これは怖い話ではありません。不思議な話です。「あなた、今日はよく寝るね」

@natsurou

これは怖い話ではありません。不思議な話です。「あなた、今日はよく寝るね」

これは「創作」じゃない。「実話」だ。

故に誇張された恐怖もオチもない。


***


 S県H市。県庁所在地ではないが、県内最大級の広さと人口を誇る市。バイクや楽器、有名メーカー発祥の地でもある。そのなかの中心街に近いM町。歓楽街近くの立地から、胡散臭げな小さな芸能事務所に所属し、夜職に従事する外国人なども多く見られる町。二十代のはじめ、私はここでひとり暮らしをしていた。


 市の中心インフラであるローカル線の駅まで徒歩五分。また中心街までは十分。1Kの間取りの四階建てアパート、南向き、浴室とトイレは独立タイプ。スペックだけ見れば一人暮らしには申し分ないはずだった。ただし、家賃は妙に安い。内見の際、不動産屋の案内の女性に聞いたが、特に理由は知らないようだった。


 しかし住んでみて理由はすぐにわかった。私の部屋──二〇一号室のベランダは、真上が吹き抜けになっていて、コンクリートの壁には適度な段差が多くある。そこに、やけにたくさんの鳩が巣をつくり、糞の臭いが朝も夜も染み付いていたからだ。


 ベランダから上を覗くと、灰色の羽根と赤い目が群れ、時にバタバタと一斉に飛び立つ音が、部屋にまで響いてきた。内見でベランダに出てみるべきだったな、そう思いつつも元来細かいことは気にしない性格から、そこで暮らし始めた。


 それでも、部屋は明るかった。南向きの窓からは昼過ぎまで日が差すし、バストイレは新品のように綺麗にクリーニングされ、古さを感じるのは共用部のみ。そう、共用部の廊下の奥の方の壁──血か泥かわからない手形が数カ所、ずっとこびりついていることがあった。最初は酔っ払いの仕業かと思った。歓楽街も近いし、住人は半分以上が外国人。夜遅くまで大声が響く日もあった。おおかた外国人が酔ってケンカでもして、血を出しながら帰ってきて手でもついたのだろう。遠目に見ながらそう思い、とくに気にもしなかった。


 私は格闘技のジムに通いながら、深夜はバイト三昧の生活。ジムから帰宅してベッドに沈み、深夜のバイトにあわせたアラームで起きるという日々。


あの日もそうだった。

私は珍しくアラームに気付かず、うっかり寝過ごしそうになっていた。不意に──


「あなた、今日はよく寝るね」


耳の奥に入り込むような、カタコト混じりの女の声がした。

それと同時に、背中を軽く、しかしはっきりと揺さぶられる。まるで、親しげに起こすような優しい手つきだった。

反射的に跳ね起きて部屋を見渡す──当然、誰もいない。


不可解な体験だったが深く考えることもなく、私は慌ただしく支度してバイト先へ向かった。妙な痺れだけが体に残った。背中の触られたところに、じんじんとした感覚が、三時間以上も消えなかった。


 数ヶ月後、彼女と別れて住む部屋を失った友人Oが転がり込んできた。Oは昔から妙にビビりで、怪談を聞けばひとりでエレベーターに乗れなくなるほどだ。Oが持参してきたゲーム機で「零」という和製ホラーゲームを遊んでいると、テレビがパチン、と勝手に切れた。


「……おい、なんだよ今の」

 Oが二段ベッドの下段から、やけに真剣な顔でこっちを見てくる。

私は肩をすくめてリモコンを押し直した。

「さあ? なんだろうな」

「いや、おかしいでしょ……」

 Oは明らかに狼狽している。その横で私は、Oの顔が本気で青ざめていくのを、少し面白がって眺めていた。


 その日だけでなく、それから何度もテレビが勝手に切れる。

「ほら、また!」

 Oは目を見開いて部屋の隅を睨みつける。私は冷蔵庫のジュースを開けながら、「ね、まただよ」とだけ返す。Oが本気で怯えているのを、どこか他人事みたいに見ていた。真夜中の鳩の声にも怯えるほどのOは、わざとらしいくらい怯えていたが、テレビの電源が何度も自然に切れるのは流石に私も妙な気がした。


 また別の日、後輩Wが遊びに来たときのことだ,アパート前で立ち止まり、アパートを見上げた彼は、私の顔を見るなり眉をひそめた。

「……ナツロウ先輩、ここヤバくないっすか?」

理由を聞いても、何となく嫌な気がするのだと言う。


 その後二年ほど住んだが、就職が決まって部屋を出ることになった。

引っ越しまで残り一週間──ある朝、いつものようにカーテンを開けると、ガラスに見覚えのない細いヒビが走っていた。まるで、外側から指で強く叩かれたような、小さな放射状のヒビだった。


 結局、その部屋を出たあとは、例の女の声も、不可解な現象も何も起こらなかった。軽く調べたが、特にそのアパートが瑕疵物件だという話は出てこなかった。ただ、当時は気付いていなかったが、たしかに近所には廃業し空きテナントとなったフィリピンパブ跡はあった。


 時々、真昼の街を歩いていると、あの部屋のベランダの光と鳩の羽音、そして、遠い異国のイントネーションで語りかけてきた声が、頭の片隅にふと蘇ることがある。


「あなた、今日はよく寝るね」──

 誰が、何のために私を起こしてくれたのか。それは今もわからないままだ。

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