18

 幾多の朧げな夢の断片が、次々と現れては消えてゆく。変遷を続ける奇妙な幻の戯れを、イラニアは茫然と成すがままに受け入れた。内なる領域への没入が進むに連れて、支離滅裂な夢の泡沫が溢れ出し、煌めきながらも散ってゆく。数多の光が結び付き、連鎖的な爆発を遂げてゆく。意識さえもが塗り潰されようとする中で、最後に捉えることができたのは、膨大な光の渦だった


 少しばかり時を経て、イラニアは僅かな意識を取り戻した。真っ先に訪れた刺激は、閉ざされた瞼を照らす光。先に飲まれた眩耀の面影は、欠片たりとも感じられなかった。目まぐるしく変遷を続けた幻は、既にどこかに消えていた。光の感覚に誘われて、暈された意識が再構成されてゆく。流れに追随するように、知覚範囲は次々と拡大を続けていた。穏やかに紡がれる呼吸––––胸元に宿る心地よき息吹––––そして四肢に宿された確かな熱感。調和の乱れた心身が、元の形に結い上げられると、次なる行動が促される。


 重く沈み落ちていた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。露にされた眼球に、柔らかな光が注ぎ込む。その刺激は、目覚めたばかりの瞳には強すぎた。視界に広がる風景は、溢れるほどに薄金色の霧によって、全てが秘匿されていた。不思議な主題を与えられた抽象絵画のような風景は、自らの意志を持つかのように、微細な変容を続けていた。


 奇妙な光景に目を奪われると、忙しなく行き交う夢の断片を思い出す。しかし、それとは確実に異なった印象が、強く心を揺さぶった。今この瞬間を彩る風景は、あまりにも幻想的でありながらも、色濃い現実感を帯びていた。


 その認識が間違いではないことを示すように、次なる揺らぎ押し寄せる。薄金に染まる濃霧の向うから、微かな音が聞こえてきた。そっと耳を傾けると、潤い溢れる持続音が波打つように鳴り響く。やはり、どこかで聞いたことのある音だった。更なる手がかりを示すのは、髪を煽り立てようとす柔らかな芳香。馴染みある印象に、流れる風の質感が紐付くと、視界を覆う霧が流れ散ってゆく。そして、その奥に秘匿されてた潤いの正体が、うっすらと明るみにされていった。


 暴き出された風景を前にして、イラニアは身動きもできずに絶句した。淡い金色に染まる世界の中心には、澄み渡る泉が広がっていた。その水面さえもが、神々しい薄金色に輝いていた。あまりにも現実離れした光景を前にすると、強い驚きに震えてしまう。それでも何故か、始めて訪れた場所ではないように感じられた。


 虚ろげな記憶を辿ろうと、内なる領域に糸を垂らして模索する。類する記憶を探るものの、何一つとして見つかることはなかった。更なる奥地への探索を試みると、奇妙な妨害に見舞われる。これ以上の追求を拒むかのように、深淵彼方から高波が押し寄せて、全てを攫い尽くしてゆく。まるで、大切なものを護るような防壁に阻まれると、強制的に打ち込まれた終止符によって、記憶の糸が裁断されてしまった。


 拠り所を失った心を宥めるように、一縷の風が流れ込む。ふわりと髪が舞い上がると、不思議な感覚が届けられた。持ち直したばかりの意識を奪うのは、どこからともなく届けられた音像。澄み渡る音粒の数々が、調和するように組み合わさってゆく。儚き色を滲ませる旋律は、馴染み深い微分音階によって構成されていた。


 更なる音が波打つと、溢れる霧が晴れてゆく。より鮮明な音像が届けられると、発声から消失に至る過程が明確に描かれた。紡ぎ出された音粒が、時に揺られて崩れ去る。意味を失った音像は、不可視の雫と化してゆき、煌めく泉に降り落ちてゆく。そして、柔らかな波紋を生み出して、視認及ばぬ彼方へと散ってゆく。


 あまりに奇妙な光景は、更なる変容を遂げようとしていた。その前兆を示すのは、晴れゆく霧の彼方から滲み出した揺らぎ。炙り出されるかのごとく現れたのは、なんとも柔らかな光だった。


 茫然と立ち尽くすイラニアは、押し寄せる輝きに見蕩れていた。恍惚と震える瞳から、理由なき潤いが溢れ出す。抑えることのできない一縷の涙が、頬を伝って流れ落ちてゆく。まっさらに洗い流された視界には、遮るものなく溢れる光が注がれた。その中心に宿るのはのは、不思議な後光を背負う存在。


 あまりにも神々しき姿は、まさに地上の理を超えた存在そのものだった。眩い光に隠された表情は、慈愛に満ち溢れた微笑みに染まっていた。麗しき女性のような風貌ではあるが、詳細は光によって塗り潰されている。


 その胸元に抱えているものは、溢れ漂う旋律の源たる象徴。優雅に撫で付けるようにして、無数の弦が奏でられている。形質から察するかぎりでは、竪琴の類いであることが窺えた。溢れ漂う音粒が、虚空に滲み溶けてゆくと、水面を揺さぶる雫と化して散ってゆく。なんとも麗しき旋律は、今まで聴いたこともないほどに美しかった。


 ––もっと近いところで、この音を感じたい……そして、音とともに消えてしまいたい……


 言葉にならない独白は、心奥底から溢れる祈りにも似た渇望。イラニアはこの領域に蔓延する音を手繰り寄せようと、そっと恭しく手を伸ばした。


 かしゃり……と擦れた音が鳴り響く。手首を擽る鎖腕輪が擦れ合い、一筋の煌めきを生み出した。金の矩形が織り成す律動が鍵となり、全てを塗り潰すほどの光が溢れ出す。あまりにも強烈な輝きは、瞬く間に手首と腕輪の境界を塗り潰した。そして、全てを一つに凝縮するかのごとく、爆発的な光を轟かせた。眩い光に飲まれたイラニアは、この場の全てと調和するように、音もなく静かに消えていった。


 延々と幾重にも連なる夢の迷宮には、絶えることなき竪琴の音色が響き渡っていた。出口へと促すような旋律に導かれて、光に染まる泉の奥底へと沈み落ちてゆく。そして、没入が進むに連れて、次々と意識が解体されてゆく


 全てが途切れる直前に、確かに覗き見えた象徴––––それは、新たに生まれたばかりの星のような、黄金の球体。あまりにも眩い光は、全てを赦し受け入れるような優しさに満ち溢れていた。元々は自分自身もその一部だったはず……といった思惑が、いまにも途切れそうな意識を擽った。そして、彼方から押し寄せる光によって、最後に残された一点の意識までもが、跡形もなく消失した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黄金の薔薇 灰間恍 @k_ak9

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ