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聖堂を中心とした区画には、様々な関連機関が置かれている。孤児院や図書館、そして学舎や道場など、直接聖堂が運営している組織もあれば、そうでないものもある。独立機関の一例としては、数々の工房が挙げられる。それらを営むのは、聖堂関連の仕事を担う職人たち。伝統的な彫金、紡績、印刷、そして建築業––––多岐に渡る伝統的な産業は、古き時代から脈々と受け継がれていた。時の流れに従って、街は姿を変えてしまったが、職人たちの仕事は何も変わらない。文化の一翼を担い続ける者たちも、この区画を構成する大切な要素だといえるだろう。
そして、工房が立ち並ぶ通りにほど近い一角には、簡素な住宅地が設けられている。古めかしくも品良き街並みで生活を営むのは、もちろん聖堂区域で生きる者たち。他にも幾つかの場所に散らばるように、細やかな住宅群が置かれている。その多くが集合住宅の体を為しているが、時に戸建ても存在する。特に住居を仕事場と兼用する者たちに関しては、優先的に戸建てが与えられる傾向がある。
最も不便な一角ともいえる奥地にも、閑散とした住宅地が置かれていた。その場所は高台となっており、辿り着くためには少々難義な道のりを超える必要がある。見晴らしのよい立地は、見ようによっては優雅な環境ともいえるだろう。しかし、この場所は決して優遇された土地ではない。少々訳ありな者たちを、安全に隔離するために用いられているのだ。
その土地の片隅に、イラニアの棲家が置かれていた。行き来するための道筋は、たったひとつの勾配の厳しい石段のみに限られている。それは、大きな難点でありながらも、確かな利点でもあった。
細やかな恩恵の一つは、人々の往来が盛んな通りから離れていること。たとえ礼拝の時間帯だとしても、賑わいとは無縁であり、絶えず慎ましやか静寂に包まれている。静粛を求められる聖堂区域の中でも、最も穏やかな一角だといえるだろう。流れ漂う音といえば、風に揺らめく枝葉の騒めきばかり。気流が織り成す持続音が、絶え間なく紡がれる風景は、街中らしからぬ穏やかさに満ち溢れていた。所々に立ち並ぶ樹木に護られた高台は、不便でありながらも居心地のよい環境だった。
棲家は聖堂管轄下の建物であり、クラヴィエスの好意によって借与されていた。あくまで名目上の掟に過ぎないのだが、聖堂区域では差別行為が禁じらている。そのために、差別対象の混血にとって、この一帯は随分と住み易い環境だといえる。特に離れの高台は、地理的な安全性が保たれていた。辿り着くためには、長く険しい階段を越える必要がある。そのために、わざわざ嫌がらせ目的で侵入する者はいない。だからこそ、生き辛さに苦しむ混血を優先して、この土地への居住が勧められていた。
自由に生い茂る樹々によって外界の音が遮られ、隣人の生活音さえも聞こえない。それ故に、内なる領域への没頭には最適な環境だ。そして、この一帯に設けられた建物は、全てが戸建てばかり。特殊な力を有する混血が、奇妙な仕事に明け暮れる。高台に設けられた建物は、そのための住居と作業場を兼ねた建物ばかりだった。
時に異様な閃光やら、不穏な煙が上がることもあるが、所詮はありきたりな日常の出来事に過ぎない。たとえ何が起きたとしても、誰もが気にすることない。不干渉の心得は、ある種の暗黙の了解だと決まっていた。
慎ましやかな静寂に包まれた環境は、隠れ住まうにはうってつけだった。それなりに手狭であるために、悠々とした解放感とは無縁だが、こればかりは仕方がない。そうはいえども、独り住まいには充分すぎるほどの広さであり、仕事場として活用できる空間にも恵まれていた。唯一の難点を上げるするならば、高台たる難点が挙げられる。重たい荷物を背負った状態で、長く険しい階段を行き来することだけは、中々に手厳しい。
今まさにイラニアは、朱く染まりかけた空に向かうかのように、勾配の厳しい石段を登っていた。上着を預けたこともあり、つい先ほどまでは随分と肌寒さに震えていたはずだった。しかし、高台に辿り着くころになると、身体は随分と温まっていた。背中にはじっとりと汗が滲んでいて、骨身を削る寒さなどは、既に忘却の彼方に消えていた。
ふらふらとしながらも、ようやく棲家に辿り着く。扉の前に立ち尽くし、長き旅路の幕引きを噛み締める。不意に身体の力が抜けてゆくと、このまま崩れ果てそうになってしまう。寸でのところで踏み止まり、手にした鍵を視線の高さに持ち上げる。そして、深い溜息を溢しながらも、念じるように鍵を差す。
かちゃり……と擦れる音が鳴り響く。その印象は、時計台が刻む針音にも似ていた。長い旅が幕を降ろすと同時に、次なる世界の幕が開かれる。扉の向うに待ち受けのは、穏やかな孤独に満たされた領域。イラニアはふらりと雪崩れ込むように、奥へと吸い込まれていった。
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