SCENE#43 夜の門番

魚住 陸

夜の門番

第一章:宵闇の訪問者




宵闇が降り、街の喧騒が静寂に包まれる頃、古い石造りの門の前に、ひとりの男が立つ。彼の名はカイ。この街の、夜の門番だ。日中は賑わうこの門も、夜になれば人通りは途絶え、ただ冷たい風が吹き抜けるばかり。カイの仕事は、この門を明け方まで見守ること。不審者が侵入しないか、怪しい物音がしないか、目を光らせる。彼の祖父も父も門番だった。




カイは幼い頃からこの重い門の前に立つ彼らの背を見て育った。その職を受け継いだのは、他に選択肢がなかったからだ。街の小さな集落の外れで、彼はただこの門を守ることしか知らなかった。




ある夜、空には漆黒の闇が広がり、星一つ見えない。重い雲が街を覆い、時折、遠くで雷鳴が轟く。カイはいつものように、じっと門を見つめていた。彼の心には、漠然とした不安が巣食っていた。




「この門は、俺にとって単なる仕事場ではなかった。外の世界から、あらゆる厄災を遮断するための、最後の砦だと思っていた。だが、今日、その門は内側からの闇によって開かれようとしている、そんな予感が…」




そのとき、闇の中から微かな物音が聞こえた。最初は風の音かと思ったが、次第にそれははっきりとした足音へと変わっていく。ゆっくりと、しかし確実に、足音は門へと近づいてくる。




カイは静かに身構えた。剣の柄に手をかけ、目を凝らす。やがて、闇の中からぼんやりとした影が姿を現した。それは、背丈は低いが、異様に大きな荷物を背負った人影だった。影は門の前に立ち止まった。フードを深く被っていて、顔は全く見えない。カイは警戒しながら問いかけた。




「夜分に何の用だ? この門は夜の間は閉ざされている!」




影は何も答えない。ただ、背負った荷物から微かな金属音が聞こえるだけだ。カイはさらに剣の柄を握りしめる。その時、影はゆっくりとフードを上げた。そこに現れたのは、驚くほど幼い少女の顔だった。煤で汚れた頬、しかし澄んだ瞳が、まっすぐにカイを見つめる。彼女の衣服の裾には、故郷のどの部族にも属さない、見たこともない奇妙な刺繍が施されていた。何より異様なのは、冷たい夜風が吹き荒れる中、彼女が少しも寒がっている様子がないことだった。少女は震える声で言った。




「お兄さん、この街に入りたいんです。大切なものを、届けにきました…」




カイは一瞬、戸惑った。こんな幼い少女が、夜中に、こんな大きな荷物を背負って。彼は少女の荷物に目をやった。布に包まれているが、その形状から、中に何かが隠されていることがわかる。




「何を届けに来た?」カイは問うた。




少女は俯き、しばらく黙り込んだ後、意を決したように顔を上げた。彼女の瞳の奥に、人の世の時を超えたような、遠い光が宿っているように見えた。




「この街に、希望を。そして、忘れ去られた過去の記憶を…」




カイは少女の言葉に、胸騒ぎを覚えた。この少女は一体何者なのか。そして、この荷物の中には何が入っているのか。彼の直感が、この少女がただの迷い子ではないことを告げていた。門の向こうには、少女の言葉に秘められた真実が、そして街の未来が待っている。カイは剣の柄から手を離し、ゆっくりと門の鍵に手を伸ばした。夜の門番の、最も長い夜が、今、始まろうとしていた。





第二章:開かれた記憶の扉



カイが門の重い鍵を回すと、軋む音を立てて扉がゆっくりと開いた。少女は警戒するカイの視線を気にすることなく、一歩、また一歩と街の内部へと足を踏み入れた。




その小さな背中から放たれるのは、迷いや恐れではなく、揺るぎない決意のようなものだった。カイは少女を街の中へ案内し、誰もいない衛兵詰め所へと連れて行った。そこは暖炉があり、わずかだが冷たい夜風をしのぐことができる。




「冷えるだろう。ここで少し休むといい…」



カイは椅子を勧めた。少女は小さく頷き、床に座り込んだ。「荷物を見せてもらおう…」カイは言った。




少女は無言で、背負っていた荷物を床に降ろした。ずっしりとした重い音。少女が丁寧に包みを解くと、中から現れたのは、古びた、しかし精巧な作りのオルゴールだった。そのオルゴールは、琥珀色の木材でできており、蓋には見慣れない紋様が彫られていた。少女がオルゴールに触れるたび、琥珀色の木材に刻まれた紋様が、微かに脈打つように光を放った。彼女の指先からも、微かな光が溢れ出ているように見えた。




「これは…?」カイが尋ねると、少女はオルゴールの蓋にそっと触れた。




「これは、この街の『記憶』です…」少女の指が触れると、オルゴールは静かに、しかし力強く、美しい音色を奏で始めた。それは、どこか懐かしく、そして悲しいメロディだった。




その音色は、詰め所の空気を震わせ、カイの心に直接響いてくるようだった。オルゴールの音色は、ただの音ではなかった。それは、人々の心の奥底に眠る感情を揺さぶり、忘れ去られた感覚を呼び覚ます、不思議な力を持っていた。




すると、奇妙なことが起こった。オルゴールの音色に合わせて、詰め所の壁に、ゆらゆらと光の映像が浮かび上がったのだ。それは、かつてこの街で人々が笑い、歌い、そして争っていた光景だった。広場には、祭りの度に歌われた「泉の歌」が響き渡り、色とりどりの布がひらめいていた。そして、突如として街を襲った災厄の影。炎が燃え上がり、人々が悲鳴を上げ、街全体が闇に包まれていく――。




カイは息を呑んだ。




「これは…まさか、あの…」




それは、彼が生まれるずっと以前の、忘れ去られた歴史だった。この街の人々は、災厄の記憶を封印し、その歴史を語ることを禁じていたのだ。しかし、オルゴールの音色は、その禁を破り、鮮明な映像として過去を再現していた。少女は静かに言った。




「この街は、かつて大きな災厄に見舞われました。しかし、人々は恐怖に打ち勝ち、街を再建したのです。このオルゴールは、その時の人々の希望と、乗り越えた証が込められています…」




カイは、その映像の中に、一筋の希望の光を見た。それは、人々が力を合わせ、助け合い、未来へと進もうとする姿だった。しかし、なぜ今、この記憶が呼び覚まされるのか。カイの脳裏に、一つの疑問がよぎった。




「なぜ、今になって、この記憶が…?」 カイは過去について、ほんの一部しか知らなかった。「父も祖父も、ただ『災厄を乗り越えた』としか教えてくれなかったからな…。」と心の中で呟いた。





第三章:封印された真実




オルゴールが奏でる記憶の断片は、カイに新たな疑問を投げかけた。映像は確かに街の苦難と再建を示していたが、なぜその記憶が封印されたのか、そして少女がなぜ今それを運んできたのか、その核心は依然として闇の中だった。




カイは少女に尋ねた。




「なぜ、この記憶は封じられたのだ? そして、君は誰だ?」




少女はオルゴールから手を離し、憂いを帯びた瞳でカイを見つめた。




「この街を襲った災厄は、単なる天災ではありませんでした。それは、人々の心の闇が生み出したものでした。強欲、嫉妬、憎しみ…それらが渦巻き、街は自ら滅びの道を選びかけたのです…」





少女の言葉に、カイは衝撃を受けた。「まさか…そんなことが…」彼が知る歴史は、ただ災厄を乗り越えたという美談だけだった。しかし、真実はそれよりもずっと深い場所にあったのだ。少女は続けた。




「災厄の後、人々は深く後悔しました。そして、二度と同じ過ちを繰り返さないために、過去の真実を封印したのです。痛みを伴う記憶を消し去り、希望だけを語り継ぐことを選んだのです…」




「では、なぜ今、その記憶を呼び覚ます必要がある?」カイは問い詰めた。




少女はオルゴールをそっと撫でた。「街は今、新たな危機に直面しています。人々は、過去の教訓を忘れ、再び心の闇に囚われ始めています。このままでは、あの時の悲劇が繰り返されてしまうでしょう。私は、この街の守り手の一族の末裔です。オルゴールは、私たちの一族が代々守り続けてきた、街の魂の器なのです。街が真の危機に瀕した時、記憶を解き放ち、人々を導く使命を帯びています…」





「記憶を封じることで、悲しみから逃れることはできても、真に乗り越えることはできません。それは、また別の闇を生むだけなのです…」と少女は付け加えた。




その時、外から、遠くで不穏なざわめきが聞こえ始めた。それは、普段の夜の静寂とは明らかに異なる、人々の不安が伝わるようなざわめきだった。カイは顔をしかめた。




「何だ…このざわめきは…?」




少女の言う「新たな危機」とは、まさに今、起こりつつあることなのか。彼はオルゴールを手に取った。その重みは、単なる歴史の品ではなく、街の運命そのもののように感じられた。





第四章:夜明け前の試練



外のざわめきは次第に大きくなり、それはやがて、人々の怒号へと変わっていった。カイと少女が衛兵詰め所を出ると、門の外から、いくつもの松明の光が近づいてくるのが見えた。街の住民たちだ。彼らの顔には、疲労と不安、そして不満が深く刻まれている。




かつては色鮮やかな旗がはためき、楽しげな歌声が響いたはずの広場は、今は枯れた雑草と壊れた露店の残骸が転がるばかりだった。街の片隅にひっそりと残る、崩れかけた美しい彫刻が、かつての繁栄を物語っているかのようだ。石畳にはかつての活気の痕跡がかすかに残るが、人々の目に宿るのは諦めと疑念の光だけだ。




「門番! なぜ門を開けたのだ!」



「何者だ、その娘は!」




住民たちの声は、カイに向けられていた。彼らは、ここ数日続く原因不明の不作と、それに伴う生活苦に苛立っていた。そして、その不満のはけ口を、閉ざされた門と、見慣れない少女に向けようとしていたのだ。




少女は前に進み出ようとしたが、カイがそれを制した。「私が話します!」カイは住民たちの前に立ち、毅然とした声で言った。「落ち着いてください! 彼女は、この街を救うために現れた者です!」




しかし、住民たちは聞く耳を持たない。




「救うだと? この状況で何ができる!」



「怪しい奴を街に入れた門番め!」




感情的になった住民の一人が、少女に向かって石を投げつけようとした。その瞬間、少女はオルゴールを高く掲げた。




オルゴールから再び、あの美しい、しかしどこか物悲しいメロディが流れ出した。今度は、その音色は街全体に響き渡り、人々の心の奥底に直接語りかけるようだった。そして、オルゴールの光が、ざわつく人々の顔を照らした。その光に触れた者たちの脳裏に、カイが見た過去の映像が、鮮明に蘇り始めた。




最初は困惑の表情だった住民たちも、やがて映像が示す真実に気づき始めた。かつて街を襲った災厄が、天災ではなく、自分たちの祖先の心の闇から生まれたものであることを。そして、それを乗り越えるために、人々がいかに助け合い、希望を紡いできたかを…




松明の光が揺れる中、住民たちの間に、徐々に静寂が訪れる。怒号は止み、代わりに、すすり泣く声が聞こえ始めた。それは、過去の痛みを思い出し、そして、忘れていた希望の光に気づいた涙だった。




「ああ、なんてことだ…」



「我々は、また同じ過ちを繰り返そうとしていたのか…」




ある者は泣き崩れ、またある者は怒りに震え、過去の真実を受け入れがたい様子だった。「そんな昔の話を今さら持ち出して、一体何になるんだ! 私たちの苦しみは、今、ここにあるんだ!」と叫ぶ者もいた。




しかし、街全体が心を一つにするには、まだ時間がかかりそうだった。夜はまだ明けきっていない。オルゴールの光が届かない、街のさらに奥では、いまだ不穏なざわめきがくすぶり続けているようだった。





第五章:希望の夜明け




オルゴールの音色が響き渡り、人々の心に過去の記憶と希望の光が蘇り始める中、カイは静かに少女の隣に立った。住民たちの表情には、混乱と後悔、そして微かな希望の光が混じり合っていた。彼らは、自分たちの祖先が犯した過ちを思い出し、そして、それを乗り越えた先人たちの強さを感じ取っていた。




しかし、長年の間に培われた不信と不満は、そう簡単に消え去るものではない。一人の老人が、震える声で尋ねた。「私たちは…どうすれば良いのですか?」その問いは、住民たちの誰もが抱いていた疑問だった。




少女はオルゴールを胸に抱き、静かに、しかし力強い声で答えた。




「過去を恐れず、真実に向き合うこと。そして、お互いを信じ、助け合うこと。この街は、かつて心の闇に囚われ、滅びかけました。しかし、あなたたちの祖先は、互いの手を取り合い、希望の光を灯し、この街を再建したのです。今、あなたたちも同じ試練に直面しています。このオルゴールは、その時の希望の証。あなたたちの心の中にも、必ずその力が宿っています…」





少女の言葉は、まるで魔法のように人々の心に染み渡った。オルゴールから放たれる光は、もはや単なる過去の映像を映し出すだけでなく、人々の心に直接、勇気と希望を吹き込んでいるようだった。




その時、夜の帳がゆっくりと解け、柔らかな朝陽が街を照らし始めた。夜の闇が退き、新たな一日の始まりを告げる。それは、まるで街が、そして人々が、新たな希望の光に包まれるかのような光景だった。




人々は顔を上げ、朝陽の光の中で、互いの顔を見つめ合った。そこには、もはや不満や怒りの表情はなく、代わりに、和解と、そして未来への決意が宿っていた。




「ああ、これで…」



「もう一度、やり直せるのだな…」




カイは、門番としてこれまで見てきたどんな夜明けよりも、この朝の光がまぶしく、そして温かく感じられた。彼は、この出来事を通じて、ただ門を守るだけでなく、街の未来にどう関わっていくべきかを模索し始めていた。




少女はカイに微笑みかけた。「もう大丈夫です。この街の夜明けは、もう始まりましたから…」そして、彼女は小さく付け加えた。



「いつか、あなたも、あなたの真の役目に気づくでしょう…」




オルゴールの光は次第に薄れ、美しいメロディも静かに止んだ。少女は静かに門を通り、朝の光の中へと消えていった。しかし、その音色と光が人々の心に残したものは、決して消えることはないだろう。




夜の門番、カイの役目は終わった。彼は門を見つめた。その門は、もはやただの境界線ではない。



カイは、夜明けの光が差し込む門を背に、ぽつりと呟いた。




「あの少女は、一体何者だったんだ? そして、俺の『真の役目』とは…本当にこれで、すべてが終わったのか?」

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