<9・異常。>

 チョークが動く。まるで見えない糸に操られてでもいるかのように。

 あるいは、超能力で何者かが、見えざる手で操っているかのように。


『ニコさんは許さないよ』


 カツカツカツカツ。

 チョークが動くたび、固い音が静まり返った教室に響き渡る。

 赤い文字が、黒板に増えていく。


『ニコさんは許さない。絶対絶対絶対絶対許さない』


 カツカツカツカツカツカツカツカツ。


『何故ならば、それが望み。それが願い。それが永遠。それが呪い』


 カツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツ。


『勝つべきものが勝てなかった、裁かれるべきものが裁かれなかった』


 カツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツ。


『この学校は存在を許されない』


 カツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツ。


『だからみんな消す、みんな、みんな、みんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんなみんな』


 カツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツカツ。




『だからこれは、ゲーム。

 わたしはお前たちの中にいる。

 わたしを見つけて止めれば、お前たちの勝ち。

 じゃあ、ゲームスタート』




 ぴたり、とチョークが止まった。まるで糸でも切れたかのように、赤いチョークが床に落下する。

 そして同時に鳴り響いたのは、聴きなれたチャイムの音だった。


 キーンコーン、カーンコーン―ー。


 いつもより音が響いて、そして不協和音に聞こえるのは気のせいだろうか。

 まるでその後ろで、誰かが罅割れた声で嘲っているような、不快感。

 背筋に冷たい汗が流れ落ちていく。


「……何やの、これ?」


 最初に、どうにかといった様子で口を開いたのは沙穂だった。生徒たちはもちろん、山吹先生でさえ凍り付いて動けなかった。確かに今、人間技ではないものを見たはずだ。それなのに、頭が追い付いていかない。何が起きているのかが理解できない。

 正確には、理解を拒否している。


「だ」


 引きつった声で、山吹先生が言った。


「だ、誰かの……悪戯、ですか?ニコさん、なんて……」

「これが悪戯に見えますか」


 亞音が、いつになく厳しい声で言う。


「だとしたら、このクラスには凄いマジシャンか、あるいはサイキッカーがいるということになりますが。……先生、ニコさん、というのもが何なのかご存知ですか?」

「い、いいえ……」

「ニコさん、という怪異です。都市伝説というか、学校の怪談というか。最近この学校でも、それからネットの掲示板とかSNSでも流行しているんですよ」


 こんな時、冷静な人間が一人でもいるのは助かる。亞音も動揺していたはずだが、彼は落ち着いて先生に怪談を簡単に説明した。

 どうやらそのニコさん、もしくはニコさん、を騙る人間が何かを引き起こそうとしているらしいと。隣の町でニコさんの手によるものと思しき死体が出たというニュースがあり、みんなが怖がっていたということを。


「今の現象。俺は、手品には見えませんでした」


 険しい顔で告げる亞音。


「何か超常的な力が働いていることは疑いようがないと思います。勿論、まだ手品の可能性を完全には否定できませんし……仮に超能力だとしても、それが生きた人間の仕業か、怪異かは断定できませんが」

「し、信じられません、そんなこと……」

「信じられなくても、両方あり得ると思って行動するのが先生の役目だと思います。どうか落ち着いてください。とりあえず、他の先生にも相談するのがいいと思います。もしニコさん、あるいはニコさんを名乗る何者かの仕業であるのなら……この学校全体が無関係だとは思えません」

「そ、そうね。そうですね。わかりました」


 真っ青な顔だったが、パニックになっていないだけまだ山吹先生は落ち着いているだろう。ゆいなはと言えば、驚きすぎて声も出ない状態だった。

 人間、あまりにもびっくりすると悲鳴さえも出ないものなのだ。悲鳴を上げる、絶叫するというのはつまり、ある程度現実を受け入れたからこそ恐怖するものなのだから。


「な、なになに?何がどうなったの?」


 まだぽかん、としている様子の真梨衣。こっそり持ってきたらしきポッキーの箱を開けている。――うちの学校は不要物の持ち込み云々、というのが非常に緩いことでは知られているが。ホームルームの時間に当たり前のようにお菓子を食べているのはいかがなものか。


「ニコさん?本当におばけが出たってこと?やだ、あたしおばけ見ちゃったあ?すっご!」

「な、何でそんなにあっけらかんとしてるの……?」


 かたかたかた、と小刻みに体を震わせているのは湯子だ。


「本当だったんだ。は、灰田さんが言ったことは本当だったんだ……!これから、わ、私達、みみみ、みんなニコさんに、殺され……っ」

「ちょっと湯子ちゃん、怯えすぎだって。まだ、オバケさんがチョークで文字書いただけでしょ?大袈裟、大袈裟。それに、あたし達なんも悪いことなんかしてないんだから、そんなにビビることなんか……」

「大袈裟なんかじゃない!そ、それに日本のオバケは、理不尽に襲ってくるのが当たり前なんだから!」


 湯子は目に涙を浮かべて、真梨衣に訴える。


「だ、だってそうでしょ?貞子は呪いのビデオテープを見ただけで呪ってくるのよ?け、携帯電話に着信があっただけで呪われるやつもあるし、家に入っただけで祟られるやつもあるし、あ、あとはネットを見ただけとか、電車乗ってただけで変なところに連れていかれたり……え、エレベーターだって!」

「ちょ、落ち着いてってば!それ全部映画!フィクション!現実じゃないから!」

「現実にあるからこそ、ああいう映画が作られるの!わ、私、そういうのがいつも怖くて、怖くて……!」

「ちょ、湯子、落ち着きな!大丈夫だから、あたしらもいるし、ね?」

「ううううううううううう……っ!」


 ぐすぐすと鼻を鳴らし始める湯子。その湯子にドン引きしている真梨衣に、彼女の肩を掴んで落ち着かせようとするエリカ。


――つーか……詳しいなあ湯子。茶川さん。今の、大御所のホラー映画とか都市伝説のネタばっかでは……。


 怖がりなのに随分よく知っているな、という印象だ。怖いからこそ気になって調べてしまうとか、そういうことなのかもしれない。確かに人間、怖いもの見たさの心理はある。

 実際ゆいなもゆいなで、オバケを信じていないからこそ怖いものを楽しんでいる、みたいなところはあるのだ。つまり、本当はオバケを怖い気持ちもある、ということ。それは多分沙穂も同じなのだろうが。


「あ、あのさあ」


 とりあえず、と言った様子でずっと黙っていた黒江瞬が口を開いた。


「山吹センセー、職員室に行った方がいいんじゃないっすか?その、なんか不審者がいるかもしれねえし、教室に人残さないでぞろぞろと行った方がいい気もするんですけど。その方が安全っつーか?」


 彼も、比較的冷静であるようだった。いつも通りの軽い口調に、山吹先生がほっとしたような顔になる。


「そ、そうですね。では、全員で職員室に行きましょう。……茶川さん、動けますか?」




 ***




 校長先生や教頭先生に、話を訊いてみたいと思っていた。

 校長先生も教頭先生も、さすがに三十年も前からこの学校の先生をやっているなんてことはないだろうが。それでも、過去のいじめの話や、ニコさんの都市伝説について何かを知っているかもしれない。

 他の古参の先生でもいい。とにかく、何でもいいから情報が欲しかった。なんせニコさんはこれを“ゲーム”だと言ってきているのだから。

 ゲームならば、クリアする方法がなければ成立しまい。


――それに、さっきのチャイム。……ひょっとしたら他の先生が鳴らしたってこともあるかもだし……。


 ところが。職員室に到着したゆいな達は茫然とすることになるのだ。


「あ、れ……?」


 がらがらがら、と職員室のスライドドアを開けた山吹先生が、唖然として声を出した。


「せ、先生?皆さん?誰もいないのですか?」

「え、ええ……!?」


 職員室には、電気がついていた。ついているのに誰もいないのだ。

 山吹先生は、確かに言ったのだ――先生達が全員来られなかった、と。もし、彼女以外の全員が来られなかったのならこんな言い方はすまい。

 同時にこうも言っていた。


『正直、今日は休校にしましょうかって校長先生が言ってます。問題はこの調子だと、校舎を出るのも危ないってことだけど。雪がもう少し収まってきたら、皆さん帰宅していいですよ』


 校長先生が言っていたという言葉は、校長先生が出勤していなければ出てこないものである。

 慌てて山吹先生は、すぐ隣の校長室のドアに手をかけた。鍵が開いたままになっている。中を覗くものの――やはりというべきか、そちらにも校長先生の姿はなかった。

 おかしい。

 殺気の職員室もそう。電気がついたままになっている上、テーブルの上に何枚もの書類やらペンやらが乗ったままになっているのだ。まるで、さっきまで誰かが作業していたかのように。


「どういうこと?」


 貞があっけにとられたように呟いた。


「なんで、誰もいないの?先生たち、どっか行っちゃった?それとも……」


 神隠し。

 その言葉を、彼がギリギリで飲みこんだのがわかった。


「そ、そんなバカなことあるはずがありません。先生たちを探しましょう!」


 山吹先生が焦ったように言う。途端。くすくすくすくす、という場違いな笑い声が響いた。

 振り向けばやはりというべきか、灰田美冬が口に手を当てて笑っているではないか。心の底から恐ろしくてたまらない、というように。


「無駄だと思いますけどね、先生。うふふふふふ、だってもう、ゲームは始まった。わたし達は、その参加者に選ばれてしまったんです。ニコさんの、ゲームの参加者にね。全員死ぬか、わたし達がゲームをクリアするまで終わることなんかないわ」


 にいいい、と。その瞳が三日月形に歪んだ。


「さあ、探しましょう。ニコさんは、だぁれ?」

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