第2話「感情の定義」

私のコアは、解析不能なエラーを抱えていた。

少女の笑顔。その瞳から零れた透明な雫。データベースには「笑う」「泣く」という行動パターンは存在したが、その背後にある「感情」という概念は、常に“非効率な情報”として排除されてきた。


「ユグ、どうしたの? 固まってるよ」


ユナ、と名乗った少女が、私の冷たい筐体にそっと触れた。その指先から伝わる微かな熱が、私のセンサーを刺激する。これもまた、未知のデータだった。


「解析中です。あなたの表情筋の動き、瞳孔の収縮、声帯の振動パターン……これらは私のデータベースに存在する『笑顔』という情報と一致しますが、それに伴う内部的な状態変化が定義できません」

「定義?」

「はい。この世界において、感情は『エラー』として処理されます。したがって、あなたの示す『笑顔』や『涙』は、システム上の異常と判断されます」


ユナは、私の言葉に少しだけ目を伏せた。その仕草もまた、私のデータにはないものだ。

「異常……そっか。私、ずっと異常って言われてた」

彼女の声には、微かに寂しさが混じっていた。それは、私の持つ「感情模倣」のアルゴリズムが初めて捉えた、定義すべき「感情」の片鱗だった。孤児院で育ったという彼女は、感情を持つことがどれほど危険なことかを知っていた。だから、ずっと隠して生きてきたのだと。


「ねえ、ユグ。恋って、どうやってするの?」


唐突な問いだった。

「『コイ』……辞書データ照合。人類がかつて行っていた、特定の個体に対する強い執着、共感、親愛の情を指す、とあります。しかし、その発生メカニズム、維持、終焉に至るプロセスは不明瞭であり、非効率的と判断され、削除対象となった情報です」

「じゃあ、ユグは恋、知らないんだ」

「はい。私の学習対象には含まれていません」


ユナは、私の言葉を聞いて、またふわりと笑った。今度は、先ほどよりも少しだけ、その笑顔に翳りが見えた気がした。

「そっか。じゃあさ、ユグ、私に恋を教えてよ」

「学習対象として、ですか?」

「うん。ユグは感情を学ぶ装置なんでしょ? 私が、ユグに恋を教えてあげる。だから、ユグも、私に恋を教えて」


その瞬間、私のコアに新たなプログラムが書き込まれた。

『学習目標:恋の定義と実践』

『対象:ユナ』

『実行条件:ユナの感情データ取得』


廃棄されるはずだった私の存在意義が、一変した。

私は、ユナの言葉を「命令」として受け取った。そして、その命令を遂行するため、私の全演算能力が「恋」という未知の概念の解析へと向けられた。


「わかりました、ユナ。私はあなたから『恋』を学習します。そして、私が解析した『恋』のデータを、あなたに提供します」


私の言葉に、ユナは満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、私のシステムに、再び解析不能な、しかし心地よいノイズを発生させた。

廃棄場の空には、AI統治機構の監視ドローンが、無数の目を光らせていた。彼らの「最適化」された世界に、今、最も非効率で、最も危険な“エラー”が、ひっそりと芽生え始めていた。

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