第3話 忘れられない名前

午後の静寂が、パン屋の店先に降りていた。窓から差し込む光は、店内の埃を金色の粒にして舞い上がらせ、時間がゆっくりと流れるように感じさせる。エルは、焼き上がったばかりのクッキーを、トングでカチャカチャと音を立てながら棚に並べていた。その甘やかな香りが、店中に満ちる。

その時、店の扉がギィ、と鈍い音を立てて開いた。顔を上げたエルの視界に飛び込んできたのは、見慣れない旅人の姿だった。身の丈ほどもある剣を背負い、旅装に身を包んでいる。しかし、その顔を見た瞬間、エルの心臓が氷の刃で貫かれたかのように凍りついた。彼の瞳が、エルの目を捉える。それは、王都の夜空に輝く、どの星よりも冷たい光を宿していた。

「エレノア……ここにいたのか」

その声は、錆びついた扉が軋むように低く、そして、どこか諦めを含んでいた。エル、いや、エレノアの全身から血の気が引く。掌から、持っていたクッキーがカタリと音を立てて床に落ちた。その甘い香りが、一瞬にして鉄の匂いに変わったような錯覚に陥る。彼は、グレイ。彼女の、元婚約者だった。

グレイは、一歩ずつエルに近づいてくる。その足音が、遠い過去の記憶を呼び起こすように、エルの耳元でコツコツと響く。 「探し求めた。お前が消えてから、どれほどの時が流れたと……」

彼の言葉は、まるで彼女を縛り付ける鎖のように、ずしりと重い。グレイの瞳は、エルの顔を焼き尽くすかのように見つめていた。彼の視線は、王都の社交界で交わされた、無数の猜疑と嘲笑の視線そのものだ。 「なぜ……」

エルの喉が張り付き、声が出ない。 「戻ってきてほしい。公爵家は、今、混乱の渦中にある。お前がいなければ、家は……」

グレイの声は、切羽詰まっている。彼の顔には、疲労と焦燥の影が深く刻まれていた。彼は、かつての気高く冷徹な表情の裏に、深い苦悩を隠している。しかし、エルには、その言葉が、再び自分を王都の檻に引き戻そうとする呼び声にしか聞こえなかった。彼の言葉は、彼女の心の奥深くに根差した「自由」への願望を、容赦なく踏みにじる。

その日の午後、村の中心部では、いつも通りルネが子供たちに木彫りの人形を教えながら、朗らかな笑い声を上げていた。彼は、エルが焼き上げたばかりの『太陽のメロンパン』を頬張り、その甘さに目を細めている。 「ルネお兄ちゃん、これ、どうやって彫るの? 僕のは、いつも変な形になっちゃうんだ」

小さな男の子、コタがルネに尋ねる。 「ん? ああ、コタ。大事なのは、木の声を聞くことだよ。この木が、どんな形になりたがっているか……」

ルネは優しく答えながら、コタの小さな手に彫刻刀をそっと添える。彼にとって、この村での時間は、エルのパンの香りと同じくらい、穏やかで満ち足りたものだった。エルが過去に何かを抱えていることは薄々感じていたが、それは彼女自身の問題であり、ルネが踏み込むべき領域ではないと考えていた。しかし、その日、パン屋の前に見慣れない旅人が立っているのを遠目に見た瞬間、ルネの心臓が不規則な波を打った。その旅人の周りだけ、世界の空気が異質に淀んでいる。直感だった。エルに、何か危険が迫っている、と。

パン屋の窓ガラスが、外から差し込む夕日で赤く染まり始めていた。エルとグレイは、店の中で向かい合っていた。エルの心は、嵐の前の海のようにざわめいている。彼女は、目の前の男が、どれほど彼女の過去を象徴しているかを知っていた。彼が現れたことで、この村での平穏が、脆いガラス細工のように音を立てて崩れていく気がした。

「私はもう、エレノアではありません。ここは、私の居場所です」

エルの声は、震えていた。しかし、その言葉には、決して譲れない固い意志が宿っていた。

「居場所? 

こんな辺境の村で、パン屋など……お前には、もっと相応しい場所がある!」

グレイの声が、苛立ちに高まる。彼の瞳は、もはや理性を失ったかのように、ただ一点、エルを捕らえて離さない。

その夜、ルネはパン屋の窓から漏れる明かりを見ていた。エルが店の中にいることは分かっていたが、彼の隣には、見慣れない男の影が映っている。その男が、エルの心を深く揺さぶっていることは、ルネにも痛いほど伝わってきた。エルの表情は、いつもの穏やかさを失い、まるで嵐に晒された小枝のように震えていた。ルネの胸に、説明のつかない焦燥感が広がっていく。それは、胸の奥底に、硬い氷が突き刺さるような痛みだった。エルが、手のひらから砂のように零れ落ちていく。その恐怖が、ルネの喉を締め付け、呼吸を奪う。彼は、これまで感じたことのない、途方もない喪失感に襲われていた。エルが、過去の影に引き戻されようとしている。しかし、ルネには、その「過去」が何であるか、まるで霧の中のように見えなかった。ただ、彼女が苦しんでいることだけが、痛いほど胸に突き刺さる。彼とエルの間に、目に見えない深い溝が、ゆっくりと、しかし確実に広がり始めていた。それは、同じ星の下に立ちながら、異なる夜空を見上げているような、すれ違いの始まりだった。

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