恋について

榊木名和都

出会い

 昨日の放課後、私は人を殺そうとした。未遂に終わったそれを、止めてくれた友達の両親伝いに聞いた父は私に学校を休ませ、ろくに来たことのない父の実家へと私を送った。少し早い夏休みだと言われても、特段納得はいかない。

 自宅から高速を使って三時間車に揺られながら、見渡す限りの田舎道に園崎蒔実そのさきまみはため息をついた。父の学が話さないから祖母のことはよく知らないし、もう亡くなっている祖父にも会ったことはなかった。

 荒れ果てた畑に目をやる。少しだけ耕された端の方でトマトがなっている。誰かが住んでいるのか、畑を貸しているのか、どちらでも良かった。入り口付近に陣取る種もわからない木の上で鳥が鳴いている。

 行き慣れた運転のように、駐車が手早く済む。時間を潰せる道具を全て入れ込んだリュックは重く、おっと後ろに転げそうになった。ピーピーと音を立てる車がうるさい。

 ざっと視線で家をなぞると玄関が二つあることが目に入った。土間玄関と勝手口の違いだろうか。前髪が目に入って、私は思わず頭を振った。

 歩き出した学の背を追いかけて、勝手口へと歩を進める。学の持つ鍵は自宅の鍵とは違う不思議な形をしていた。学が鍵を奥まで刺して、ドアの角度を変えながら雑に回す。ばちりと鍵のはまる音がするまでは少し待った。音がしたのは中からだった。一歩下がった学の奥から、グレーのキャミワンピースに空色のシアーシャツを重ねた髪の長い女が見えてくる。どことなく父と似た顔だという印象を受けた。初めて会っておきながら、綺麗な人だと心底思った。色素が薄いわけではないのに光を拾う目に化粧けのない肌、長く伸ばされた黒髪。どこもかしこも見たことのないはずの彼女に私は既視感を覚えた。

「……煙草、蒔実の前で吸うなって言っておいただろ」

「じゃあせめて来る時間くらい予告するのが筋じゃないの? お兄ちゃん」

「やめろ、その呼び方。呼んだこともないくせに」

 咥えていた煙草を指に戻して、サンダルを履いた女が出てくる。見下ろしてくる視線は些か厳しいものだった。思わず背筋を伸ばす。目前に晒された女の体はやはり華奢だと、少し見つめて考える。無駄な柄のないキャミワンピースはウエスト部分がしぼられており、腰位置の高さを知らせた。煙草を支える指もすらっとしたものだ。その上胸もある。ただ細く幼い自分とは何かが違うと思った。

 学は何か言いかけたものの口を閉ざして、投げ捨てるように靴を脱いだ。着替えの入った白いバッグは重そうだった。学は私の名前を呼ぶと、自分はさっさと家の中へと足を下ろした。私は何も言えずに一度女の顔を見て、そそくさと後に続いた。

 長靴やシャベルの置かれた玄関は思いの外狭かった。黒のヒールが似つかわしくなく思える。無駄に持ってきたスパイクを下ろしながら、玄関を跨ぐ。玄関のドアは開けられたままで、煙を吐き出す横顔が目に入った。

 フローリングではない廊下はキッチンとリビングへと繋がっており、開けっぱなしのドアをくぐる。料理の途中だったのか、まな板の上には切りかけのきゅうりがあった。自家栽培したものだろうか。

 テレビや長机の置かれたリビングは何となく生活感があり、どこか安心できる気がした。テレビから午後の天気を知らせる音がしている。

 リビングの真向かいにある小さな部屋にいた学が、静かにこちらを見た。

「荷物ここに置いてけ。……って言ってもあいつが使ってた部屋だけど」

「勝手に使っていいの?」

「子供部屋にいい思い出がないから勝手に使えって。それを人に使わせるなって思うだろ。心配しなくてもちゃんと片付けてはいる。あいつはこの奥の部屋」

 視線の先にある廊下の先の部屋は、子供部屋と違い外光が入っていない。開けられた襖の奥に障子が見えていた。さっきから思っていたが、あの人は扉を閉めない人なのだろうか。

「あの人、名前なんて言うの? お父さんの何? 何でこの家に住んでるの?」

 矢継ぎ早に話す自分の声が、いつもと少し違うことに気づく。人間は知りたいものの前ではこうなるのか、と冷静に思っているのが不思議な心地だった。

「名前は田汲紗英。お父さんの妹。ここがあいつの実家だから。ああ、苗字が違うのは俺が母さんの婿に入ったからで、旧姓が田汲。まあ、どっちでもいいよな」

 紗英という響きが何となく美しいなと思う。その美しい顔にイメージもばちりと合っている。頭をかいていた学はまだ下ろしていない荷物を取りにだろう、車へとさっさと戻ってしまった。入れ替わるようにして入ってきた紗英が三角コーナーにぽんと煙草を放る。

 リュックを置いた音でこちらを向いた顔はどこか眠たげで、何度かぱちぱちと瞬きをするのを捉えた。体が動くたびに腰元まで伸びた髪が揺れる。その流れるように美しい髪に思わず名前を呼びかけていた。

「紗英さんって言うんでしょ。あなたの名前」

「……あの人に聞いたの? 別に隠してるわけじゃないからいいけど。そう、それが私の名前」

「よくわからないけど、綺麗。綺麗だと思う。その名前」

 その高い背は返事がわりに手を振って、まっすぐキッチンに向き直り、きゅうりをジッパーへと投げ入れた。そこに黄色い瓶の液体を注ぐ。家とは違うがおそらくお酢だろう。冷やすために開けられた冷蔵庫はがらがらだった。昼ごはんはどうなるだろうか。というか、この辺りの名物ですら私は知らない。そんな場所に一人取り残されるのだと思うと、些か心細くなってくる。

「冷蔵庫、何もないけど何か好きなものがあったら食べていいから。本当は昼食のひとつやふたつぐらい用意するべきなんだろうけど、私よくわからないし後で買い出し手伝ってくれる?」

「……いいけど、私お金そんなにないよ」

「何の心配をしてるの。別にたかろうとしてないし、私はあなたとそうね、二回りくらい歳が離れてるから、別に気負わなくていい」

 リビングを通らず廊下から部屋へと直進した学が、枕を鞄の上へと置いた。枕が変わると上手く眠れないのはどことなく幼さが出ている気がした。

 学は忙しなく入り口と部屋を往復している。私も何かをするべきなのだろうが、物の場所すらわからない状況で何かできるはずもない。何かしてほしいことはないだろうかと視線をやると、こちらに気づいたようで紗英は静かに傾けていたコップを一度机へと戻した。

「……私はあなたの部屋に入らないから、強制するつもりはないけどあなたもそうして。形容できないSOSなら破っても許す。ただ、絶対ノックはして」

「わかった。……二階には何があるの?」

「私の寝室と、母の使ってた部屋があるだけ。つまんないでしょ。ここにいない時は基本一階の奥の部屋にいるから、私を探すならそこを確認すればいいから」

「お父さんに聞いた。後で見に行ってもいい?」

 部屋とは別に寝室があるのか、と頭の中でメモを取りながら、腕を組む紗英の動きを見つめた。しばし考えている間があった。

「……線香をあげるくらいならいいわよ」

 私はわかりやすく頷いた。私は祖母だけでなく、祖父の顔を知らない。知らないものに触れることは今の自分にとっては楽しいものだ。それに、何かやることがある方が助かる。一旦鞄から取り出した猫耳のついた水色のスマホを机の上へと置いた。

 二人で歩を進めて紗英の部屋へと入る。紗英が話す通り、この家で一番広いのはこの部屋らしい。雨戸が全面閉められているからか、電気をつけないと部屋は暗かった。畳の上には積まれた座布団しか置かれていない。がらんとしているこの部屋で紗英は一体何をするのだろう。

「見えないところに隠してるだけ。ものは多く持たなくてもいい主義だけど障子の裏にものはたくさんある。パソコンとか」

「なんで顔見ただけでそんなわかるの?」

「あなたは純粋そうだから。わかりやすい顔ってあるの」

 わかりやすい顔と評されるのも、この人かそうじゃないかできっと嬉しいかどうかわけられるのだろう。紗英にならそう評されるのも悪くないと思いながら、紗英の手が示す畳へと足を下ろした。

 大きな遺影写真が二つほど並んでいる。曽祖母と祖父だろうか。飾られている写真は初見だ。紗英にも学にも似ていない風貌の祖父の写真は、優しそうな表情で佇んでいるものだった。めがねをかけた目元にほくろがある。身長や声も知らないことが、少し寂しい。

 紗英が鈴を鳴らした。紗英に倣い私も手を合わせる。こういう時に何を考えるべきなのかずっとわからずじまいだが、日常報告が妥当だろうとも思う。長く長く続く静寂は一瞬だった。

「おじいちゃんは何で亡くなったの?」

「……ちょっとした事件があって」

 はぐらかされている。私は直感的に思い、唇を結んだ。紗英は知らないふりをして、自身の父でもある写真を見つめた。そっと指を這わせて、目を閉じたままに深呼吸する。

「私が子どもだから教えてくれないんだ」

「そういうわけじゃないけど、どう伝えていいかを掴みあぐねてるの。……もういい? 悪いけど出て」

 立ち上がって腰元を払った紗英は、私の背を半ば押すようにして部屋を後にした。今回はきっちりと襖を閉め切っている。

「ちょっと来て。トイレと洗面所はこっちだから」

 紗英の華奢な背を私は追った。自分の足音が聞こえることが、築年数を知らせてくるみたいだった。

 勝手口の向かいにある扉の向こうが洗面所らしい。ドアを開けた先はそれほど古くさいものではなく、浴槽も自分の家とそれほど変わらない。サックスブルーとミルクホワイトのタイルが何となくかわいらしくて、私は思わず声を上げた。

「お湯を張る時は蛇口をひねらなきゃいけないけど、それ以外は遜色ないと思う。あ、朝一番は電源いじってね。これは後でいいわ」

「シャンプーとか置いてきちゃったけど、勝手に使ってもいいの?」

「別にいいけど、あなたが使うには不似合いかも。育毛シャンプーだし。どうせ買い物に出るなら適当に選んであげる。もちろん、使いたいのがあるならそれでいいけど」

「何もない。何でもいいよ」

「そう。ここに置いておくものがあるなら、適当にそのカゴ使って。スキンケア用品でも、コスメでも。あとはそうね、歯ブラシを立てるのも洗面所にして。何故かわからないけど、キッチンで歯を磨かれるのは昔から腹が立つから」

 メイク道具はろくに持っていないが、最低限の化粧水と乳液、日焼け止めと歯ブラシを一括りにして持ってきた。ポーチ代わりに突っ込んできたレジ袋を、入口に立っていた学から受け取った。まだ車に荷物があるのだろう、玄関を出ていく背が見えた。

 洗面所に立っていた紗英は私がカゴに仕舞うのを見てから「トイレはここ」とドアをノックして見せた。開いたドアからそっと中を覗く。真新しい便座は最近リフォームしたものだろうと知らせた。小さく手洗い場が付いているが、洗面所まで手を洗いに行くという癖も持っている。タオルが可愛らしい虎柄で、私は思わずくすりと笑った。

 と、学のだろう足跡が聞こえてくる。そのまま何を思ったのか紗英は私をトイレへと押しやり、ぱたんと閉じ込めた。どうしてだろうと考えるより先に知らない場所に閉じ込められたという恐怖の方が勝ってしまいぎゅっと体を縮こまらせた。

「なあ、なんで今回に限って蒔実の面倒なんか見てくれるんだ。普段ならめんどくさいで一蹴するだろ、お前のことなんだから」

「別に。気が向いたってだけ。私もだいたいこの生活に飽きてきたし、何か新しいことでも始めてみなきゃ腐るでしょ。気まぐれな妹で悪かったわね」

「……正直言いたいことは山ほどあるけど、蒔実が同級生を殺そうとした理由すら俺らには話してくれないんだ。人の力を頼るしかない。……あいつを叩いて直してやって欲しい」

「……やるだけやってみるわ。約束はできないけど」

「ここに八万入ってる。好きに使えよ」

 八万円という額の大きさに声が出そうになったが、ドアに耳をすませることしかできない。封筒だろうわずかに掠れる音を聞きながら、えらく間の空いたその返答を待った。

「……いらない。別に何か教えてあげられるわけじゃないんだし、お金が介在するのって良くも悪くも気持ち悪いし」

「それは良い悪いにかかってるのか?」

「あんたは知ってるでしょ。私がどうやって生きてきたか。だったらそのお金くらい好きに使うわよ」

「いつまで続くかわからない金頼りか」

 学のつく大きなため息が聞こえた。大きくつくのは父の癖だ。きちんと会話を聞いているはずなのに、何もわからない。どちらかが歩いた音が少し続く。すぐに止まった後に学が話す声がした気がした。遠くなったのか、声が聞きとりずらい。

「とにかくここに置いておく。別に使わなくてもいいが、この在処だけはお前が知ってる。それでいいか?」

「好きにすれば」

 学は何かを囁いたが、その言葉を反芻する前にドアの開閉音が聞こえて、私はその場にへたりこんだ。ドアを開いて覗き込んでくる顔はどこまでも美しい。その顔がどこまでも好きな造形で、何で閉じ込めたのか聞くのも忘れた。

「怖気付いた? 私に」

 咄嗟に答えられなかったそれを、幾分か時間をかけて答える。

「……そんなことないけど、私を閉じ込めた理由を知りたい」

「理由なんてない。何となく面白い方に転がしたいの。私性格悪いから」

「そうは見えないのに。嘘なんて知りませんって顔してるように見える」

「そう。あんたの心は綺麗ってわけ。でもひとつだけ言わせて。私に幻想を抱かないこと。……父親を殺したろくでなしだから」

 一瞬自分が何を考えていたのか忘れた。暴力的なまでの宣言に、私はどんな顔をすればいいのだろう。目を見開いたまま動けなくて、「……あ」と思い出したようにリビングに向かう背をただ見送った。

 一旦起き上がっては見たものの、また転げそうだった。車に鍵をかけた学とばったり目が合う。不思議そうな顔でこちらを見ている学に何でもないと言う代わりに、走ってリビングへと逃げた。

「……紗英、お前まだ朝ドラ見てるのかよ」

 時刻は十二時半。朝ドラは午前八時ぴったりじゃなかっただろうか。再放送もしているのか、と私はテレビ画面に真っ直ぐの座椅子に座っている紗英を見、その向かいへと腰を下ろした。この角度からはややテレビが見にくい。少し古臭い画面には、ドラマや女優に疎い私でも知っている顔が映っていた。「英和澄だ」と声を出すのを止められなかった。

「これ、古いやつ? 英和澄がすっごく若いし。今やってる朝ドラ見てるのかと思った」

「今のは方言の発音が気に入らないの。福井ってそんな珍しいものでもないのに。なんて言うかわがままでしょ。育ちはここだけど、人生の半分以上は福井にいるから。でもこれは別。かわいいでしょ、英和澄。この時まだ十代なのよ。私にはない人生だから、なんていうかずっと私には眩しい」

 それが誰であれ、好きなものについて語る顔が私は大好きだ。テレビ画面からほとんど視線は動かないが、頷くみたいにこっちを見つめてくる瞬間に私は胸の鼓動を感じた。

 今は主人公がうどんを作っていると、後ろから彼氏だろうか、距離の近い男がそっと近付いてきて何でもないように「結婚するか」と言う場面だった。いかにもドラマめいていて、私は頭を傾げる。それに伴って、紗英が笑う。それがどうしてかわからずに、何か解説してくれるのを待った。

「こういうの見ると笑っちゃうの、私。そういうのはいいだろって。だったら何で見てんのかって話だけど、惰性だろうね」

 変わらず場面は展開していて、今は固く抱きしめた後で、唇が重なりそうなところだった。朝ドラに詳しくはないが、きっと際どいシーンはないのだろうと信じていた分、キスをさせてもいいのかと少し驚いた。

「キスを見るのも嫌なの? 紗英さんは」

「嫌とは、少し違う。どう言えばいいのかわからないけど、向いてないの。こういうのが。でもキスも程度によっては耐えられるわよ。今だってそう」

「よくわかんないけど、お母さんが濡れ場は見ちゃダメって言ってた。そういう感じ?」

「違うけどそう」

 投げやりな音だった。すぐに視線はテレビへと向かう。英和澄が濡れていた手を拭ってから、男の腕の中から逃げた。その顔は目に涙が溜まっているようで、どうやらこの男とはくっつかないのだと今さら知った。

「これ、結局誰とくっつくの? って言っても教えてもらったところで知らない気もするけど」

「最初の夫は松ヶ下バスター。夫が駆け落ちした後は冨井貴一と付き合うけど、結局結婚はしない。そのまま事実婚のままで終わる物語ね。その過程の何かが私を無性に離さないの。でもそれが何かはわからない。考えても考えてもピンとくる答えは見つからないの」

「冨井貴一、不倫する夫役でこの前女に殺されてたよ。木曜の深夜にやってるやつ。頼むから死んでくれってドラマ」

「それ際どいからあんま見るなって言ってるだろ、蒔実」

「でも、お父さんだって次の日に見るでしょ。死んでくれ」

 学は「あんまりタイトル連呼するな」と顔を優しく歪めながらラグの上にあぐらをかいた。こういう時に学は自分の頭を撫でるが、それをこの人の前でやらなくてもいいのに、と私は少し唇を尖らせる。紗英と一度だけ視線が合った気がするが、すっとテレビ画面に向けられてる今話しかけるのは気が引けて、ポケットWiFiの設定でもしようかと席を立った。

 黒いリュックの背面には、少しだけものが入れられるポケットがある。ここに何を入れるのが正解かわからないが、一旦は鍵を入れるようにしている。そのついでにポケットWiFiを入れたら思いのほかジャストフィットだったので、このためにあったのかと今朝は感動したものだ。白いWiFiと、洋服を入れたバッグにぶん投げた充電器とを繋げ、リビングのコンセントに挿す。電話線は抜かれていて、下の口では掃除機の充電がされていた。

「……恋愛もの嫌いなくせに、そういう要素のあるドラマを見ることはやめないの、お前の悪い癖だぞ。紗英」

「別に嫌いじゃない。さっき言った通り向いてないの。私の恋愛思考まだわかんないの? それ以上でも以下でもない。死ぬまでにはマシになってるかと思ったけど、この調子じゃ無理ね」

 父と紗英はよほど仲が良くないのだろうかと思いながらも、それを聞くのは今ではない気がしている。

 最近になってやっと設定をいじってWiFiを繋げることができるようになった。正直パスワードを入れるだけだが、私には革命だった。できることが増えたのがどうしてか嬉しい。特段学校で秀でたことがないからかもしれない。

「朝飯はとりあえず食べさせたけど、時間が遅かったから適当に調整してやってくれ」

「……好きなものは?」

「……魚とトマトとりんご」

 意外と好きな食べ物を聞かれることはないだろう。ゆっくりとした音だった。

「全部料理じゃないな。もっとあるだろ。鮭のポン酢煮とか、牛肉コロッケとか、チャーハンとか、ショートケーキとか」

「だいたいわかった。じゃあラ・マーよりはアロウの方がいいか。どうせだったら本屋くらい寄れるけど、どう?」

 特段欲しいものがあるわけではないが、そこそこ大きいらしいと聞いている市内にひとつしかない本屋に興味はある。

 少し含んだ笑いを聞かせた学は立ち上がって「帰るわ」と呟いた。とうとう来てしまった言葉に胸がドキドキしながら、せめてとその顔をのぞく。普段と変わらないようでいて、けれど確かに違う。ぎゅっと目頭に力が入っているからだろうかと考えるより先に学は私に背を向けて行ってしまった。これから三時間、学は人のいない車を運転する。それはどうしたって寂しいもので、何かしたいと思っても自分だけではどうすることもできないのが事実だ。静かにパキッとしたブルーの車に乗り込む背を送り出しながら、お前は直に死ぬと言われたみたいにどこか苦しかった。

「昼、どうしたい?」

「普通そこは何食べたい? って聞くと思う」

「そう? で、どうなの。あの人が言ってたチャーハンとかコロッケ?」

「じゃあコロッケが食べたい。お母さんが作ってくれる衣の薄いやつじゃなくて売ってるやつ」

「……それ、今すぐにでも行きたい?」

 一度時計を見てみたが、十三時手前を指している。朝食を食べたのは十一時前後だった。まだ胃袋を待たせていられる。返事をしようと紗英に視線をやるとカップに牛乳を注ぐところで、その骨ばった指先を見つめた。一緒に取り出したコーヒーを混ぜながら、思わず注視して見た。

 最初に会った時は気づかなかったが、右耳にピアスが入っている。少し変わっているのはトラガスにもピアスがあることか。

「すぐじゃなくていいから、紗英さんと一緒に買い出しに行きたい」

 すでに買い出しに付き合ってと言われている身で不思議な言葉だ。ごくりとカフェオレを飲んで、はあ、と息を吐き出す顔が可愛らしくて、蒔実は唾を飲み込んだ。自分の呼吸している音がありありとわかる。「飲む?」とカップを見せてくれるが、コーヒーが飲めないので、首を振るしかなかった。

「麦茶と緑茶と、適当に買った安い烏龍茶だけはあるから、好きなものを選んで」

「……烏龍茶がいい」

「下に冷えてる」

 コーヒーと牛乳を冷蔵庫にしまった後で、最下段から寝かせていた二リットルの烏龍茶を取りだした。確かに見た事のないパッケージだ。受け取りながらざっと一回転してみた。どのコップを使えばいいのかわからない。紗英は静かに机の上に出してあった真新しいベビーピンク色のコップに手を伸ばすと、それを私に押し付けた。

「誰も使ってないやつの方がいいでしょ。家にあるの年季ものだから。趣味に合うかまでは責任取らないけど」

 水玉模様の施されたピンク色は可愛くて、自分が女の子だと言われているみたいで嬉しかった。自分が可愛らしいものが似合うとは思っていない。けれど、そういう可愛らしいものを選んでもらえるのが嬉しいくらいには気にしていたらしい。

 ダイニングテーブルから、リビングの長机までコップとお茶を移動させて、テレビ画面を見つめた。今放送している方の朝ドラの再放送が終わった頃だろろうか。チャンネルが変わっていて肉をカットするバラエティ番組が映されていた。

「少し寝てくる。何かあったら冷蔵庫を漁るか、私を呼びに来て」

 ふわあ、と欠伸をしながら紗英が言う。テレビから視線を紗英に移したもののもう遅くて、ブルーのブラウスから見える二の腕の細さが見えただけだった。

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