13
向かい風の猛吹雪のように、苛烈な責め苦が押し寄せる。陰湿極まりない猛攻の標的とされたのは、新市街に足を踏み入れたばかりの異邦人。頭部を覆う黒染のショールから、儚き銀糸の揺らぎが覗き込む。包み隠された表情には、山の生活で享受した安寧の面影さえも残されてはいなかった。
銀髪の半妖は全ての感情を封印しながらも、足早に街を進んでいた。中央通りを抜けてゆく最中には、いつもと何も変わらずに、侮蔑や罵倒の嵐に見舞われる。次々とぶちまけられる悪意ある嘲りに、容赦なく聴覚を汚されると、否応なしに心が削り下ろされてしまう。その傷口から滲み出してゆくのは、全てを否定するような陰鬱な絶望感だった。
特に新市街では、混血が深く忌み嫌われている。それ故に、こういった理不尽な扱い受ける事態が常となっていた。全方位から容赦なく押し寄せるのは、荒天のような罵詈雑言。決して止むことのない暴風雨は、無慈悲なまでに勢いを増してゆく。
どうやら特徴的な髪や瞳の色彩が、気に入らないらしい。聞くに堪えない暴言が、競い合うようにぶちまけられてゆく。精神を削り取るような讒言に飽き足らず、やがては肉体を攻め立てる衝撃へと発展する。ぱすん、と肩に何かが衝突したかと思ったら、どろりと重たい油が上着を汚し貶めた。視線を向けるまでもなく、誰の仕業であるかは容易く理解できる。予想の正しさを告げるように、怪物のように薄汚い嘲笑が響き渡った。そして、次なる汚物が投げ込まれる。
愉悦に浸りながらも投擲を続けるのは、治安管理の職務を担う憲兵。嫌らしい高笑いに聴覚を汚されると、どす黒い憎悪に飲み込まれそうになってしまう。滾り溢れる憤怒の念が望むのは、残虐な極まりない復讐。しかし、仮に抵抗の念を示そうものなら、容赦なく袋叩きにされてしまうだろう。そのような災いに見舞われて、見るも無惨に散っていった者は、決して少なくはない。
与えられた権力を盾にすれば、何もかもが思い通りになる。奴らはその事実を、薄汚くも理解しているのだ。誤った正義感を旗印に、全てを都合よく強引に塗り替えて、自己正当化に興ずる愚か者。それこそが、この街に寄生する官憲組織なのだ。
悪辣とした哄笑が轟くと、更なる責め苦が容赦なく拡大する。身なり豊かな子供が競い合うようにして、空になった軽食の包みを投げ始めた。これを皮切りにして、抑えの効かない残虐な暴風雨が、一切の容赦なく吹き荒れていった。
苛烈極まりない災厄に見舞われたとしても、決して足が止まることはなかった。心を蝕む怨念を、どろりと重たい絶望で塗り潰し、次なる一歩を踏み締める。目前に控える新市街の終端を見定めて、歩む速度を上げようと試みる。すると、勢いよく投擲された物体が、悪意を込めて胸元を直撃した。あまりにも強い衝撃に見舞われると、思わず崩れそうになってしまう。
必死に踏み止まった瞬間のことだった。突如として脳裏に閃光が迸り、背筋を削るほどの酷い悪寒が押し寄せてきた。この感覚を生み出した原因は、下山の最中に蝕まれた毒が及ぼす責め苦。どうやら完全な解毒には至らずに、悪しき萠芽が内側深くに潜伏していたようだ。鈍い頭痛が脈打つと、大地を踏み締める感覚が薄れてゆく。投擲の衝撃に堪えかねて、身体が崩れ落ちかけてしまう。銀髪の半妖は寸でのところで踏み留まり、揺さぶりを受けた感情を押し殺した。そして、残る力を振り絞って、虚ろげな歩みを再開した。
一心不乱に通りを抜け、ようやく新市街の終端を踏み越える。容赦なき地獄を越えて辿り着いたのは、均衡地帯たる時計台前の広場。固く強ばった肩から、ぐったりと力が抜け落ちてゆく。銀髪の半妖は茫然と立ち止まり、深々と重たい溜息を溢した。心身ともに酷く消耗しきった状態では、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。仮に一度でも座り込んでしまったら、もう二度と立ち上ることは難しいだろう。まるで、枯れ落ちる寸前の植物のように、心が朽ちようとしていた。
誰にも出会したくない……今すぐ安全な場所に身を隠し、爛れた心を癒やしたい……。悲痛極まりない渇望が、魂の奥底から滲み出す。今すぐにでも、唯一安全な領域に逃げ込もう……そう、孤独が確保できる安全な棲家へと、一刻も早く帰ろう……。
心を震わす念の悲鳴が轟くと、僅かに残されていた力が溢れ出す。今にも崩れ落ちそうな肉体に、確かな熱が灯されると、次なる区画に続く境界に視点が向けられる。ふらつく足を固く踏み込んで、旧市街に通じる門に向かおうとした時のこと。最悪極まりない一手が、容赦なく打ち込まれた。
この場に縛り付るかのごとく、突如背後から手が伸ばされた。とすん……と肩を触れられた感覚に襲われると、背筋が激しく震え強ばってしまう。銀髪の半妖は恐る恐ると振り返った。震える瞳の焦点に収まったのは、痛ましげな貴婦人の姿。その外見からは、忌まわしき新市街の住人であることが理解できた。
「あ、あの……。随分と酷い目に遭われましたね……」
貴婦人は消え入りそうな声で囁いた。そして、手にした上品なハンカチを、恐る恐ると差し向けた。汚された頬を拭おうと、穢れ知らずの繊細な指先が伸ばされた。震える手先が触れようとした瞬間に、突如として大気に亀裂が迸る。
仄暗い影を帯びた紫桃色の瞳が、残虐なまでに貴婦人を貫いた。刃のように鋭い視線には、あまりにも禍々しい狂気が滲んでいた。これ以上の接近を固く拒む意志と、上層階級に対する憎悪に満ちた思惑。その強烈な殺気を前にして、差し伸べられた指先は石のように硬直した。
か弱く震える貴婦人は、声を殺した悲鳴を溢しながらも恐る恐ると後退った。安全な鳥籠の中で生きてきたが故に、血腥い殺気とは無縁なのだろう。微かに瞼を潤ませて戦慄する姿は、憐れみを催すほどに弱々しい。被害者然とした雰囲気を前にして、銀髪の半妖は苛立ちを覚えるばかりだった。
両者の間に静寂が立ち込める。時が止まってしまったかのように、全てが固く凍り付いた。がちゃりと重たい針音が刻まれた。静止した時に律動を加えたのは、天高くに聳え立つ時計台。二人の間を遮る音が、虚空に溶けて消えてゆく。次なる音を刻むのは、弱々しくも確固たる意志を宿した足音。
銀髪の半妖は踵を返して黙々と、旧市街を目指して立ち去っていった。未だに硬直し続ける貴婦人は、声を掛けることさえできなかった。ただ悲しげな瞳を持ち上げて、虚ろげな銀色の揺らぎをもの言いたげに見送った。
––ああいった輩が、一番気に入らない……
銀髪の半妖は固く奥歯を噛み締めながら、呪詛を溢すように独白した。苛立ちを込めた足取りで、広場を通り抜けてゆく。そして、ようやく旧市街へと通じる境界を踏み越えた。
年季溢れる古き門を抜けると、新市街とは全く異なった風景が広がっていた。心なしか、大気の質感さえもが変化したように感じられた。肩の力が抜けてゆき、どっぷりと深い溜息が零れ落ちてゆく。旧市街の礎として築かれているのは、脈々と受け継がれた道徳的観念だった。ここでは邪悪極まりない新市街のように、都合よく改変された法が正義として横行することはない。時計台に隔てられた二つの区画は、名実ともに全く異なっていた。
旧市街の中心を司るのは、街を創り出した女神への信仰。その教えに基づく道徳や戒律が、今も昔も変わらずに大切にされている。それこそが、宰相を崇める新市街との最たる相違点だといえる。たとえ法的な正当性があろうとも、旧市街では信仰に背く行為を忌み嫌う傾向がある。だからこそ、たとえ差別対象たる混血であったとしても、新市街ほど酷い目に遭うことは滅多にない。
時計台を抜け出た通りの終端には、女神を祀る聖堂が待ち受けている。神と銘打たれているものの、天から舞い降りた絶対的存在というわけではないようだ。こと細かな記録は失われているものの、長く果てなき旅路の末に、この地に訪れた存在だと伝えられていた。人智を超えた強大な力を持つ存在、もしくは希有な能力を誇る種族。女神たる存在の素性は、そのように定義付けられてた。
女神の教えを元にして民の安寧を祈り、信仰に対する啓蒙を深める。それらの祭祀的行為に留まらず、聖堂は実に様々な活動に従事していた。孤児院や図書館の運営、貧困層への救済、更には旧市街の保守整備など……。本来は執政によって為されるべく活動の多くを、自発的に取り組んでいる。
名目上ではあるものの、聖堂は独立した権力を持つ機関として、街の運営に関与する権限を与えられていた。街が創られた当初から、中立的役割を担っているはずだった。しかし、現代では執政が権力を持ち過ぎているために、その役割を蔑ろにされる傾向が強い。
そうだとしても、聖堂は旧市街を護ることを目的として、実に多くの仕事に奔走している。時には旧市街の代表として、新市街に出向くこともある。宰相の配下として勢威を張り続ける執政局を相手に、唯一渡り合うことのできる組織。それもまた、聖堂が持つ側面の一つなのだ。旧市街は聖堂によって護られている。そのように断言したとしても、決して過言ではないだろう。
旧市街に住まう民衆は、それなりに手厳しい生活を余儀なくされている。農耕地の廃止によって食糧自給率は底を打ち、多くの品々を輸入によって賄う必要がある。その影響が災いして、累積を続ける食料品の値上がりは、極めて酷いものがある。更なる追い討ちをかけるように、課税比率は毎年のように厳しい上昇を続けている。今では稼ぎの六割以上は、税として巻き上げられる始末だった。無思慮なまで増え続ける税の多くは、新市街の保全や整備に当てられている。制限なく堆積される責め苦の矛先は、旧市街のみに向けられると決まっていた。
聖堂の規範的姿勢が功を奏したのか、一部の良識ある者たちの間では、自発的な相互扶助が為されつつあった。女神の教義を礎として、皆が無理なき範囲で支え合う。そうすることで、人々は苦役に満ちた日常を、何とか持ち堪えている。
しかし、絵に描いたような高潔な生き方を、誰もが常にできるわけではない。時として行き場のない怒りの矛先が、弱き者に向けられることもある。いつも決まって槍玉に上げられるのは、差別対象とされた者たちと決まっている。その代表格である混血は、旧市街の片隅に隠れ住んでいる。銀髪の半妖もまた、その一人に含まれていた。たとえ旧市街だとしても、混血は怯えながらの生活を余儀なくされている。人間的な外見的特徴が色濃い者に関しては、その出自や素性を厳重に秘匿することもある。そうでもしないと、まともな生活を送ることさえ難しい。
無益な差別行為は、聖堂によって禁止されていた。そのために、新市街のような悪辣な暴虐に発展することは滅多にない。わざわざ混血に意識を向ける余裕さえもないほどに、民衆は毎日の生活で手一杯だった。たとえ混血だとしても、ひっそりと生活をしていれば、普段は特別な問題が起こることはない。
ただ、時に集団ヒステリーのように、振って湧いたような混血憎悪が溢れ出すこともある。その時だけは、慎重な行動を余儀なくされてしまうのだ。形は違えど旧市街にも、目を覆いたくなる出来事は存在する。まるで、根幹は新市街と何も変わらないことを示すかのように。
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