9
闇に閉ざされた領域に、一縷の光が灯された。新たに塗り落とされた色彩は、実り膨らむ蕾のように拡大を遂げてゆく。溢れる光の炸裂は、優雅に綻ぶ春の花のように、世界に新たな息吹を滲ませた。絵筆を走らせるかのごとく、花弁のような光の帯が流れると、次なる景色が描かれる。
花の背後を彩る暗闇にも、新たな色が灯された。炙り出された形象は、果てなく連なる山の尾根模様。次々と露にされてゆく構図の中心には、勢いを増してゆく光源が輝いていた。拡大を続ける煌めきは、既に花とは言い難い。その正体は、朝の到来を伝える光球。遥かなる高みへと上昇を続けながらも、際限なく輝きを増してゆく。やがて、闇に塗り潰されていた風景にも、新たな彩りが灯される。
黄丹色に染まりかけた森に響くのは、夜明けの歌う鳥たちの囀り。寒々しい初春の朝に目覚めの色を落とすように、更なる光が溢れ出す。彼方に去りゆく闇と入れ替わるように、柔らかな野山の彩りが次々と明るみにされていった。夜明けを迎えた穏やかな草原の片隅には、この場に相応しくない人工物が覗き見えた。
ここは山中に設けられた野営地。異質な色を滲ませる象徴は、山の生活における仮住まい。小さなテントの内側では、未だに夜が尾を引いていた。薄れ消えゆく夢の波間に漂いながらも、居住者は浅い眠り揺れていた。去りゆく夜とは反対側から、朝の彩りに染まる細波が押し寄せる。拮抗する波加減は、容易く一方へと傾いてゆく。波打つ光に揺られながらも、徐々に目覚めの極地へと流される。
帳越しに届けられた光が、銀色に揺れる花弁に温かな色を滲ませる。苦しげな吐息が零れた瞬間に、光を避けるかのように蕾は固く閉ざされた。そんな印象を見せるのは、鬱陶しそうに手繰り寄せた毛布への篭城だった。必死に目覚めを拒みつつ、夢の世界に通じる扉を模索する。
虚しきことに、その願いが叶うことはなかった。捉えることができたのは、散りゆく夢の残滓のみ。朝を迎えた今となっては、全てが朧げに崩れ果てようとしていた。擦れ暈された夢は、既に終着点へと辿り着いていた。置き去りにされた極地には、次の世界に通じる関門が待ち受けている。半ば強制的に追い出されてしまうかのように、扉が開き溢れる光が注ぎ込む。あまりの眩しさに狼狽えつつも、無意識のうちに重たい瞼が開かれる。何よりも最初に襲い掛かる感覚は、乾き張り詰めた冷気だった。乾き擦れた呻き声が零れると、滑らかな温もりを宿した白息が溢れ出してゆく。
春を迎えたばかりの山の朝には、まだまだ晩冬の気配が残されている。銀髪の半妖は寒々と震えながらも、ようやく目を醒ました。毛布で全身を余すことなく包み込み、蓑虫のような様相になりつつも、恐る恐るとテントの外を覗き見る。
視界に映し出された風景は、薄霧に覆い尽くされた野営地。早朝ならではの寒々しい光景は、実に神秘的な彩りに染まっていた。目覚めを迎え入れてくれた風景には、少なからずの愛着がある。あまりの寒さに凍えつつも、深く呼吸を整える。朝の香気を味わうと、たちまちに覚醒が促される。爽やかな感覚に浸りつつも、意識を擽る夢の残滓に思いを巡らせる。
先ほどまで滞在していた夢の世界には、なんとも不思議な物語が展開されていた。もう一度、あの世界に浸りたい……と願いつつ、記憶から剥がれ落ちてゆく断片を、必死に手繰り寄ようと試みる。しかし、それはとても難しいことだった。できることはただ一つ、散り散りに崩れ落ちてゆく夢を見送ること。全てが容赦なく消えて去ってゆく中で、最後のひと欠片だけが掌の上に残された。その一粒だけは、決して崩れ消えずることもなく、いつまでも心に残り続けていた。
小さな欠片に宿る印象は、昨日訪れた湖畔の情景にも似ていた。細部に渡る詳細も、展開されていた物語も、何もかもが失われている。しかし、たったひとつだけの象徴が、確かな存在感を見せ付けていた。それは、静止した一枚の絵画を思わせる、光溢れる美しき泉。心奥底に掲げられた絵画を見つめていると、安らかな感覚に包まれる。細波のように押し寄せる煌めきが、朧げな記憶の残滓を滲ませながらも、不思議な奥行きを描き出す。波間に揺れる幻影には、樹海に秘匿された湖畔の風景が見え隠れしていた。祈り崇めるかのごとく、心奥底の風景を見つめていると、意識を蝕む幻影が波打つように変容を遂げてゆく。
夢の世界の印象と、不思議な湖畔での出来事が、ひとつに重なり合ってゆく。現実と幻想の境界を歪ませるように、心奥底の彼方から不思議な波紋が押しせる。為す術もなく波打つ揺らぎに攫われると、どこまで深いところまで流される。やがて、奥深き夢の領域へと向かう道筋が、朧げながらに示された。何も抵抗することもなく、流れのままに委ねよう……。祈りにも似た思いを抱きはするものの、その没入が長く続くことはなかった。鋭い冷気が肌を撫で付けると、綻び崩れた意識が縛り上げられる。甘い眠りの感覚は、途端に薄れ消えてゆく。そして、為す術もなく無情にも、現実に揺り戻されてしまった。
少しばかり時を経て、ようやくテントが開かれる。目覚めたばかりの銀髪の半妖は、恐る恐ると姿を現した。寒さに縮こまりながらも、僅かに残った枯れ枝に火を灯す。ぱちぱちと燃える炎を前にして、震えながらも暖を取る。溜息とともに零れる白息が、気流に乗って彼方に旅立ち消えてゆく。その後を追い掛けるようにして、溢れる蒸気が立ち昇る。火に掛けた小鍋が沸々と湧き上がると、次なる行動が促される。
茶器に落とした薬草に、沸き立つ湯が注がれる。朝の野原に馴染み溶けてゆくのは、甘く円やかな芳香。銀髪の半妖は両手で茶器を包み込み、ゆっくりと掌を温めた。今にも消え落ちそうな炎をぼんやりと見つめながらも、喉に潤いを与えてゆく。口腔に広がる茶の風味と、喉を潤す温もりに浸りつつも、内なる波紋に意識を奪われる。少しでも気を抜くと、不思議な湖畔に心を搦め捕られそうになってしまう。美しくも悩ましき侵食に抵抗することなどは、できるはずもなかった。
夢想に浸り細やかな茶事に耽っていると、徐々に朝霧が薄れ晴れてゆく。焚き火は既に消え落ちて、香り豊かな一筋の煙を漂わせていた。夢の残滓さえもが失われ、意識の奥底へと消えていた。去りゆく夜の残り香を見送りながらも、銀髪の半妖は僅かに残る茶を飲み干した。そして、完全なる朝を迎えたの野山を見つめながらも、深く呼吸を整えた。きりりと鋭い冷気が肺に行き渡ると、意識は現実に相応しい形へと調律されてゆく。
数日に渡る山の生活で、充分な収穫に恵まれた。その成果を有効に活用するためにも、これから街に戻る必要がある。冬が明けた後の一番最初の山仕事は、名残惜しくも幕を降ろす。それでも、実り多き日々を思い返すと、安堵を覚えるばかりだった。晩冬に芽吹いたばかりの薬草は、予想以上に元気いっぱいに育っていた。そして、新たな新芽を覗かせる植物もまた、実に多く見受けられた。これから始まる春の収穫は、とても忙しくなることが窺えた。街での仕事を片付けたら、すぐにでも山に戻ってきて、採集に勤しむ必要があるだろう。
ほど近い再訪を確信すると、もう一つの希望が心を擽った。次に山に戻った時には、もう一度湖畔に足を運びたい……。祈るように心に誓い立てると、意を決して野営の後片付けに取り掛かる。焚き火の跡を丁寧に始末して、諸々の道具を近場の洞窟に保管する。全ての支度を済ませると、微かな未練を抱きつつも、荷物を背負い立ち上がる。ふらりふらりと体勢が崩れると、立木に縋るようにして、寸でのところで踏み留まる。
たっぷりと満たされた収穫物は、華奢な体躯には重過ぎたらしい。銀髪の半妖は体勢を取り戻しつつも、固く大地を踏み締める。出発の準備が整ったことを確かめると、細やかな祈りを結び瞑目する。数日の仮住まいを提供してくれた野営地に、深い感謝を示しつつも、一時の別れを告げて再訪を誓い立てる。そして、少しばかり俯き気味に、麓に向かい旅立っていった。
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