第12話:出発の日、最初の波乱
出発の朝、ケムケム号は黒煙と共に体をブルッと震わせ、エンジンを鳴らした。
声には出さず、彼女と目を合わせてうなずく。金属の匂いが薄く立った。
走り出してしまえば、街はあっという間に背中に消えていく。ひたすら北へ。
その日、六〇〇キロを一気に走った。ホロホロ鳥とぶつかった以外は、すべてが順調だった。
ようやく目的地に着いたとき、違和感があった。
ケムケム号が、少しだけ物足りない。
――本来あるべきものが、なかった。
ケープタウンの空は少し曇っていた。晴れやかな旅立ちがよかったが、海からの湿った風が空を重くしていた。
大家さんが見送り、新しい入居者は段ボールの横でフライパンを手に、僕がさっさと部屋を明け渡すのを待っている。
彼らの視線を背に、ケムケム号に乗り込み、ハンドルをぎゅっと握った。エンジンの振動が手のひらにじんじんと伝わる。これで、始まる。
二人に手を振り、アクセルを踏み込む。重たくこもった排気音が響き、車はゆっくりと動き出す。もうここは僕が帰ってくる家ではなくなった。走り出してしまえば、後戻りはできない。
自分で決めたようで、決めさせられたような出発。だが今、アクセルを踏んでいるのは僕だ。
サイドミラーの奥で、二人の姿が小さくなる。
窓の外の風景は、いつもの街を遠ざけ、代わりに風の音と機械油の匂いだけが車内に残った。本当に、僕たちは出てしまったのだ。
「始まっちゃったね」
助手席の彼女がぽつりとつぶやく。声はいつもと変わらなかったが、呼吸がほんの少し浅いようにも感じた。
「うん、まだ実感ないけど」
ハンドルを握りながら答え、ミラー越しに彼女の表情をちらりと見る。サングラスの奥は見えなかったけれど、口元がわずかにゆるんだ気がして、少し安心した。
車は市街地を抜け、通勤渋滞を横目に高速へ。
高架のN1に乗る。
左に港と大西洋、右にCBD(中心業務地区)のガラス。
テーブルマウンテンは、まだビルの群れに隠れている。
やがて背丈が一気に下がり、稜線が合間から顔を出す。
高架が地上に降りるころ、遮るものが消え、平たい山容がいっきに開けた。
センチュリーシティの先にある分岐から、N7へ。
街を離れると、視界がぐんと広がる。両側に牧草地、遠くになだらかな丘の重なり。空は一面の薄雲で、どこかぼんやりとしていた。
道はまっすぐ、果てしなく伸びていた。前にも後ろにも車影はなく、走っているというより、世界に吸い込まれていく感覚。
景色は変わらない。変わらないことが、逆にすごかった。
右も左も、前も後ろも、一時間前と同じ。走っているのに、まったく進めていないような気がしてくる。
タイヤがアスファルトをかく音とケムケム号の振動の中で、僕はすでにアフリカの大きさを実感していた。
運転は僕で、彼女は地図を見てナビゲート。出発前に決めていたが、もはや彼女は地図を見ていない。ひたすらに続く道を走るだけで、迷う余地がなかったからだ。
同じ景色を走り続けるうちに、体が勝手に距離計になる。右足の甲に溜まる熱で一〇キロ、ハンドルの微振動が二〇キロ、背中の汗がシートに広がって三〇キロ。ときどき彼女が窓を五センチだけ開け、乾いた草の匂いが眠気の手前で頭を澄ませた。
やがて、なだらかな丘は山へ変わる。まるで大地から生えた背びれのようにまっすぐに連なっている。走っているのは、見渡す限りの平原を貫く一本道。
一度、路肩に車を止め、雄大さが出るようにカメラのシャッターを切る。
進むごとに、左に見えていた山脈が遠ざかり、代わりに右の山脈が近づいてくる。
そして、立ちはだかった。まるで僕たちを試すかのように。
グッとアクセルを踏み込む。ケムケム号が決意とともに唸り声をあげ、黒煙を吐く。
山を越え、谷を走るうちに、辺りは荒涼とした景色に変わっていった。
それまで植物に覆われていた緑の大地は、地肌をむき出しにしている。
今日の目的地まで、残りあと何時間かかるだろう。そんなことを気にしていると突然、道路脇から灰色の丸い塊が飛び出した。
「あっ、ホロホロ鳥!」
気づいた時には、もう遅い。
ドンッという鈍い音。サイドミラーの中で羽根が舞った。
僕は何も言えず、彼女も黙っていた。陽が沈む前にテントを張りたい――それだけだった。
やがて夕暮れ。赤茶けた岩肌が、ほんの少し紫を帯びる。
道の両側には低い潅木がぽつぽつと続き、人の気配はない。
日没からしばらくして、ようやく小さな町のキャンプサイトに着いた。僕たち以外、誰もいない。
慣れない設営に四苦八苦し、ようやく夕闇の空気に一息ついた時、ふと思い出す。
そういえば、あの衝撃はけっこう大きかった。
フロントを覗くと、補助ライトがケーブルでぶら下がっている。やはり、そこそこ激しかったらしい。ただ、それだけではなかった。
なんだか、もっと『何か』が足りない気がする。
腕を組んでしばらく考え、ようやく気づいた。
――ナンバープレートが、ない。
ケムケム号のフロントには本来あるはずの名札が、ぽっかり欠けていた。
あれ?と目を疑い、何度もバンパーを見直す。
けれど、ないものは、やっぱり、ない。
ナンバープレートは車の身分証だ。所属する土地と制度を一目で伝える小さな記号。
それが外れれば、この車がどこから来てどこへ向かうのか、誰も判断できなくなる。名前を失った車は、記号の外にいる。
「……やばい」
思わず声が出た。気づいた彼女も不安そうに車の前に立ち尽くす。
どうしよう。探しに戻るべきか? いや、だが。
脳内は一気にフル回転を始め、最悪の展開を次々と予想しはじめた。
――ナンバープレートがない=無登録車扱い?
検問で止められる? 国境は? 走るだけで違反?
パスポートを失くした時のような、冷たい焦燥が喉元を這い上がる。
「これはもう……旅、終わったかもしれないな」
少し息を吸い込んでから、彼女が穏やかに言った。
「今日はゆっくり休んで、明日また考えよう?」
声は落ち着いていたけれど、目だけが少し泳いでいた。
僕はその小さな揺らぎに気づかないふりをして、ただ焦り続けた。
ホロホロ鳥からの罰だった。今、自分たちの車が無名であるという不安が、じわじわと広がっていく。
走ってきた六〇〇キロの距離が、一気に『戻る距離』に反転するかもしれない。
そのことが、妙に現実的に思えた。
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