3 歩道橋

 その犬は大きな鳶色とびいろの目をしていた。

中身なかみ手放てばなした眼窩がんかには、長い睫毛まつげえていた。


 わたしの日課は朝の散歩。生まれつき目は見えないが、半径一メートルの範囲であれば、障害物の把握が出来る特殊な体質をしていた。

 感覚的に言えば、全身から超音波のようなものが放射状に出ていて、物体がに当たると、跳ね返った触感かんしょくで、障害物の距離や形が何となく分かる。生物と無機物の違いは、波動や熱量、音によって判断していた。


 いつものように常温の緑茶を入れた水筒を、斜め掛けのボトルカバーに入れて肩から下げる。小さなリュックには、お昼に食べるハムとサラダのサンドイッチを詰めた。

 あてもなくぶらぶらと散策し、昼食を食べ、のんびり過ごして帰宅するのが、いつものパターン。


 その日は生憎あいにくの雨だったが霧雨がかっていて、折角せっかくの日課の楽しみをあきらめるほどでは無かった。わたしはお気に入りのこうもり傘を差して、門の扉を開けた。


 しばらく歩いていると、前方から前かがみに歩く人物が近づいて来た。まだ半径一メートルには届かないが、波動と息遣いきづかい、そして引きずるような足音に特徴があった。


 わたしは傘をかたむけて顔を隠し、そそくさとその人物をかわそうかとれ違った瞬間に、その人物に呼び止められた。


「待ちなさい」

わたしはびくりとして、立ち止まった。


「わたしに何か御用ごようですか?」

振り向いて返事を待つと、その人物はゆっくりとした口調で言った。


霊気れいきが乱れている。散歩はやめたほうがよいぞ」

「大丈夫ですよ。雨も小雨こさめですし。それに天気予報も午後からむと言ってましたから」

わたしがつぶやくように言うと、その人物は吐き捨てるように言った。


「いいにゃ、こんな時は、家で般若心経はんにゃしんぎょうでもとなえていた方がいいんじゃ」


 わたしは聞こえない振りをして、そそくさと立ち去った。かすかに舌打したうちする音が聞こえた。


 鼻歌を口ずさみながら三十分ほど歩くと、車の行き交う音が聞こえた。大きな交差点がある感じ。前方右寄りには歩道橋があった。点字ブロックをつたいながら、ゆっくりと足を運ぶ。気晴らしに階段の数を数えながら歩道橋を登って行った。


 三百二十五、三百二十六……。わたしは一旦いったん足を止め、手摺てすりにもたれ掛かった。いつまで続くのだろうか? 段差は低いとはいえ、数を考えるとかなりの高さ。単純計算で五十メートルの高さだ。歩道橋としては合理性に欠けているのでは?


 疑問を振り払って再び再開する。上りの階段は、ちょうど四百段で終わりを告げた。施工者せこうしゃは高さを六十メートルに定めたのだろう。


 歩道橋はしんと静まり返っているが、時折横風にあおられ橋脚きょうきゃくはミシミシと悲鳴を上げていた。先の見えない対岸に向かって、手摺につかまりながら慎重に、しかし足早に進んだ。


 朝の散歩で今日ほど不安を感じたのは初めてだ。先程の世話焼きお婆さんの予想が的中したのかも知れない。占いや迷信などに関心が無いわたしだが、この時ばかりは不安も手伝ってか、散歩に出掛けた事を後悔し始めていた。


 体感で五十メートルほど進むと、前方に気配を感じた。歩くペースを緩め、手摺につかまりながらり足で近づいて行く。超音波的なが反応し、漠然ばくぜんとした情報が伝わった。


 歩道橋の上に露天商ろてんしょうがいた。


「お嬢さん。帽子はいかがかな?」

唐突にその露天商は言った。歩道橋の上にブルーシートを敷き、数点の帽子を並べているようだ。


「ごめんなさい。わたしは盲目もうもくだから色も形もわからない。似合うかどうかも」


「こいつがよく似合う」

露天商はそう言うと、わたしの頭にぴったりの帽子をかぶせた。適度な硬さで心地よい吸着感があり、違和感の無い軽さだった。


「ありがとう。残念だけど今、持ち合わせがないの」

「リュックの中身で手を打とうか?」


「折角のお昼が無くなる」


露天商はしばらく押しだまったあと、意を決したように言った。

「半分で手を打とう。昨日から何も食べていないのだ」


 わたしは小さなリュックからサンドイッチケースを取り出した。ふたを開けると、ハムとドレッシングの瑞々みずみずしくて食欲をそそる香りが広がった。

「ハムの方がいいな」

露天商がつぶやいた。


「好きなものを半分取っていいわ。その代わり帽子はわたしのものよ」


 雨がみ、厚い雲の隙間すきまから少し光が差し込んでいる気配がした。こうもり傘の水滴をはらって、背中のリュックに掛ける。帽子が飛ばないように顎紐あごひもを調整して、再びあゆみを進めた。


 先程の不安がうそのように晴れ晴れとした気分で、わたしは対岸へ渡った。

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