第2話 推理小説研究会
使い古しの長机が横向きに二脚並べられ、側面にセロテープで貼りつけられたA三判の用紙には、黒色マジックペンの乱暴な横書きで「推理小説研究会」とあった。
その机の向こう側に、威圧するように両腕を組んだ男性がでんと腰かけていたが、やおら立ち上がると右人差し指を洪作に突き出し、大声でこう言い放った。
「ミステリを守るためならば、君は自分の命を犠牲にすることができるか?」
その男性の隣にはもう一人の男性が座っていて、そんな様子をにこにこ、というよりはにやにやとした興味本位の笑いを浮かべながら愉快そうに眺めている。
「・・・」
そんなことを初対面の人物に唐突に問いかけられたなら、あっけにとられてドギマギと立ち尽くしてしまう。
普通ならそんな反応を示すところだが、洪作はしばらく考えたのち、こう確信ありげに返した。
「ええ、もちろん!
もしもこれから先、ミステリが禁止されるような時代が訪れるとして、僕が自らの命を投げ出すことでそんな状況を回避できるなら、僕は喜んでそうするでしょう」
面食らったのは、むしろ問いかけた男性の方だった。
ポカンとしばらく洪作を眺めていたが、やがて人懐こそうな笑顔になって、
「それ、どんな状況やねん。
まあ、確かにこの前の戦争の時代には、そんなこともあったって聞くけど、今の世の中でさすがにそれはないと思うねんけどなあ
とにかく、君のミステリに対する熱意はビンビン伝わってきたで」
「な~んや、君、ミステリ好きなんやね。
ウチがたまたま声かけたのは運命やったんかな」と、洪作を連れてきた女性はうれしそうに言ってから、洪作の正面に立つ中肉中背の男性を「こちらは社会学部四回生の甲斐さん」と、今だににやけている小柄で小太りの男性を「で、こっちは法学部三回生の有原さん」と身振りで示し、最後に「わたしは文学部二回生の石崎、よろしくね」と自己紹介した。
三人とそれぞれ目を合わせて無言で会釈を返した洪作だったが、その後不自然な間が空いた。
社交という儀礼に慣れていない洪作は、三人の視線が自分に注がれていることにようやく気づいた。
「ぼ、僕、流籐です。流籐洪作です」
情熱を傾ける対象についてだけは饒舌になるが、元来人見知りの洪作は幾分どもりながら、ぺこりと頭を下げる。
「流籐君、よろしくやね」と甲斐は右手を差しだし、洪作とがっしりと握手を交わしてから、
「オレが君にいきなり突拍子もないことを言うたのは、さっきまで有原とこのキャンパス内で春休みに起きた殺人事件の話をしていたからや」
「ああ」とすぐに思い当った洪作はがぜん興味をかき立てられ、その口から自然とよどみなく言葉が出てくる。
「文芸クラブのボックスで、学生が殺されたという事件ですね。
たしか、一週間くらい前だったかと。
でも、まだ犯人は逮捕されていないんですよね?」
「そのとおり。
だが、実は有力な容疑者はいてるんや。
オレは文芸クラブにも知り合いがあるから、新聞やテレビで報道されていない内容も知ってるんやが。
聞きたいか?」
「ええ、もちろん」
野次馬根性を隠そうともせず、にわかに活気を帯びた目を見開きながら、洪作は長机にぶつからんばかりに一歩前に踏み出した。
「まあまあ、ちょっと落ち着いてえな。
とりあえず、椅子に掛けたらどうや」
洪作は素直にうなずいて、長机の前の粗末なパイプ椅子に腰かけた。
ついで洪作の隣の椅子に腰を下ろした石崎を洪作は強烈に意識したが、それも一瞬のことで、甲斐の細面の顔に視線を集中させた。
「で、その容疑者というのは?」
「ああ、正木辰巳という大阪の豊中市在住で、三十代後半のフリーターや。
彼のことは以前に週刊誌で取り上げられたことがあるんやが知らんかな?
正木は推理作家の柳町智也を逆恨みしとったんや」
突然このX大学出身の小説家の名が甲斐の口に上ったので、洪作はいぶかしくもありまた驚いたが、あえて言葉を挟まずにおとなしく甲斐の話の続きを待った。
「その正木というのは、柳町の熱狂的なファンなんやが、その熱意がエスカレートしたというか、おかしな方向にねじ曲がってしもうたんや。
彼は自分も柳町のような推理作家になりたいと切望し、十代のころから創作活動に励んでいた。
そこまではよかったんやが、色々な出版社の新人賞に応募するも、ことごとく落選したことで彼はやがて絶望していく。
そして内心では才能の欠如を自覚しながらも自尊心がそれを認めたがらず、そんな両者の狭間で苦悩した挙句、正木は自己防衛本能の結果として妄想に浸ることになったということや。
そう、自分の創作アイデアが柳町に盗まれているという妄想にな」
「ははあ」
「それで、正木は柳町のある作品に対し、これは自分の盗作であるから出版を取りやめるようにと出版社に要求した」
「え? そこまで?」
「さらにや、その要求はエスカレートしていき、本人の中でどういう理屈が成り立ったのかはようわからんのやが、柳町の出版物すべての差し止めにまで及んだ」
「すべての出版物? なんだか、こう、すさまじいですね・・・」
「そうやろう?
で、ここからが肝心なんやが、その対象は、柳町が学生時代に創作した作品にまで広がっていく。
もう、こうなったら、理屈も何も通じへん。
正木はどこで聞きつけたのか、柳町の文芸クラブ時代の作品がボックスに保管されていることを知り、その作品さえも廃棄しろという要求を文芸クラブに突きつけたんや」
甲斐の語るところによると、文芸クラブの歴史は推理小説研究会のそれよりよほど長いという。
文芸クラブは創設以来、ジャンルを問わず創作に熱心な学生が集まるサークルで、推理小説好きの者も多く在籍している。
柳町智也もそのうちの一人で、彼の在学時の創作物も機関誌に掲載されている。
文芸クラブのボックスには一九六五年の創設以来の二十五年間分の機関誌が一冊も欠けることなく保管されているという。
一方の推理小説研究会の発足はちょうど十年前の一九八〇年で、元々、文芸クラブの創作至上主義に合わない者たちが集まってできたサークルであり、プロ作家の作品の読み合いや大学内外での交流が活動の中心で創作は一切行わない。
その意味で会員からすれば気楽さはあるものの創作という軸がないため、昨今の大学サークル出身の推理小説家輩出ブームからは取り残された感があるというのが甲斐の分析。
実際、推理小説研究会の会員数は先細りで、甲斐・有原・石崎の三人がこのサークルのフルメンバーだということだった。
「正木からの手紙を受け取った文芸クラブでは、もちろん驚きはしたが、そこまで深刻な事態とは受け止めなかった。
それがアダとなってしまったわけやが・・・
文芸クラブの部長は広瀬隆夫という文学部の四回生。
ミステリマニアの彼は柳町の大ファンであり、また自分が柳町の後輩にあたることをとても誇りにしてたんや。
彼の死体が発見されたのは今からちょうど一週間前のことで、現場は学生会館内にある文芸クラブのボックス。
柳町の長編作品のみが収録された機関誌の別冊号を胸に抱くようにして、床にうずくまった状態で発見され、広瀬の背中には折り畳み式のナイフが突き刺さっていた。
といっても心臓を刺されたわけではなく、その付近の血管が損傷していたという。
死因は、血液が心臓の周りの心膜に溜まって心臓を圧迫し、そのポンプ性能が低下したことによるもので、即死ではないということや。
この現象のことをダンボ何とか? いや、タンポポかんとかというらしいが正確な名称は忘れてもうた。
で、傷はその一か所のみで出血はそれほど多くはなく、現場には血が飛び散っていたこともなかったし、犯人もおそらく返り血を浴びることはなかっただろうというのが警察の見解らしい」
被害者の死の状況に黙って耳を傾けていた洪作は、やっと合点がいったというふうに強くうなずいた。
「それで、さっきおっしゃった、『ミステリを守るためならば、君は自分の命を犠牲にすることができるか?』という言葉につながるわけですね?」
「まあ、そういうことや。
犯人の目的はその機関誌を奪うことにあったんやろうが、何としても柳町の作品を守ろうという広瀬の気迫に押されたのと、おそらく実際に相手を刺してしまったことに動転して、慌てて現場を立ち去ったということやろうな」
「なるほど、でも、容疑者が逮捕されたというニュースは報道されていないと思うのですが・・・
もしかして、その正木とかいう容疑者にはアリバイがあったとか?」
「いや、アリバイはないという話や。
それに、柳町先生の話を聞くかぎり、犯人は正木で間違いないとオレは思うんやがなあ」
「え? もしかして、柳町先生と直接会ったんですか?」
洪作がびっくりして反射的にそうたずねると、甲斐は得意げにうなずいた。
「ああ、そうなんや、つい三日前にな。
ウチのサークルの活性化のために、実は今度機関誌を発行しようという動きがあってな、その創刊号の目玉企画として柳町先生のインタビュー記事を載せたいということで三人の意見が一致したんや。
それで先方に打診したら、快く引き受けてくれた。
その後でこの事件が起こったもんやから、インタビューのついでに正木のことも聞くことができたというわけや」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます