第6話 終幕、そして舞台は崩れ落つ

 チャイムの音があたりに染み渡った後、世界は雨音に支配された。この雨はきっと、太古の昔から降り続いている。そう思えてきたころ、インターホン越しに明莉の声がした。


「……誰?」

「久しぶり。声、聞きたかった。入るよ」

「……待って。開ける」


 一拍おいて、ドアが開いた。明莉は入ろうとする大木を阻むように、ドアノブを握りしめたまま立っていた。

 久しぶりに会ったけど、やっぱり、きれいだ。大木は明莉の頬に手を差し伸べようとした。


「やめて」


 降りしきる雨も凍りつきそうな、冷たく、重い声だった。


「明莉……?」

「もう、やめよう。……終わりだよ、私たち」

「何でそんなことを言うんだよ。俺、やっぱり気が付いたんだ。俺には明莉しかいないって。明莉が応援してくれるから、俳優を続けられたんだって」


 俳優という言葉に、明莉は不思議そうな顔をした。


「俳優?」

「ああ、そうだ。スターを目指したのは自分の夢だけど……明莉のためでもあるんだ」


 大木の態度は、束の間の赦しを乞う仮初の演技ではなかった。今まで、二人の間にそんな演技は不要だった。そして、恐らくこれからも。大木は、そう信じていた。


「私たち、どうして付き合いだしたんだっけ……」


 大木は雷に打たれたようにその場に立ち尽くした。世界のすべてが、停止したように思われた。頬を滴る水だけが、動くことを許されている。

 黙ったままの大木に、明莉は傘を押しつけた。


「……さよなら。それ、帰さなくていいから」


 今まで何度も通ったドアとともに、最後の希望が閉ざされた。大木はふらつく足取りでその場を後にした。

 黒土は大切なものを失わせると言っていたが、一つだけとは言っていなかった。俳優としての栄光も、積み重ねた努力の跡も、恋人も何もかも奪い取っていった。

 降りやまぬ雨の中、 大木は傘を抱きかかえるようにして、いつまでも立ち尽くしていた。


 都内で一番大きな映画館に、大勢の観客が詰めかけている。表紙に吉川翔と川相優希が映ったパンフレットが、飛ぶように売れていく。二人が扮する役柄の等身大パネルに大勢のファンが列をなしていた。


 内部の喧騒とは裏腹に、静けさの漂う地下駐車場に一台の車が停まった。助手席から男がすばやく降り、後部座席のドアをうやうやしく開ける。すらっと長い脚を差し出して降りてきたのは、サングラスをかけた吉川翔だった。


「ありがとう、柏葉」

「いえいえ吉川さん!いつみてもカッコイイっす!」


 吉川のちょっとした労いに、柏葉は何千倍もの媚びで応えた。


「舞台挨拶の抽選に漏れた人も大勢押し掛けてるみたいですよ」

「ああ、車からも見えた。映画館の前もごった返していたな」

「いやあ、やっぱり吉川さん半端ないっす!」


 二人が去ったあとも、笑い声が駐車場にこだましていた。


 映画館のロビーはますます混雑し、係員が対応に追われている。大半が大学生くらいの年代の中で、ひとり、三十代半ばの男がいた。年長だが、大学生に比べいくぶん覇気のない声で観客を誘導している。


「よ、吉川翔の舞台挨拶に当選していない方は、いったん外でお待ちください」

「吉川翔さん、でしょ!呼び捨てにしないで!」

「一目でいいから見せて!」


 まったくといっていいほどやる気のもこもっていない声に、案の定、押し寄せる観客を止める力はなかった。

 近くの女性スタッフが見かねて声をかける。男より一回りほどは若そうだ。


「ちょっと、そこの新人さん、もっとハキハキ案内できますか?」

「……はい」


 言われたそばからやる気のない返事は、フロアの喧騒にかき消された。別の若い男性スタッフが、その女性スタッフに耳打ちする。


「あの新入り、ダメだなあ」

「あの年でフリーターなのも納得だよね。で、名前何て言ったっけ?」

「ああ、えーと、確か大井、じゃなくて大木だったかな」

「ふうん。ま、いいや。どうせスポット派遣の人だし、もう来ないでしょ」


 観客の波に揉まれながら、大木はひとりごちた。


「スターになった気分はどうだ?」


 吉川翔と川相優希の等身大パネルを見やっても、返事はない。ぼんやりしていると、大木は黒い服を着た男性客とぶつかった。


「あっ、すみません」

「いえ、こちらこそ」


 どこか上の空の謝罪に、黒服の男は柔和な笑顔で応じた。


「あの、お客様、ただいまお並び頂けるのは、舞台挨拶の当選者の方だけで……」

「そうですか。これは失敬」

「申し訳ございません」


 黒服の男は身振りで構わないよと答え、その場を立ち去った。去り際になにか言っていたが、大木は聞きとることができなかった。


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