16

 棲家に戻るや否や、イラニアはずっしりと重い荷物を投げ出した。成り行きのままにぐったりと、鈍い溜息を溢しながらも、そのまま床に崩れ落ちた。このまま寝転がりたい……といった渇望に刺激されはするものの、朽ち果てるにはまだ早かった。


 まずは最初にやるべきは、身体に残る毒の対処に当たること。山で治療したはずの猛毒が、容赦なきまでに再来していた。その原因を作ったのは、薄汚い新市街で見舞われた責め苦。あの出来事を思い出すだけで、仄暗い破壊衝動に駆られてしまう。仮に叶うのだとしたら、今すぐにでも駆け戻り、残虐極まりない復讐に耽りたい。そんな思いを抱くものの、魂の渇望を叶えるための力などは、虚しきことに欠片たりとも持ち合わせてはいなかった。


 心を苦しめる痛みを除去するためにも、余計な思考に囚われている余裕はない。イラニアは自分自身を戒めつつも、立ち上ろうと試みた。すると、途端に酷い眩暈に襲われて、足元から力が抜けてしまった。腕を支えに身体を持ち上げようとするものの、それすらも難しい。苦しげな吐息が零れ落ちてゆくだけで、身体に托した力は易々と散ってゆく。


 鈍い頭痛のみならず、関節を蝕む痛みさえもが勢いを増していた。イラニアは苛烈な責め苦に耐えながらも、縋り付くように手を伸ばした。そして、重たい身体を引き摺りながらも、前へ前へと這い進む。あまりにも無様な姿ではあるものの、これしか前に進む方法は残されていなかった。浅く苦しげな呼吸をしながらも、壁際の一角を目指して必死に床を這ってゆく。


 ようやく辿り着いた場所には、随分と古めかしい戸棚が待ち構えていた。震える手を伸ばしては、やっとのことで戸を開く。すると、並べ置かれた幾つかの小瓶が姿を現した。イラニアは残された力を振り絞り、崩れた身体を持ち上げた。その瞬間に、酷い頭痛が脈を打ち、途端に意識が遠のきかけてしまう。必死に奥歯を噛み締めて、痛み堪えて耐え忍ぶ。そして、待ち構える小瓶に縋り付くように、震える腕を差し伸ばした。


 精彩を失った瞳は、今にも虚ろげに沈み落ちようとしていた。必死に絞り定めても、乱れ歪んだ焦点が定まることはない。縋るように目を細めては、瓶首に掛けられた真鍮の札を見定める。このような状態では、目当ての小瓶は見つかるはずもない。焦りや苛立ちばかりが増してゆくと、更なる頭痛が押し寄せる。こうなってしまうと、文字の判別は難しい。遮光瓶であることが災いして、内容物の印象を元にした選別さえもままならない。それでも、たった一つだけ、識別符号たる手がかりが残されていた。


 瓶首に掛けられた真鍮の札は、それぞれが異なった具合に褪色している。特に探し求めている小瓶には、特徴的な青緑を帯びた札を与えていた。その質感を辿ってゆくと、さり気ない導きが示される。額から流れ落ちる脂汗を拭いつつも、藁にすがる思いで青緑塗れの文字を読み解いてゆく。数本の小瓶を見定めた末に、ようやく目当ての品を見つけることができた。

 

 窓から降り注ぐ光が、手にした小瓶を照らし出す。遮光された内側には、軽い粘性を帯びた液体が覗き見えた。くるくると螺旋を描くようにしながらも、視線の高さに持ち上げる。苦しげな瞳に映るのは、滑らかな円舞に耽る沈殿物の躍動。その様子に満足を示すかのように、色褪せた唇が微かに持ち上がった。


 イラニアは震える手元に力を込めて、小瓶の封を切った。ふわりと漂う香りに目を細めつつも、適量をショットグラスに注ぎ込む。微かな渋味を漂わせる液体は、解毒を目的に調合した薬。薄緑色に染まる液体を眺めつつも、ぐったりと壁に背を預ける。そして、浅く乱れた呼吸を整えて、ゆっくりと舐めるように薬液を摂取する。


 おおよそ半分ほどを喉に流し込むと、瞼を落として無意識の内に左手首を握り込む。右掌を刺激する脈動を感じると、深々と重たい溜息が零れ落ちてゆく。僅かな落ち着きを取り戻すと、うっすらと瞼が持ち上がる。掌の隙間から零れた柔らかな光が、そっと瞳を刺激した。ゆっくりと確かめるように手を開くと、左手首に宿る光が現れる。これは、顔も知らない母親たる存在の遺品––––金の矩形が織り成す鎖の腕輪。


 形見を托した人物など、顔さえも知らなかった。もちろん、印象や素性すらも記憶に残ってはいない。その存在に対する思い入れなど、欠片たりとも持ち合わせていない。それでも、何故かこの腕輪だけは、とても気に入っていた。


 特徴的な矩形状のモチーフが、鎖のように絡み合う金細工の腕輪。どうやらこれは、ある種の魔道具であり、かつての所有者の魔力が残されているらしい。但し、その恩恵を享受できたことなどは、今まで一度たりともなかった。どんな由縁があろうとも、所詮はただの装飾品に過ぎないだろう。ただ、こうして見つめ触れるだけで、不思議なことに心に平穏が訪れる。気休め程度の役割でしかないのだが、なくてはならない大切な存在だといえるだろう。


 手首の光に導かれて、ショットグラスを持ち上げる。ぺろりと舐めた薬液は、ねっとりと円やかな蜜のように口腔に染み渡った。少し遅れるようにして、混ざり合った沈殿物の香りが滲み出す。じわりと薬液が浸透してゆくと、微かに不快感が薄れてゆく。残された全ての薬液を口に含み、豊かな風味を舌の上で転がすと、頭痛や耳鳴りまでもが薄れていった。鳩尾付近に柔らかな熱が灯されると、微かな活力が湧き上がる。乾き色褪せた唇までもが、淡く儚げな桜色に染め直されてゆく。関節の痛みさえもが薄れると、弱り崩れた肉体にも確かな息吹が灯された。


 酷い立ち眩みを覚えつつも、イラニアはゆっくりと立ち上がった。今日中にやるべき仕事を思い出すと、ふらふらとしながらも行動を始めてゆく。入口付近に投げ出した鞄に手を伸ばし、山から持ち帰った収穫物の整理に取り掛かる。何よりも最初に確かめる必要があるのは、下山の最中に収穫したばかりの毒々しい薬草。


 猛毒に包み隠された薬効は、今日中に処理をしないと変質してしまうだろう。苛烈な収穫を無駄にすることだけは、どうしても避けたかった。恐る恐ると慎重に、包みの中身を覗き見る。幸運なことに、未だに劣化の傾向は見受けられずに、非常に良好な状態が維持されていた。安堵の吐息を溢しつつも、イラニアは手を止めることなく仕事場に向かった。

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