第一章 虚界ノ少女

第1話 魔術師の少女

 どこまでも続くツンドラの森を抜けた先に何もない平野が広がっていた。そこに佇む城郭都市ヴェルハーヴン。石造りの質素な家々が十メートルほどの赤レンガの城壁に囲まれた小さな町だ。城壁の正面には鉄製の城門が取り付けられていた。荘厳で勇ましい城門も周りの素朴な造りと比べてみるととても不格好に感じられるだろう。


 ラグ=アーカノメトリア北部の森林地帯。かつては過疎に喘いでいたこの地も、19代国王ヴェルマースの経済政策により地方産業が活性化し、今では豊かではないが、かろうじて枯渇せぬ程度に保たれている。そんな辺境の小さな町で、再び一つの伝説が動き始めようとしていた。


 どこまでも続くツンドラの森を抜けると、視界の先には何もない平野が広がっていた。その中央に、小さな城郭都市ヴェルハーヴンがぽつりと佇む。石造りの質素な家々が赤レンガの城壁に囲まれ、正面には鉄製の城門が鎮座している。荘厳で勇ましいその城門は、かえって周囲の素朴な町並みと噛み合わず、不格好に映るだろう。


 「まさか、こんな辺境に奴らが潜んでいるとは……」


 城門の前で、ひとりの少女が小さく呟いた。


 夜の闇を思わせる、まっすぐな黒髪が腰まで流れている。風に揺れるたび、その髪は淡い光を帯びて揺らめいた。大きな瞳は鋭さを帯びながらも、どこかあどけなさが残る。黒のローブは明らかに身体には大きく、袖や裾が少女の細い体をすっぽりと包み込んでいるが、布地はよく手入れされ、折り目も正しく、清潔だった。白い詰襟のシャツに首元で結ばれた茶のリボン、膝丈ほどの黒のスカートがわずかな幼さを添えている。


 一見すれば冷たい印象すらある少女だが、その身だしなみや仕草にはどこか品の良さが滲んでいた。


 少女は腰にかけた小さな魔道具――交信珠を取り出し、静かに口を開いた。


 「例の地に到着いたしました」


 魔力を流し込むと、交信珠の内部にぼんやりとホログラムが浮かび上がる。そこに現れたのは、黒のローブをまとった初老の男だった。フードの影に隠れた顔には深い皺が刻まれている。


 「一礼もなく、いきなり本題とは……心得違いではないか?」


 しわがれた声で男が言う。


 「……無礼を働き申し訳ありません」


 少女は即座に頭を下げた。


 「まあよい。して、実際に足を運んで何か感じたことはあるか?」


 男の問いに、少女は首を小さく横に振る。


 「魔族の気配については、私の感知範囲では確認できません。ただ、町の中央に、他と一線を画す強い魔力量を感じます」


 「それはノル=ヴェルカ教団のものだろう」


 男の言葉に、少女は首を傾げる。


 「12代国王ラグネドルの政策により、信仰や宗教は禁止されているはずですが……」


 「その通りだ。だがノル=ヴェルカ教団は例外だ。少し話が長くなる」


 「……急いでいます。後にしてください」


 少女が冷たく言い放つと、男は苦々しげに舌打ちした。


 「おのれ小娘……まあよい。簡潔に話そう。奴らの言い分では、かつて魔族と人類の戦乱の時代、北部の地に突如魔王が降臨したそうだ。争いに怒り狂った魔王は、世界を火の海にした。その炎は怒りそのもの。今でも魔王は生きており、再び世界を焼き尽くさぬよう、教団の者たちは日々、魔術を研鑽し、祈りを捧げている」


 男は一息つくと、手元のワインを一口含んだ。


 「本来なら、王命により粛清されていたはずだ。しかし討伐に向かった兵団の団長が、地平線の果てまで続く焼野原を見たと語った。……もちろん幻覚か、信者の仕掛けた幻術だろう。だが、魔族との戦争の空白期については謎が多い。我が国の歴代王の中でも最も保守的だったラグネドルですら、教団への完全な介入を避けたほどだ」


 少女は静かに尋ねる。


 「日々魔術を研磨していると言いましたが、強い魔力は一つのみ。その他の魔力は極めて微小です」


 「当然だ。教団に属するのは町の中でただ一人。才覚ある子どもが選ばれ、修行を積む。そして魔術を極めたと教会本部が認めたとき、その者は“神父”となる」


 「神父?」


 「ああ。神父は町でただ一人の存在。民は神父に祈りを捧げ、神父は民を代表して魔王に祈りを捧げる。神父には絶対の権威がある」


 「もし、より才ある子どもが現れたら?」


 「そのときは神父と“決闘”だ。勝者が神父となる。……それを恐れ、才ある子どもを密かに殺す者もいたらしい」


 少女はわずかに引きつった笑みを浮かべた。


 「才ある者が慣習に押し潰されるとは、皮肉なものですね」


 「……だが神父がいなければ祈りも届かぬ。神父は教団の仕組みとしては完成されているとも言える。……忘れるな、神父には決して無礼のないようにな」


 「心得ております」


 「では頼んだぞ、我が麗しのオーレルよ。貴様には期待している」


 「身に余るお言葉。感謝します、マスター」


 少女――オーレルが一礼すると、ホログラムは消えた。


 交信珠を腰に戻すと、オーレルは城壁に手をかけて叫んだ。


 「王命により参りました。魔術師の者です。開門を願います!」


 不慣れな大声に、喉が痛んだ。


 その返答は、油で軋む城門の重厚な音色だった。


 「失礼します」


 門を潜るオーレルは、閉門の音にも振り返らず町へ足を踏み入れた。視線はまっすぐ、町の中央にある聖堂へと向けられていた。長旅の疲れと尿意が、さきほどの長話をますます苦痛にさせていた。


 そのときだった。


 右方から、乾いた物音が聞こえた。オーレルが目を向けると、金髪の痩せた少女が数人の少年に取り囲まれ、髪や服を掴まれていた。


 「奴隷のくせに生意気だな。大人しくしてりゃ、すぐに終わる」


 長身の少年がそう言い放つ。


 この町が経済的に復興した背景には、ある政策があった。ヴェルマース王は、皆平等に貧しかった北部の民に階級を与えた。奴隷、平民、町人。それにより経済競争が生まれ、町は活気づいた。その犠牲となったのが、奴隷階級の者たちだった。


 一瞬、オーレルと少女の目が合った。


 そこに映るのは、虚無だった。恐怖も、絶望も、怒りすらない。すべてを通り越した、ただの空白。


 (……なぜ、そんな目で、それでも抵抗を?)


 オーレルの中で、何かが揺らいだ。


 少年たちは少女を路地裏へと引きずっていった。町の人々は何も見なかったように歩いている。


 ――違う。


 見ていないのではない。誰も、それを“異常”と思っていないのだ。


 「……お嬢ちゃん、旅人かい? うちの店、見てかないかい?」


 小太りの男がオーレルに声をかけてきた。


 「……今のを、見ていたはずだ」


 オーレルは男を睨みつけ、静かに呟いた。


 「どうして、見て見ぬふりができるんだ」


 そう言い残し、彼女は路地へと歩み出す――。


  背の低い少年の1人が暗い路地を照らしていた。明りに照らされた少女はただただ俯いていた。小太りな少年が少女の服に手をかけ、そしてはぎ取ろうと乱雑に引っ張り上げる。


 そんな中オーレルの存在に長身の少年が気づき、魔術師である彼女を恐れて逃げ出す。他の少年らも続いて逃げ出していく。町には、“影ながら魔族と戦う魔術師”の存在が、密かに噂されていた。少年らは服装からオーレルが魔術師であることを察し恐れ逃げ出したのだろう。


 「罪の自覚はあるようですね」


 オーレルはそう言うと俯いたままの少女の元に駆け寄る。


 「怪我はないですか?」


 オーレルの言葉に少女は小さく頷いた。オーレルは少し憂鬱な気分になった。この地ではこれが当たり前。ありふれた日常なのだ。この少女はきっとこれから町の平民らに搾取され続ける。そんな哀れな少女を助ける手段などオーレルにありはしなかった。


 「だからって見捨てられるかよ」


 オーレルは小声でつぶやいた。1人考え込むオーレルの少女は戸惑いの表情を見せた。しばらく考え込んだ末オーレルは口を開いた。


 「私は訳あってここに来ています。この地に土地勘がないもので。あなたに幾つか尋ねたいことがあります。」


 オーレルがそう言うと少女はか細い声で答えた。


 「どうぞ。私の答えられることであれば。」


 「・・・ではまず。お手洗いは、どこでしょうか?」


 オーレルは恥じらいながら少女に尋ねた。その様子を見て少女は初めて微かに口元を綻ばせた。

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