待つ老人

三角海域

待つ老人

 夏の日差しが容赦なく照りつける午後、僕はいつもの大通りを歩いていた。信号の位置、コンビニの看板、会社から駅までの道のりは毎日同じでひとつも変化がない。

 変わらない。あまりにも変わらなさ過ぎて時々嫌になる。今日はそんな嫌気が特に強く、途中で足が止まってしまった。

 

 どこかへ行きたいと思った。けれど、そんな思いを優先できるほど僕は強くはない。どうせ、また〈いつも通り〉の道を歩き出すのだ。

 行こう。

 そう思い、歩き出そうとした時、ふと横道が視界にはいった。

 普段なら気にも留めない細い道だが、なぜか今日はその先が気になってしょうがなかった。


 単調さから逃れる小さな反抗。そんな気持ちが湧いてくる。

 ほんの少しだけ逸れてみたい。ほんの少しでいいから。

 僕は横道を行くことにした。


 横道に入ると、大通りの喧騒が嘘のように遠ざかった。アスファルトは古く、所々にひび割れがあり、道端には雑草が生い茂っている。

 蝉の声が一際大きく響き、遠くから車の音がかすかに聞こえる。大通りとは真逆の音量バランス。

 歩くにつれ、景色は一気に郊外らしくなった。古びた木造の家、手入れの行き届いていない庭。たった数分歩いただけなのに、まるで別の世界に迷い込んだようだった。


 横道をしばらく進むと、開けた場所に出た。

そこには小さな墓地があり、その隣に畑が広がっていた。夏野菜が青々と茂り、墓石は苔に覆われて年月の重みを感じさせる。強い日差しが容赦なく照りつけ、空気が揺らめいて見えるほどだった。


 その墓石の前に、一人の老人が腰かけていた。


 七十代くらいだろうか。身なりは質素だが清潔で、近くに小さな鞄が置かれている。その鞄は身なりの清潔さと対照的にボロボロだった。

 老人はぼんやりと遠くを見つめていて、僕が近づいても気づかない様子だった。


 この陽ざしの下で座り続けているのは体に良くないのではないか。そう思った僕は、老人に声をかけてみた。


「こんな暑い中でそんな風にしていると体によくないですよ?」


 老人は僕を見つめ、穏やかに微笑んだ。


「人を待っていて、ここを離れられないんです」

「人を、ですか?」

「ええ。さっきまでふたりで待っていたのですが、飲み物を買いに行ったきりなかなか戻らなくて」


 老人の声は静かで、心地よい響きがあった。

 僕は自分のカバンから未開封のミネラルウォーターを取り出す。


「よろしければ、これを。少しぬるくなっているから申し訳ないですが」


 老人の顔がぱっと明るくなった。


「ありがとうございます。本当に助かります」


 老人はそのペットボトルを受け取ると、一気に半分近くを飲み干した。相当のどが渇いていたのだろう。


「暑いですから、日陰で待たれた方がいいのでは?」


 僕がそう提案すると、老人は首を横に振った。


「ここで待つと約束したから動けないんです。連絡手段もありませんし」


 老人は残りの水を大切そうに飲みながら続けた。


「動くわけにはいかないのです」

「もうひとりの方はどちらまで買い物に?」

「さあ、どこでしょうね。この辺りにはコンビニも自販機もないから、きっと大通りの方まで行ったんでしょう」


 老人は苦笑いを浮かべた。その表情に諦めに似た何かを感じた。


「どれくらい待ち続けるのですか?」

「時間は関係ありません。約束ですから」


 老人はミネラルウォーターを飲み干し、空のペットボトルを大切そうに手に持った。その仕草には、どこか祈りにも似た静けさがあった。


 僕は深く追求することをやめた。この老人には、僕には理解できない何かがあるのだろう。それを無理に理解しようとするのは、かえって失礼な気がした。


 空のペットボトルを回収しようとしたが、老人は丁寧に断った。


「自分で処理しますから。ご親切にありがとうございました」


 僕は軽く会釈をして、その場を後にした。


 大通りへと戻る道を歩きながら、ふと振り返った。

 墓と畑がある開けた空間に、老人がぽつんと座っている。空になったペットボトルをじっと見つめるその小さなシルエット。なぜか、胸を締め付けられるような感覚を覚えた。


 

 後日、僕は街のカフェで友人にその時の話をした。

 ガラス張りのモダンな店内は冷房が効きすぎていて、外の暑さが嘘のようだった。


「横道に入ったら墓地があって、そこでおじいさんが誰かを待ってたんだ。暑い中をずっと座ったままで」


 友人たちの反応は薄かった。

 退屈そうにする人、反応に困っている人、うんうんと頷きながらちらちらとスマホを気にする人。

 どう受け取っていいのかわからないのは当然だと思う。けれど、話さずにはいられなかった。


 あの老人の姿が忘れられずにいた。あの横道の風景と、この無機質なカフェの空間があまりにも対照的で、その〈事実〉がどうしようもなく心をざわつかせた。



 別の日、僕は再びあの大通りを歩いていた。


 横道の入り口に差し掛かった時、足が一瞬止まった。墓と畑、そして老人の姿が脳裏に浮かんだ。


 横道へ歩を進めようとしたが、やめた。


 道を逸れ、ありえないとは思うがまたあの老人に会った時、もしかしたら僕はあの老人と共に〈待ち続ける〉ことを選んでしまうかもしれない。そんな想像が頭を巡ったのだ。


 大通りを歩きながら、僕の胸に悲しみがあふれる。それがあの老人に向けられたものなのか、あるいは自分に向いたものなのかはわからなかった。

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待つ老人 三角海域 @sankakukaiiki

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