第4話 転落

 広々としたホテルのホールに大勢の報道陣が詰めかけていた。あれから数か月、大木が主演を務めた細枝監督の映画が完成し、その試写会が開かれていた。

 無機質なシャッター音が切れ間なく響く中、細枝監督や映画に出演した俳優たちが純白のクロスを引いた長いテーブルを挟んで記者たちと対峙していた。細枝監督はおなじみの無表情を崩さない一方、俳優陣は報道陣に笑顔を振りまいている。

 華やかな記者会見の一幕。俳優陣の真ん中に座っている大木だけが、その雰囲気に溶け込むのを拒むかのように尊大な表情をしていた。

 時おり、大木は隣に座る美貌の若手女優にちらりと視線を送るが、女優は報道陣の方ばかり向いて大木の方を見向きもしない。

 記者の一人がその女優に質問を投げかけた。


「川相さんは今回初めて大木さんと共演されたそうですが……その、いかがでしたか?」


 大木はなぜ先に自分に尋ねないのかと思い、少しむっとした。川相優希は実力派若手女優として大木より何歩も先にブレイクしていたが、主演はあくまで自分だ。撮影期間中、何度も二人きりで食事や飲みに行こうと誘ったのを、すべて断ったところも気にいらなかった。

 そんな大木の不満をよそに、川相は首を傾げながら答えた。


「そうですね、演技がその、個性的っていうか……」


 役柄以外ではあまり積極的に話さない川相優希は、そのまま言葉に詰まってしまった。大木の顔が徐々に引き攣る。


「どうなんですか、大木さん?」


 記者が問い詰めるように矛先を大木に変えた。


「お、俺は……」


 会場を見渡す。気付けば向けられているのはカメラ、カメラ、カメラ。人間ではなくカメラと対峙しているみたいだ。カメラマンたちは大木の表情筋のわずかな動きすら見逃すまいと、激しくフラッシュを焚く。祝いも労いも何ひとつ感じられない。

 あれほど欲した輝きが、今は宇宙の最果てにある氷の惑星のように冷たく感じられる。

 大木は光から目を背けるように俯いた。左右の俳優陣が怪訝な表情で大木を見る。記者たちも顔を見合せている。


「俺は実力がある、俺は実力がある、俺は……」


 大木は自分を奮い立たせようとして、呪詛のように同じ言葉を呟き続けた。救いを求めるかのように細枝監督をちらりと見ても、黒いサングラスに隠された目が、何を語っているのかはわからない。わかったら怖い気もして、大木は目を背けた。


 報道陣がざわつき出す。


「主役を張れるタマじゃないだろ」

「細枝監督の見る目も狂ったか」

「でも俳優大賞の候補なんだろ……?」


 大木は耳にふたをしたかった。代わりに、『才能』の二文字を、心を守る呪文のようにひたすら念じ続けた。

 試写会も記者会見も散々な結果に終わった。細枝監督の試写会があれほど盛り上がらないなんて前代未聞だった。終わった後のざわめきが、去っていく記者たちの嘲笑のように聞こえた。川相優希はそそくさと引っ込み、他の共演者たちはいたたまれない眼差しを大木に向けていた。

 くそ、川相優希。お前が俺を正しく評価すれば、こんなことにはならなかったはずだ。せめてもの償いに、今夜こそ一緒に食事をしてもらおう。大木は川相優希の楽屋の前にやってきた。ノックしようとすると、ドアがひとりでに開いた。

 大木が「さっきの会見、どうして口ごもった?」と問い詰めながら部屋に入ろうとすると、見知った顔の男がそこにいた。


「入っていいなんて言ってないぞ」


 すらりとした長身から適度に鍛えられた腕が伸びて、大木の行く手を阻んだ。その男を睨む大木の瞳は、自分でもわかるほど、怖れと嫉妬に揺れていた。


「なんで優希の楽屋にいるんだよ……吉川翔」

「それはこっちのセリフだ。ま、あんたに仕事を取られてスケジュールが開いた分、こうして優希に会いに気やすくなったが」


 恨みがましさたっぷりに吉川は返した。蔑むような視線のおまけつきだ。切れ長の目で見据えられると、大木は無性に腹が立ってきた。


「マスコミが押し寄せてるのによく来たな。交際疑惑なんて報じられたら優希が迷惑だろ」

「あんたこそ、あんな演技でよく記者会見なんて出られるよな。俺なら恥ずかしくて引退するぜ」

「何を……!」


 出入口で押し問答していると、吉川の背後から川相優希が顔を覗かせた。川相は心底迷惑そうな表情で大木を見てから、頭二つ分くらい差のある吉川の顔を、縋るように見上げた。


「……俳優大賞、もうすぐ発表だ。俺はその候補なんだぜ」


 大木は胸を張る。そうすることで川相の心を奪えるとでもいうように。傍から見ればぎこちない大根役者のようだった。

 川相の怜悧な顔に、素っ頓狂な驚きの色が浮かぶ。


「あなたが、大賞?」


 演技でも聞いたことのないような冷たい声音だった。大木は何か言いかえそうとするが、セリフを忘れてしまったかのように、声が出てこない。吉川翔が二の太刀を浴びせた。


「ほんと、おかしいよな。いくら積んだんだ?」


 川相は頷きながら、大木に矢のように鋭い視線を浴びせた。

 なんだよ、その目は。大木が口を開く前に、川相優希はじっと言葉を紡ぎだした。


「大木さん、私、あなたの演技が好きになれない――なれないっていうか、下手」


 大木の顔が青ざめる。楽屋の空間が、ぐにゃりと曲がったような気がした。ふらふらと後ずさる大木に、川相は崖から突き落とすかのような、最後の一撃を繰り出した。


「それと私、お付き合いしてるから。翔と」


 大木は屈辱と怒りにまみれすぎて言葉も出なかった。自分を突き動かしているのが嫉妬なのか恥辱なのかもわからないまま向かったのは、都心のマンションだった。仕事が忙しくなり、テレビ局との行き帰りに便利だからと新たに借りていた。今ではアサギら他の女を囲う場にもなっている。

 アサギは地位と金に目が眩んで、いつでも俺に媚びてくる。こんなときは頭を空っぽにしてああいう女を抱くのがいい。

 ひびの入ったプライドを歪んだ優越感にくるみながら、大木は部屋に入った。いつもならアサギが飛びついてくるのに、今日はしんとしている。代わりに大木を待っていたのは、寄り添い合うように並んだ、女のハイヒールと男物のブーツだった。二足の靴が艶めかしい光沢を帯びている。部屋の奥からかすかに聞こえる嬌声が、靴の履き口から聞こえるような気がした。

 大木はヒールとブーツを蹴り飛ばすと自分の靴を脱ぎ捨て、迷いなく寝室まで走った。

 他の男がいると思うと腸が煮えくり返って胃液が蒸発しそうなのに、吐き気がこみ上げてくる。心と身体の不協和音に押され、大木は扉を開けた。

 大木の目に飛び込んできたのは、ベッドの上で規則的に揺れる、白いふとんだった。どくんどくんと蠢く生きもののようだ。枕のあるほうに茶色の毛玉がふたつ、折り重なって絡み合い、唸り声と嬌声を上げている。


「アサギ、誰を連れ込んだんだよ……!」


 大木の怒鳴り声に、白い塊は動きを止めた。茶色の毛玉が二つとも大木のほうを向いた。果たしてそれは、大木が囲っていたアサギと、マネージャーの柏葉だった。二人とも似たような茶色の髪をしている。


「柏葉、お前……!」


 大木はふとんをひきはがし、柏葉をベッドから引きずり下ろした。


「大木さん、違うんです、これは……。だからホテルに行こうって言っただろ」

「えー、だって寂しかったんだもーん」」


 アサギは枕を抱きかかえながら唇をとがらせた。大木は顔を真っ赤にしてアサギに詰め寄る。


「ふざけんな!俺を誰だと思ってるんだよ!」


 大木が伸ばした手を、アサギは野良猫が人間を寄せ付けまいとするように振り払った。


「は?あんたも他に何人も囲ってるじゃん。行けば?カリンとか、あと誰だっけ……そう、明莉とかいう女」


 大木が釣り上げられた魚のように口をぱくつかせるていると、柏葉がしらけた表情で言いい放った。


「ぶっちゃけムカついてたんすよね。気に入らないことがあるとすぐに大きな音を立てるところとか。……大してうまくもないくせに」


 アサギに触れようとして伸ばした腕が、力なく垂れさがる。潮が引いたように沈黙する大木を、アサギと柏葉は気味悪そうに見ていた。

 澱んだ空気が部屋の底にたまりそうになったとき、大木は肩を小刻みに震わせて小さく笑い始めた。


「く、くくく……」

「ちょっと何?まじでキモいんだけど。ねえ、早くこいつ追い出してよ」


 アサギは柏葉にあごで指図する。


「ええ、俺かよ……」

「あんた、マネージャーでしょ」

「ちっ、仕方ねえなあ」


 柏葉が「大木さん、帰って下さい」と声をかけつつ大木の肩をたたく。


「これは何というか、お互い割り切ってるんで」


「さすがですね、大木さん!」などと媚びていた男の声とは思われくて、形のない感情に大木は喉を詰まらせた。


 動かぬ大木の肩を柏葉がもう一度たたくと、大木はスイッチが入ったかのように大声で笑い出した。


「ははは、はははははっ!」


 柏葉が飛びのき、アサギの顔は恐怖に染まった。


「何なんだよ、ほんと出てってくださいよ」

「出てって!もう来ないで!」


 枕を顔に投げつけられても、大木は俯きながらまだ笑っていた。

 アサギの部屋を叩き出され、大木はマンションを背にのそのそと歩いていた。どこへ向かっているのか、自分でも分からない。ただ足が動くから進んでいるだけだ。途中、何人かすれ違った通行人は、皆一様に大木を避けて歩き去った。

 気がつくと街中のカフェの前まで来ていた。日はすっかり落ち、大きな窓ガラスから漏れた光が歩道を照らしている。大木が店内を見ると、一人で本を読んだりコーヒーをすする客もいれば、何組かのカップルもいた。

 大木は明莉とも時々こういう店に来たことを思い出していた。将来の夢、一緒に住むための作戦会議、名もなき数々の話題。いろんなことを語り合った。最後に明莉とちゃんと話したのはいつだったろう。

 大木はポケットからスマホを取り出し、明莉とのLINEの履歴をみた。通知がいくつもたまっている。画面のタップして中身を見ると、上の方は≪ドラマ、みたよ!すごくかっこよかった≫とか、≪どんどん売れっ子になってるね≫といった誉め言葉が連ねられている。下にスクロールすると、≪今どこにいるの?≫≪いつ会えるの?≫と続いていた。

 最後に現れた言葉に、大木は胸がきゅっと締め付けられるのを感じた。


《あとで電話できない?》


 バカだ、俺。他の有象無象と違って、明莉だけはまだ自分の才能を理解してくれていたのに。多忙さを言い訳に欲望を優先してしまった。連なったメッセージは己の罪の積み重ねのように感じられた。

 まだ信じてくれているはずだ。大木はそう信じて、通話ボタンをタップした。無機質な呼び出し音が鳴る。大木の傍を、カフェから出てきたカップルが通りすぎていく。幸せに満ち足りた二人の表情。大木はじっと着信音を聞き続けた。

 やがて、ぷつんと切れる音がした。

 俺と話したかったんじゃなかったのか。いや、たまたま用事があって出られなかったのかもしれない。……休日に?誰と?

 大木は駆け出した。信号が点滅する横断歩道を渡り、さっき見た気がするカップルを追い越す。書店の横を通ると、窓ガラスに大木が主演する予定の、小説を原作としたドラマのポスターが貼ってある。


「まだ足りないのか、輝きが」


 幾人かとすれ違うと、やがて人通りがなくなった。適当に歩いてきたせいで普段あまり来たことがない場所だが、駅からそう遠くはないはずだ。はやる気持ちに任せて走り続け、見知らぬ路地を駆け抜ける。いくつも、いくつも……。

 一体どれほど走ったろうか。大木は息が上がり、走るのをやめた。どうして駅にたどり着かないのか。見当違いの方角に来てしまったのかと、地図アプリを見ようとポケットのスマホに手を伸ばしたそのとき、背後から誰かが近づいてくる気配がした。

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