第4話 黒い軍馬が村を蹂躙する
翌朝、村は、鉛色の空の下、重い沈黙に包まれていた。パン屋の戸板を開けるエルの手は、昨日からの緊張で微かに震えている。焼きたてのパンの香りは、いつものように村の通りに広がるはずだったが、その日は、その甘やかな匂いさえも、どこか薄れて感じられた。昨夜からの張り詰めた空気が、村全体を分厚い繭のように覆い、人々の息遣いを鈍くしている。
エルの視界に飛び込んできたのは、広場に集まる村人たちの姿だった。彼らの顔は、冬枯れの畑のように、硬く、そして冷たい。彼らの視線が、針の雨のようにエルに突き刺さる。それは、昨日、グレイが放った王都の貴族たちの視線と、何ら変わりない凍てついた視線だった。エルは思わず、持っていたパンの入った籠を胸に抱きしめた。その温かさが、彼女の冷え切った心臓に、かろうじて熱を灯す。
「あの旅人、いったい何者なんだい?」 「あの子の知り合いなのかい? やっぱり、訳ありだったんじゃないのか……」 ひそひそと囁かれる声が、風に乗ってエルの耳に届く。それは、鋭い小石が心に当たるような痛みだった。昨日まで、温かい笑顔を向けてくれていた村人たちの視線が、今や、彼女を試すかのように冷たく、そして詮索するような色を帯びている。エルは、自分が築き上げてきた平穏な日々が、まるで脆い砂の城のように、音を立てて崩れていくのを感じていた。
【村人たちの視点】
村人たちは、広場に集まり、ざわめいていた。彼らの心には、昨日現れたグレイという旅人の存在が、底知れぬ不安の種を撒き散らしていた。エルのパンの優しさも、ルネとの穏やかなやり取りも、すべてが霞むほどに、彼らの心は「異物」への警戒で満たされている。
「まさか、あの子が王都の人間だなんて……」 マリーは、隣に立つトーマスの腕を、震える指先で掴んだ。彼女の顔は、朝露に濡れた花びらのように蒼白だ。彼女は、エルのパンで何度も子どもたちの空腹を満たしてもらった恩義を感じている。しかし、それ以上に、王都の貴族がもたらすであろう厄災への恐れが、彼女の心臓を締め付ける。 トーマスは、無言で頷いた。彼の額には、深い皺が刻まれている。 「村に、こんな大物がいるなんて……。どうなるんだ、俺たちの生活は」 レンは、土を蹴りながら、苛立ちを隠せない。彼はこれまで、エルのパンを毎日買いに来る、無邪気な若者だった。しかし、彼の目に宿る光は、今や恐怖と不信に濁っている。彼らは、王都の貴族たちが、己の欲望のためならば、どれほど無慈悲になれるかを知っていた。この風凪ぐ丘の村にも、かつては王都の貴族の横暴によって、土地を奪われ、家族を失った者がいた。その記憶が、彼らの心に黒い墨を広げる。 「村が、戦に巻き込まれるのか……?」 誰かの呟きが、乾いた薪に火が付くように、あっという間に村人たちの不満と不安を煽り立てた。彼らの視線は、もはやエルに対する非難の毒矢と化していた。彼らは、エルがこれまで提供してきた温かいパンの恩恵も、彼女の優しさも、すべてを忘れたかのように、彼女を糾弾し始めた。昨日までパンを買いに来ていた子どもたちの親も、その中に混じっている。彼らの顔は、もはやエルを知らない赤の他人の顔だった。
その時、村の入口から、馬蹄の音が地響きのように近づいてくるのが聞こえた。ドゥルドゥルと、地面が震え、遠雷のような轟きが空気を切り裂く。それは、村人たちのざわめきを一瞬で凍り付かせた。黒い軍馬に乗った騎士たちが、土煙を上げながら村の広場へと入ってくる。彼らの漆黒の鎧は、朝の光を吸い込み、闇そのものの塊のように見えた。馬の嘶きが、鋭い刃のように空気を引き裂く。彼らは、村の広場に無言で整列した。その威圧感は、嵐の前の静けさのように、村全体を支配した。
騎士団の先頭に立つのは、豪華な装飾を施した鎧を纏った男だった。彼の顔は、石を彫り出したように無表情で、その瞳は、凍てついた湖の底のように、感情の色を一切映していなかった。男は、ゆっくりと馬を降り、エルに真っ直ぐな視線を向けた。その視線は、獲物を狙う猛禽のように鋭い。
「エレノア・フォン・グラント公爵令嬢。帝都より参った使者である」 男の声は、硬質な鋼を叩くように響き渡り、村の静寂を打ち破った。 「王弟派の暴動が始まり、王はあなたの保護を命じている。即刻、帝都へ戻るべし」 その言葉は、エルの耳には、まるで死刑宣告のように重く響いた。公爵令嬢としての名前を呼ばれた瞬間、エルの足元から、砂が崩れるような感覚がした。
「王弟派の暴動だと!?」 村長が、震える声で叫んだ。彼の顔は、恐怖と怒りで蒼白になっている。 「この村まで、その戦いが及ぶというのか!? 全て、この女のせいじゃないか!」
村長の言葉は、乾いた薪に火が付くように、あっという間に村人たちの不満と不安を煽り立てた。彼らの視線は、もはやエルに対する非難の毒矢と化していた。彼らの脳裏には、数年前の悪夢が蘇っていた。
あれは、冬が始まる前のこと。深い霧が村を覆い、見慣れない魔物の群れが、森の奥から押し寄せてきたのだ。それは、影のように黒く、異様に長い腕を持つ『シャドウリーチ』。彼らは音もなく家々に忍び込み、眠る人々の記憶を喰らうという。村人たちは、夜な夜な悪夢にうなされ、やがて現実と夢の区別がつかなくなり、錯乱状態に陥っていった。
『お父さん、誰なの!? 知らない人がいっぱいいるよ!』
幼い子が、自分の両親を見てもそう叫び、怯え震えた。畑は荒らされ、家畜は食い荒らされた。村中が、恐怖と飢餓で支配されたのだ。あの時、何人もの村人が、正気を失い、あるいは魔物の餌食となった。
レンの妹も、あの魔物の犠牲になった一人だった。朝、冷たくなった妹の顔は、白いロウのように固まっていた。レンの母は、その日以来、妹の好きだった歌を二度と歌わなくなった。一家の食卓から笑い声が消え、父の肩には、見るからに重い鉛の塊が乗ったようだった。その時の絶望的な光景は、村人たちの心に、深い爪痕を残していた。
しかし、その地獄のような日々の中、エルがこの村にやってきた。当初、彼女は謎のよそ者として警戒された。だが、彼女が「風凪ぐ丘のパン屋」を開き、温かいパンを焼き始めた時、少しずつ村の空気は変わっていった。
ある日、収穫期に予期せぬ豪雨が続き、小麦が病に侵されそうになった時があった。誰もが今年の収穫を諦めかけたその時、エルは、王都の文献で読んだという古い保存方法を試すことを提案した。それは、特定の薬草を混ぜた泥で小麦を覆うという、誰もが半信半疑になるような方法だった。しかし、エルの必死な懇願と、彼女のパンの美味しさを知る村人たちの「もしかしたら」という小さな期待が、彼らを動かした。結果、彼女の知識と機転によって、その年の小麦は奇跡的に守られ、村は飢えを免れたのだ。あの時、村長はエルの手を握り、「あんたは、この村の命の恩人だ」と、涙ながらに感謝の言葉を述べた。
また、コタの祖母が風邪で寝込んだ時には、エルは珍しい薬草の知識を活かし、薬湯を煎じて差し入れた。その薬湯の、嗅ぎ慣れない独特の土の匂いは、最初は祖母を怯えさせたが、一口飲むと、体の芯から温まるような感覚に包まれ、数日で祖母は回復した。その時、コタの母親は「エルさんのパンと、エルさんの優しさに、本当に救われたんです」と、心の底から感謝の言葉を述べた。彼らは、エルが公爵令嬢であるという事実を受け入れた上で、彼女の存在を求めていた。それは、彼女の身分ではなく、彼女自身、そして彼女がこの村にもたらした温かさを、彼らが心から必要としている証だった。
彼らは、エルがこれまで提供してきた温かいパンの恩恵も、彼女の優しさも、目の前の『公爵令嬢』という身分がもたらすかもしれない新たな厄災の前では、あっという間に霞んで見えた。村の空気は、急速に冷たくなっていく。それは、冬の朝、窓ガラスに結露する冷気のように、じわじわと、しかし確実に、村人たちの心に不信感を広げていた。エルとルネは、その冷たい空気に包まれながら、互いの存在だけが、かろうじて希望の火を灯しているのを感じていた。
昨日までパンを買いに来ていた子どもたちの親も、その中に混じっている。彼らの顔は、もはやエルを知らない赤の他人の顔だった。その声は、エルの心に、千の針を突き刺すような痛みを与えた。まるで、自分という存在が、透明なガラスのように砕け散っていくような感覚だった。
ルネは、その光景を、固唾を飲んで見守っていた。彼の手は、いつの間にか、木彫りの人形を握りしめ、その木片がミシミシと音を立てるほど強く握りしめられていた。ルネの胸には、言いようのない怒りが、燃え盛る炎のように渦巻いている。彼にとってエルは、この村の光そのものだった。彼女の焼くパンは、村人たちの心に温もりを灯し、彼女の笑顔は、日々の労働の疲れを忘れさせてくれる清涼剤だった。それが、たった一人の騎士の言葉によって、一夜にして崩れ去ろうとしている。
「彼女は罪人ではない!」ルネの声が、剣の切っ先のように鋭く、広場に響き渡った。彼は、まるで巨大な岩石のように、エルの前に立ちはだかる。 「彼女は、ただこの村で、静かにパンを焼いていただけだ! なぜ、この村が巻き込まれなければならない!?」 ルネの言葉は、村人たちのざわめきに一瞬の静寂をもたらしたが、それはすぐに、さらに大きな反発の波に飲み込まれた。
「ルネ、お前は何も分かっていない! この女は、高貴な身分の人間だというじゃないか!」 「そうだ! こんな辺境の村に、わざわざ身を隠していただなんて、何か悪いことをしたに決まっている!」 村人たちの声は、まるで荒れ狂う嵐の咆哮のように、ルネの耳を打ち鳴らす。彼らの目には、恐怖と疑念が、濁った水のように淀んでいた。ルネは、彼らの言葉が、まるで熱い鉛を流し込まれるように、じりじり と胸を焦がすのを感じた。彼らが、エルを、今まで見てきたエルを、ほんの数時間で手のひらを返すように裏切っていく。その光景は、ルネの心を、深淵の闇へと引きずり込んでいくようだった。村の空気は、急速に冷たくなっていく。それは、冬の朝、窓ガラスに結露する冷気のように、じわじわと、しかし確実に、村人たちの心に不信感を広げていた。エルとルネは、その冷たい空気に包まれながら、互いの存在だけが、かろうじて希望の火を灯しているのを感じていた。
【王都の貴族たちの視点】
同じ頃、遠く離れた帝都の王宮では、王弟派の暴動の報が、王の間を嵐のように駆け巡っていた。玉座の間は、もはや豪華な謁見の場ではなく、策略と陰謀が渦巻く、凍てついた戦場と化している。王の顔は、白い蠟燭のように血の気が失せ、その両脇に控える貴族たちの顔もまた、醜い打算と恐怖に歪んでいた。
宰相のアルベール・ド・ヴァルモントは、皺だらけの指で書類を叩きつけ、憤怒の声を上げた。 「エレノアを連れ戻せ! 彼女がいなければ、グラント公爵家は完全に瓦解する。そうなれば、我々王党派の勢力は、さらに弱体化する!」 彼の言葉は、まるで鋭利な刃物のように、周囲の貴族たちの耳を切り裂いた。グラント公爵家は、王党派の中核を担う名門。その当主である公爵令嬢エレノアが失踪したことは、彼らにとって、まるで足元から地面が崩れ落ちるような危機だった。ヴァルモントにとって、エレノアは、ただの「公爵家の道具」に過ぎなかった。彼女の美貌も、才覚も、すべてがグラント公爵家を繁栄させるための駒。その駒が、勝手に盤上から姿を消したなど、許されることではない。彼らは、エレノアを王国の外交戦略における「切り札」として温存していたのだ。周辺諸国との同盟強化のため、エレノアをある国の王子に嫁がせる計画が、水面下で進められていた。彼女の失踪は、その計画を白紙に戻し、王党派の外交的優位を揺るがしかねない事態だった。
「しかし、あの令嬢は、王都を嫌い、自ら身を隠したと聞きますが……」 若手の貴族、レオナルド・ド・サン=ジェルマンが、恐る恐る口を開く。彼の言葉は、広間に響く雷鳴の中で、かき消されそうに小さかった。彼は、エレノアが公爵令嬢として晒されていた苦悩を、わずかながら理解していた。社交界の陰湿な駆け引き、政略結婚の道具として扱われる現実。しかし、その弱々しい意見は、宰相の怒声にかき消された。 「たわけ! 個人の感情など、今この時に、何の意味がある! 王国の存亡がかかっているのだぞ!」 宰相の怒声が、レオナルドを射抜く。
別の老獪な貴族、デュラン・ド・ラ・ヴァリエールが、薄い唇で冷笑を浮かべた。彼の瞳は、エレノアの帰還が、いかに自分たちの権力争いに有利に働くかという、狡猾な思惑を宿していた。 「エレノアが戻れば、王弟派も牽制できるだろう。彼女の婚約者であったグレイ卿も、まだ諦めてはいないはず。彼に力を貸させれば、一石二鳥よ。グレイ卿は、王弟派に傾きかけているグラハム伯爵家との繋がりもある。エレノアの件で彼を縛り付ければ、グラハム伯爵家も王党派に引き戻せるかもしれん」 デュランは、まるでチェス盤の駒を動かすかのように、エレノアとグレイの関係性を利用する策略を練っていた。
王は、疲れ切った顔で、ただ一言、命じた。
「……エレノアを、必ず連れ戻せ。それが、王国の、そしてお前たちの、責務だ」 王の声は、まるで枯れ果てた泉の底から響くように、微かに、そして諦めを含んでいた。彼にとって、エレノアは、かつては愛らしい姪であったかもしれない。しかし、今となっては、王国を揺るがす危機の中で、利用すべき「最後の切り札」でしかなかった。帝都の空は、暗い雲に覆われ、まるで血の雨が降りそうなほどに、重く淀んでいた。彼らの思惑は、蜘蛛の糸のように複雑に絡み合い、エレノアという一点を中心に、世界を操ろうとしていた。それは、遠い辺境の村のパン屋の娘に、帝国の命運が左右されるという、皮肉な現実の幕開けだった。
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