郷愁~習作・夢十夜

夏空ぼんど

郷愁

 こんな夢を見た。

 厚ぼったい緞帳が左右に分かれると拍手の潮騒が舞台へ流れ込んできた。

自分は舞台向かって右側の袖におり、目の前が朝焼けのように明るくなるのをじっと見ていた。大道具の類いはひとつもなく、板敷の床がバレエ教室のように広がっている。その空間に投げ出される時が迫っているらしく、自分はいやに焦っていた。

 やや駆け足で舞台に飛び出した。おお、という歓声と同時に拍手が波を打った。舞台の中央にはマイクが置いてある。漫才で使うサンパチと呼ばれるものだ。「ええ」と言いながら客席を見渡す。天井から差す照明が強く、視界に幕を張った。上が白く、下が黒くなるような塩梅あんばいである。

「本日はようこそお越しいただきました」

 そう口火を切って、自分は何やら自己紹介を始めている。次第に目が慣れて、観客の顔が暗闇に浮かんできた。客席は斜面も椅子もない平土間で、ちょうど体育館のステージに立っているような気分であった。後ろを見るにしたがって正面の照明が太陽のように照り付け視界を塞いだ。客席がどこまで広がっているか分からなかったが、人影の山脈を見るに満席であることは理解していた。

 右から左、左から右へと視線を移しながら、自分は絶えず何かをしゃべっている。言い終わる度に観客は笑う。パンと弾けるようであったり、グワンと波打つようであったり、とにかく何を言っても観客にはウケた。自分自身、何を言っているのかよく分かっていない。それでも観客が笑うものだから自分は調子に乗ってしゃべるのをやめない。

 そうする内に自分はあることに気づいた。観客の顔が減っているのである。判子売り場のように顔が並んでいた観客席に、ちらほらと歯抜けが見られるようになった。気にはなったが、自分はやはりしゃべるのをやめない。立ち上がる人影はなかったけれども、知らぬうちに一人、また一人と、観客が消えていくのである。その瞬間を見せぬためにか、白い照明が一段と眩しくなった。

 いよいよ笑い声も少なくなって、自分はひどく戸惑いはじめた。立て板に水だった弁舌が石ころにつまづくかのように覚束おぼつかなくなった。自分が言葉に詰まるごとに観客が消えていく。そんな気がして余計に言葉が出てこない。やがてつるりとした床が暗闇に浮かぶだけとなり、自分はしゃべるのをやめた。

 とむらいの気配が漂っていた。沈黙の中自分は動けずじっと客席を見ていた。やがて自分も消えてしまうのだという不安感が身を硬直させた。正面から射す照明は煌々こうこうと自分を焼き尽くさんばかりに照らしていた。

 その時、客席の中央に女性が一人立っているのを見つけた。見間違いだろうか。ほとんど影しか見えていない上にその影は微動だにしない。しかしそれが中年の女性であることがなぜか察せられた。

 自分はその人物を知っていた。顔も見えない上に立ち姿も明瞭ではなかったが、自分はその女性が誰なのかを直感した。

「おかえり。ご飯できてるから」

 母はそう言って、客席の後方に姿を消した。自分は舞台を飛び降りてその後を追った。無心で走っていた。自分を照らす照明に向かって無我夢中に走っていた。目が痛いほどに眩しいそれが、いつしか温かいだいだい色に変わっていた。その果てに向けて、自分は無心で走っていた。カレーの匂いが私の鼻を突っついた。

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郷愁~習作・夢十夜 夏空ぼんど @bond_novel0728

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