第3話 ねえ、どっちの手?

朝の空気は、少しだけ肌寒かった。

都会の住宅街。コンクリートの隙間から伸びた雑草と、規則正しく信号が切り替わる音。
私は、いつものようにイヤホンを片耳だけに差して、学校へ向かっていた。

夜はあんまり眠れなかった。

というか、最近ずっとそうだ。
眠れないというより、うまく眠りに落ちるタイミングを逃してしまう。
気づくとスマホを見ていて、気づくと明るくなっていて、気づくと時間ギリギリ。

べつに悩みがあるわけでもない。テストの心配もしないし、成績は悪くない。
けど、頭の奥のどこかがずっとざわついていて、スイッチの切り方がわからない。

今朝も結局、二時間ちょっとしか眠れなかった。
目の下にうっすらクマができてるのを、ファンデで雑にごまかした。

——だから、朝は少し苦手。
そしてたぶん、今日も“それなり”にだるい日になる。

でも、角を曲がったとき、そんな気分がほんの少しだけ変わった。

目の前に、見慣れた背中があった。


「……悠真?」


彼は信号待ちをしていた。制服の肩には、猫の毛みたいに細い糸くずが一本ついていて、それがやけに目についた。

私が声をかける前に、彼がこちらを振り返った。


「あ、莉緒。おはよう」


「……おはよう。なんでここにいんの」


「え、いつもこの道。そっちこそ、なんで?」


「こっちは“たまたま”」


悠真は苦笑いしながら、「そっか」とだけ言った。
そういうところ、昔から変わらない。受け止めがやわらかすぎる。だからずるい。

信号が青に変わって、私たちは自然と並んで歩き始めた。
隣に誰かがいる通学路なんて、久しぶり。
そう思ったら、ちょっとだけ、心がふわっとした。


「莉緒って、家近かったんだね」


「言ってなかったっけ」


「聞いてない気がする」


「言ってなかったかも」


「じゃあ、今日から一緒に登校する?」


「……は?」


「冗談」


「……はあ?」


思わず睨むと、悠真は笑ってごまかしていた。
でもその笑顔はどこか優しくて、少しだけ眩しかった。
ほんとに、朝から調子くるう。

そのあと少し沈黙が続いた。
お互いに言葉を探すように、ぽつりぽつりと話しながら歩く。

通学路の途中、歩道が少し狭くなる場所があった。
フェンスと植え込みの間をすり抜けるような細道。
ふたりが並んで歩くには少し窮屈で、自然と肩が近づいた。

そのときだった。

——手が、触れた。

一瞬だった。
本当に、ほんの一瞬。
でも、確かに彼の指先が私の手の甲に当たって、それだけで心臓が跳ねた。

お互い、反応が遅れた。
無言のまま、でも意識だけが過剰に走っていく。


「……ごめん」


先に言ったのは悠真だった。
俯きがちに言うその声が、妙に低くて落ち着いてて、余計にドキッとした。


「べ、別に……。たまたまでしょ」


「うん、たまたま」


「わざとだったらしばくけど」


「それは……怖いな」


私は横目で彼を見た。
悠真は顔を背けているけど、耳が少し赤くなっていた。

——あーもう、なんなのこの空気。

こっちまで変に意識してしまってるのが、腹立たしい。
私は手を後ろで組んで、なんでもないふりをしながら前を見た。


「……っていうか、あんた、手あったかすぎ」


「え?」


「湯たんぽかよ。びっくりしたんだけど」


「そんな比喩ある?」


「あるわよ。私の辞書には」


「それ辞書じゃなくて日記帳じゃない?」


「うるさい」


言いながらも、少しだけ口元が緩んだ。
なんだかんだで、こういうやりとりは嫌いじゃない。

学校が近づくにつれて、通学路には制服の生徒たちが増えてきた。
少しだけ人が増えたおかげで、さっきの出来事も自然と薄れていく——はずだった。

だけど、昇降口の前で靴を履き替えているとき、悠真がふと私のほうを見て言った。


「さっきさ」


「ん?」


「触れたの、右手だったっけ。左手だったっけ」


「……なにその質問」


「いや、なんとなく。どっちだったかなって」


「忘れていいでしょ、そんなの」


「……うん。でも、なんか気になって」


その言い方が、あまりに真顔で。
私の心臓は、ふたたびドクンと跳ねた。


「……バカじゃないの」


「そうかも」


私はぷいっと彼から顔をそむけた。
さっきよりも、たぶんずっと赤い顔のままで。

登校中に手が触れただけ。
それだけのこと。
でも、それだけのことで——1日中、この頬の熱は引かなかった。

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