第4話「感情の毒」



 アオバが本格的に異常を感じ始めたのは、ループロイドを倒した翌日の朝だった。

「うっ」

 急激な吐き気。視界が歪む。

「どうした?」

 トウマが振り返る。

「なんでもない」

 アオバは誤魔化す。ただの疲労だと思いたかった。

 しかし、症状は悪化していく。

 頭痛。めまい。そして――。

「来るな! 来るなああ!」

 アオバが突然叫び始めた。何もない空間に向かって。

「アオバ!?」

 ユズが駆け寄るが、アオバは彼女を突き飛ばす。

「触るな! お前もバグだ!」

「え?」

 アオバの目は、明らかに正気を失っている。

「みんな敵だ……俺を、俺を食べようとしてる」

 幻覚。妄想。リンク・ギアの使い過ぎか、それとも。

 トウマが冷静に分析する。

「感情汚染だ」

「感情汚染?」

「バグの感情を取り込みすぎた。精神が侵食されている」

 アオバは床を転げ回る。苦しそうに頭を抱える。

「やめろ……入ってくるな……」

 その様子は、まるで何かに取り憑かれたよう。

「どうすればいいの!」

 ユズが焦る。

「分からない」

 トウマも対処法を知らない。

「最悪の場合……」

「最悪の場合?」

「廃人になる。または、バグ化する」

 恐ろしい可能性。アオバ自身がバグになってしまうかもしれない。

 その時、建物の外から足音が聞こえた。

「誰か来る」

 トウマが警戒態勢を取る。

 扉が開く。入ってきたのは、見知らぬ少女だった。

 ピンクの髪。白いドレスのような装備。レベル表示は8。

「あら、大変そうね」

 少女が微笑む。妙に大人びた笑顔。

「誰だ」

 トウマが警戒を解かない。

「私はミオ。治療師をしてるの」

 少女が優雅に一礼する。

「その子、感情汚染でしょう? 治せるわよ」

「本当?」

 ユズが食いつく。

「ええ。ただし――」

 ミオの笑顔が、一瞬歪む。

「タダじゃない」

「何が欲しい」

 トウマが単刀直入に聞く。

「賢いわね。私が欲しいのは、感情エネルギー」

 ミオがアオバを見る。

「特に、濃密な負の感情。それを少し分けてもらえれば」

「アオバの感情を?」

「そうよ。でも安心して。命に関わるほどは取らない」

 ユズとトウマは顔を見合わせる。怪しい。明らかに怪しい。

 でも、他に方法がない。

「分かった」

 ユズが決断する。

「お願い」

「ユズ!」

 トウマが止めようとする。

「でも、このままじゃアオバが」

 確かに、アオバの状態は悪化している。顔は真っ青で、呼吸も乱れている。

「いいわ」

 ミオが手をかざす。白い光がアオバを包む。

 しかし――。

「あら?」

 ミオの表情が変わる。驚きと、歓喜が混ざった表情。

「これは……すごいわ」

「何がすごい」

 トウマが警戒を強める。

「この子の中に、とんでもない量の感情が詰まってる」

 ミオの目が赤く光り始める。

「美味しそう」

 瞬間、ミオの姿が変わった。ドレスが黒く染まり、髪が蛇のように蠢く。

「知能型バグ!」

 トウマが叫ぶ。

「正解。私はエモーショナル・ヴァンパイア」

 ミオ――いや、バグが本性を現す。

「感情を食べて生きているの。特に、苦しみと絶望が大好物」

 ミオの手がアオバの頭に触れる。アオバの体が痙攣する。

「やめろ!」

 ユズが飛びかかるが、見えない力で弾き飛ばされる。

「邪魔しないで。せっかくのご馳走なんだから」

 アオバから、黒い靄のようなものが吸い出されていく。

「ああ……美味しい。怒り、恐怖、絶望、孤独」

 ミオが恍惚とした表情を浮かべる。

「でも、まだ足りない。もっと、もっと!」

 吸引力が強まる。アオバの顔から血の気が失せていく。

「このままでは死ぬ」

 トウマがシールドを構える。

「だが、物理攻撃は効かない」

 確かに、エモーショナル・ヴァンパイアは実体が曖昧。普通の攻撃は通じない。

 その時、アオバの目が開いた。

 しかし、その瞳は真っ黒に染まっていた。

「なに?」

 ミオが驚く。

 アオバの体から、今度は逆に黒い靄が噴出する。それがミオを包み込む。

「きゃあ! 何これ!」

 ミオが苦しみ始める。

「毒? これは毒?」

 アオバが立ち上がる。その姿は、もはや人間のものではない。全身から黒い靄を放ち、目は虚ろ。

「食べたいなら、全部やるよ」

 アオバの声。でも、アオバじゃない。

「でも、耐えられるかな?」

 黒い靄がさらに濃くなる。ミオが悲鳴を上げる。

「やめて! こんなの、こんなの無理!」

 大量の負の感情。それも、何重にも圧縮された、純度の高い絶望。

 エモーショナル・ヴァンパイアにとっても、それは毒だった。

「助けて!」

 ミオが命乞いをする。しかしアオバは止まらない。

「お前が望んだんだろ?」

 冷たい声。感情がない。

 ミオの体が崩れ始める。取り込んだ感情に、逆に食い殺されている。

「ごめんなさい! もうしません!」

「遅い」

 アオバが手を伸ばす。ミオの核を掴む。

 そして――握り潰した。

 ミオが光となって消滅する。完全削除。

 後には何も残らない。

「アオバ……」

 ユズが恐る恐る声をかける。

 アオバが振り返る。黒い瞳が、ユズを見る。

「次は、お前か?」

「!」

 ユズが後ずさる。

 トウマがシールドを構える。最悪の事態。アオバが完全にバグ化している。

「目を覚ませ」

 トウマが叫ぶ。

「お前は空見アオバだ。人間だ」

「人間?」

 アオバが首を傾げる。

「そんなもの、とっくに捨てた」

 アオバが一歩踏み出す。その足元から、黒い影が広がっていく。

 建物の壁が腐食し始める。触れるもの全てを侵食する、感情の毒。

「逃げるぞ」

 トウマが判断する。

「でも、アオバが」

「今のあれはアオバじゃない」

 トウマは冷徹に言い切る。

「バグだ」

 二人は建物から飛び出す。背後で崩壊音。建物が黒い靄に飲まれていく。

 アオバは追ってこない。ただ、その場に立っている。

 全てを侵食し、全てを無に帰す存在として。

「どうしよう」

 ユズが泣きそうな声で言う。

「アオバを、助けられないの?」

「分からない」

 トウマも答えを持たない。

 感情汚染の果て。それは、こんな結末だったのか。

 その時、アオバの中で何かが動いた。

 小さな光。それは、かつて封印した暴走ブレイカーの残滓。

 完全に武器として消費したはずなのに、わずかに残っていた。

『一人じゃ、寂しいよ』

 小さな声が、アオバの心に響く。

 黒い靄が、一瞬揺らぐ。

「……誰だ」

 アオバがつぶやく。

『僕だよ。君が最初に封印した』

 暴走ブレイカーの感情。それは、純粋な寂しさ。

 毒のような負の感情の中で、それだけが違う色を放っていた。

「お前も、俺を食おうとしてるのか」

『違うよ。僕は、君と一緒にいたいだけ』

 単純な願い。ただ、一緒にいたい。

 アオバの黒い瞳に、一瞬だけ光が戻る。

「一緒に……」

 しかし、すぐにまた黒く染まる。

「うるさい! 消えろ!」

 アオバが自分の胸を殴る。光を消そうとする。

 でも、光は消えない。小さいけれど、確かにそこにある。

 アオバは苦しむ。黒い靄と小さな光が、体の中でせめぎ合う。

「があああああ!」

 絶叫。そして――。

 アオバが倒れた。

 黒い靄が薄れていく。侵食も止まる。

 ユズとトウマが恐る恐る近づく。

「アオバ?」

 返事はない。でも、息はしている。

 瞳も、元の色に戻っている。

「気を失っただけか」

 トウマが脈を確認する。

「でも、また暴走するかもしれない」

「それでも」

 ユズがアオバを抱き起こす。

「仲間だもん」

 トウマは何も言わない。ただ、警戒は解かない。

 三人は、安全な場所を探して移動する。

 アオバは、ユズに背負われながら、うなされ続ける。

 感情の毒は、まだ完全には抜けていない。

 でも、小さな光が、かろうじてアオバを人間に留めている。

 それが、いつまで持つかは分からない。

 ただ確かなのは、アオバはもう、元には戻れないということ。

 感情を封印する者から、感情に侵食される者へ。

 その変化は、不可逆的なものだった。

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