第3話 再発と幻聴と強烈な情動と

村瀬裕也(本体)


僕は課長夫妻と川釣りに来ていた。


課長が釣りに夢中でふと気づくと奥様唯芽さんが居ない。ここは一人で釣りに来る男も多く、彼女のような魅力的な人が一人で歩くには危ない。僕は急いで唯芽さんを探した。


唯芽さんは少し離れた場所で眉間に皺を寄せて不機嫌そうに釣りをしていた。僕はホッとして近くで見守りながら釣りをする事にした。


「あー。惜しかったですねー。かかりが甘かったんですかね。」


僕は竿を置いて彼女のもとへ近づく。


「村瀬さん。」


いい具合に彼女が僕の名前を呼んでくれた。男は僕の顔を見てすごすごと去る。なんたる爽快感。これぞ顔パワー。


「ふふ。唯芽さんは何事にも一生懸命で可愛らしい人ですね。課長が君にだけは絶対に紹介したくないなんて言う訳です。意外でした。努力した上で何でもこなせるのですね。尊敬します。」


すると彼女から突然強烈な嫌悪感をたたきつけられた。


ぐはっ。ひ、ひ、久しぶりに悪感情が体に刺さる。痛い。これは強烈だ。


「村瀬さんはお世辞がお上手ですよね。むしろ村瀬さんが爽やかでかっこよくてモテそうだから会わせたく無かったんですよ。ご自分でも分かってらっしゃるでしょう?」


あからさまな拒絶。


「それを言うと自慢だと怒られるのですが、割と苦労も多いのですよ。」


「分かります。息子も苦労しているので。」


ふと、甘やかな空気が漂う様な錯覚。

僕は何故だか君から目が離せなくなる。君も、竿を置いて、じっと僕の目を見つめていた。


何だろう。まるで熱にうかされた様な。

僕はふわふわと雲の上を歩くように君に向かって歩を進める。


「今日はちゃんと僕の目を見て話してくれるんですね。あなたの目を見ているとドキドキしてしまう。こんなことは初めてなんだ。」


どうしようもなく僕の感情が乱される。

唯芽さんはハッとしてわざとらしい笑顔で僕に言った。


「お、夫をよろしくお願いします。これからも支えてあげてください。」


そして頭を下げ、赤くなった顔を隠した。

僕は我に返って感情を押し込め、いつもの笑顔を張り付けた。


「お任せください。課長に一生ついて行く所存です。」


うつむき胸を押さえてつらそうに深呼吸をする唯芽さん。


心配になって覗き込むと君は僕を見つめたまま何もいわずに胸に置いていた手を下ろした。

時が止まったかの様に感じた。周りに何もないような、君と僕しかこの世界に居ないような、そんな錯覚。


僕らは黙ってそのまま見つめ合う。


君の瞳から漠然と伝わる感情。彼女も確かに僕に惹かれているのだと理解してしまった。

唯芽さんがやっと一匹のヤマメを釣り上げ、飛び上がって花の咲く様な顔で笑う。

くるくる変わる君の表情に、僕はまた吸い込まれそうになった。


「唯芽さんはどうしてそんなに自己評価が低いんですか?何でもできて、そんなにも魅力的で課長にとても大切にされてるのに不思議です。」


戸惑いと、迷いが君の表情から伝わってきた。


(……もしかしたら、村瀬さんなら私の気持ちを分かってくれたりするのだろうか。期待しても、話しても良いのだろうか。)


「……え?」


頭の中に、彼女の心の声がハッキリと聞こえた気がしたんだ。


「私は何も世間を知らない若い頃に結婚したんで本当にダメな妻なんです。今だって気の利いた事ひとつ言えない。」


君の頬を涙がつたう。


その美しい涙に僕は触れかけ、寸前で手を下ろした。

反対の手で自分の手をギリギリと握り込み自制する。決して触れてはいけない。


「私1人では何もできず皆に守られているだけで誰にも何も返せてない。私では夫の力になれない。私はバカだから、ただ明るい妻のフリをしている事しかできない。でないと本当の自分じゃ、また人が離れていってしまうから。夫にだけは本当の自分を知られちゃいけない。」


触れたい。君に。


僕は掴んだままの自分の右の拳に、左手でギリギリと力いっぱい爪を立てた。


僕に時々起こる、強烈に人を求める情動。


また、病気が再発したんだ。

もう絶対に人に依存してはいけない。


「きっと唯芽さんは真面目すぎるんだ。他の誰が離れていったとしても課長は決してあなたの側に居続けます。あなたは素晴らしい才能を持った人なのに、そんな風に自分を殺して生きてはいけない。僕が、僕があなたと課長の力になります。僕は、絶対に課長を裏切らない。」


君を知りたい。僕を知って欲しい。


触れたい。


必死で、必死で僕は情動に抗う。


「僕ならば、僕ならばあなたを丸ごと分かってあげられる。あなたは自分のままで生きなくてはいけないんだ!あなたには、僕が必要だ!」


君を、奪いたい。


我に返った僕の目に映ったのは、困惑する君。


「すみません。おかしな事を言いました。どうか忘れてください。」

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