第6話
「ヘニー!」
イザベラが叫んだ。
思わず看護師と顔を見合わせたわたしは、返事に詰まった。
ヘニーとはイザベラの最愛の妹、ヘンリエッタの愛称で、世界各地から、彼女が手紙を出し続けた相手ではなかったか。
そのヘニーは、もう、いない。
二十数年前に、妹のヘンリエッタはチフスで天国に召されている。
「あなたは彼女の妹さんに似てらっしゃるのかもしれませんね」
看護師の言葉に、わたしはようやく笑顔になった。
そうかもしれない。
イザベラの妹のヘンリエッタは、物静かな家庭的な仕事を愛する、イザベラとは正反対のタイプの女性だったという。
はじめてイザベラに会ったとき、溌剌としたマギーの横でひっそりと話を聞いていたわたしが、ヘンリエッタを
看護師は顔色が良いと言ったが、今日のイザベラは、前回に比べて、病状が回復しているようには見えなかった。
小さな身体をベッドの上で丸めて、長すぎる袖にくるまれた両手を、毛布の上に所在なげに置いている。
「もし、お疲れでしたら、すぐにお暇しますわ」
持参したイヌバラの花束を、そっとサイドテーブルに置いてから、わたしは努めて大きな声で、言った。
イザベラの耳が少し遠くなっていることを、前回の訪問の際に気づいていたからだ。
こちらに向けられたイザベラの目には、なんの変化も起こらなかった。
わたしは背筋を伸ばしたまま、イザベラの言葉を待った。
風が、窓のカーテンを揺らしている。ひんやりとした心地いい風だ。
カーテンが風になびくたび、窓の向こうに広がる荒地が見えた。
ちょうどヒースが色づいて、丘は赤紫色に染まっている。
静かだった。
部屋の棚に置かれたオークでできた時計が、規則正しく小さな釘を叩くような音をさせている。
その音を、十、二十・・四十まで数えた。
依然、イザベラはなにも言わない。
しびれを切らして、わたしは言った。
「今日はどこのお話を聞かせていただけますか?」
びっくりしたように、イザベラの目が見開かれた。
「前回うかがったチベットの渓谷のお話は興味深かったですわ。断崖絶壁の道を――」
ふいに、イザベラが呟いた。
「ウーズ川が大好きだったのよ」
「ウーズ川? それは、どこですか?」
「セント・アイブスのウーズ川ですよ。船を浮かべて、お父さまといろんなお話をしました」
ああと、わたしはうなずいた。
セント・アイブスは、イングランドのハンテンドシャーにある小さな町だ。
父親の赴任にともなってその町に赴いたイザベラは、ここで静かな少女時代を平和に過ごした。
「すばらしい思い出なのですね」
わたしの問いかけに、イザベラは夢見るような表情で、続けた。
「ウーズ川には馬で行きました。ちょっとした遠出でしたよ。お父さまはわたしの乗馬の腕が自慢でね、村のひとたちとすれ違うと得意そうな顔をしていました」
イザベラの目は生き生きと輝きはじめた。
「お父さまはわたしになんでもさせてくれたんです。馬で駆けることも、勉強も、わたしの興味のあることをすべて。
裁縫や料理なんてする必要はないと言ってくれたわ。
きっと、普通の女性になることを望んでなかったのね。
普通の女性にはできないような、なにか大きなことができる娘だと、お父さまはわたしを信じて手助けしてくださった」
イザベラが小さな教区の牧師である父親から、大きな期待を背負って成長していったことは知っていた。
著書を読むと、そんなイザベラの姿が浮かんでくる。
「お父さまはお気の毒な方だった。
教区の人たちはお父さまの考えが理解できなかったのよ。
お父さまは、人々のしあわせのために、神の教えを貫こうとしたのに、教区の人々ときたら、安息日を守ろうともしない……」
イザベラはゆっくりと頭を振った。
そして、ふたたび生き生きと輝く目になって、続けた。
「でもわたしは負けやしなかった。がんばったのよ。
一人前以上にできるように、なんでも努力したんです。
そして、並みの男性にもできないようなことをしたんだわ。
そんなわたしを、お父さまは誇りに思っていました。
わたしは何度も思ったものです。わたしは息子ではなかったけれど、息子以上のことをしたんだと」
「もちろんですわ。あなたは男性になんか負けていません。あなたの踏んだ未踏の地は――」
すると、イザベラは不思議そうな顔をわたしに向けた。
「どこへ行ったですって?」
「どこって――、たとえば日本です。あなたは日本の奥地にも行かれたではありませんか」
「わたしが? 日本へ?」
目を見開いたまま、イザベラは窓に顔を向けた。
わたしの存在など見えていないかのように、赤紫色に染まったヒースの丘を眺める。
ようやくイザベラが言葉を発したとき、ちょうど窓枠に飛んできた灰色の毛をした小鳥が鳴いて、わたしにはイザベラがなんと言ったのか聞き取れなかった。
「なんとおっしゃったんです?」
イザベラは、依然窓に顔を向けたままだ。小鳥は飛び去っていったが、彼女の視線は小鳥を追うでもない。
イザベラの声がはっきりと聞こえてきた。
「日本――、どこにあるのかしら」
窓から風が入って、わたしは身震いした。夏の盛りにも、エディンバラでは、ときおりこんなぞっとするほど冷たい風が吹く。
わたしは窓を閉めようと、立ち上がった。
イザベラは、寒さを感じないのか、毛布を引き上げようとはしなかった。
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