黄色い林檎はまだ固そうだ。私の好きなもの。紗英はそのうち一つを取ると「供えてくる」と奥の部屋へと向かってしまった。

 私と莉穂は目線を合わせてからそっと中を覗く。下の方にドリルやプリント類があって、その上にテレビに取り上げられるような店のバウムクーヘンが置いてある。これは完全に紗英当てだろう。お母さんらしい。そういえば殺そうとした日の夜は目元を赤くしていた。何も言わずに家を出たこと、あまり良くなかったかもしれない。

「愛されてるんだね、君はずいぶん。目が焼かれそう。悔しいとすら思わない」

「なんで目が焼かれるの?」

「理由なんてない。人間がそういう言葉を作ったから。紗英ちゃんもだけど、私家族環境良くないし大切にした方がいいよ。ご両親のこと」

「私をここに一人置いていくのに?」

 莉穂の目が揺れた。最初は怒りに見えたそれは眉根を引き寄せるものになって、最後には笑いによって細められた。私は怒られるのだと思って視界に力を入れていたけど、そんなことは起こらなかった。

「……ねえ、海行こっか。私たち」

 窓から見える田園風景に視線を外して、莉穂が言った。その言葉の唐突性に、反応が遅れる。付け足すように、莉穂は振り返って身振り手振り話す。

「前々から紗英ちゃんと旅行する話は出てたの。って言っても県内の安いとこって決めてるけど、あなたも来ればいい。そしたら、私たちはきっと泥臭く見えるようになるよ。何も神聖じゃない紗英ちゃんが見えてくるよ」

「いつ誰が私を神聖にしたのよ。私は別に莉穂の神様をやってるつもりないんだけど」

 後ろからぽんと紗英の声がした。莉穂はがばりと立ち上がって、なぜか紗英の手を握った。

「だけど紗英ちゃんはずっと正しいわけじゃないでしょ。この子の目に映る紗英ちゃんはきっと本当の紗英ちゃんじゃない。私にはわかるの。いけない? それじゃ」

「別に好きにさせておけばいいの。どうせ私の素なんて大したものじゃないし。……で、海行くの? 三人で」

「私は帰ればすぐ支度できるけど、二人はそうじゃないんじゃないの」

「そうね。この子の分は私のお古を着せるとしても、私の分は確実にない。まあ、ラッシュガードさえあれば下着で行ける気がするけど」

「それは絶対だめでしょ」

 ぎゅっと握られた手が、どうしてか羨ましく思える。けれどお古を着られる優越感のようなものも確かに感じて、私はどんな顔をしようか考えた。

 紗英は私が寝泊まりする部屋の箪笥を開けて、がさごそ何かを探し始めた。六段ある内の何段かは紗英のものが収められているのだろう。四段目に差し掛かった頃ようやくお目当てのものへとたどり着いた。

「洗濯しなきゃ使い物にならなさそう」

「うん、その前になんの面白みもないね。スクール水着じゃ気分あがんないでしょ」

「だったらどこかで買う? この辺の服屋じゃ対して置いてないだろうし、そうね、ネットとか」

「……ラッシュガードって、三人分ある?」

「うち兄妹多いからあるけど、あなたはそれでいいの?」

「学校の授業と変わらないし。可愛い水着来たって、見せるの紗英さんたちだけなんでしょ」

「意味がないって? ……残念ながらお姉さんは違うんだな。私は見たいし見せたいの。まだわかんないままでいいよ、君は」

 行きたかった。海に。とにかく逃げ出したかった。自分の間違いから。車を出すのは紗英だろう。水着を買うとすればその支払いをするのもきっと。だとしたらできるだけお金を使わせない方がいいはずだ、と冷静に分析していた。ドラマや映画に出てくるのとは違うどこまでも青い海。

 結局当日中に海に行くことも、紗英のお古を着ることも叶わなかった。次に来られるのは三日後だと言う莉穂と準備を進めることを約束して別れ、取り残された部屋で紗英を見つめた。

「水着、私のだけ見繕ってごめん。このシーズンに子ども用の水着を置いてないなんて田舎を舐めてた」

「別にいいよ。仕方ないじゃん。私は紗英さんのお古を着せてくれるんでしょ」

「……買ってあげる。可愛くて心が踊るやつ」

「どうして私に甘くしてくれるの? お父さんのお金があるから?」

「あの人のお金ならまだ使ってない。慈善事業じゃないけど、人に何かを返すのもいいかなって。大した考えじゃないけど。で、どうするの?」

 逡巡する私に構わず、紗英はスマホをいじっている。時折声を出しながら長い指が操作する姿から目が離せなかった。何度かこちらを見る目はどうしたって優しくて、私は安易に「水色がいい」と呟いてしまった。

「そう。日に焼けたくないならこれなんかいいんじゃない?」

 小花柄の施された長袖のワンピース型のそれは、水色という要件を満たしていたし、何より可愛かった。ライラック、シトロンイエロー、ペールピンク。こくこくと頷くしかない私にサイズを聞き、値段を見せずに簡単に支払いを済ませてしまった。

「旅行、来るんでしょ。あんたも。水着があるならそれに越したことないの。室内プールがある。あんまり人がいないの。サウナも、外に出れば海も、小さい遊具もある。大人二人じゃ使い切れないから、あなたが来るなら少しは嬉しい。言い方はおかしいけど、母親になれたみたいじゃない?」

「……紗英さんは本当のお母さんにはならないの?」

「なれなかったの。それに、私にお母さんになる資格はないと思う」

 紗英が全身でこれ以上聞くなと言っているみたいで、ドーナツを食べ終えた私は手を洗いに立った。結局その日、紗英は自分の話をしなかった。一人きりのベッドが寂しくてたまらないのを、どうにかして伝えたいのは私の弱さだ。ただその目に時折現れる憂いを私は知りたくてたまらない。

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