第5話最高の笑顔と、縮まる距離
翌朝、俺はけたたましく鳴り響くアラームよりも一時間も早く目が覚めてしまった。昨夜の興奮と、これから訪れるであろう運命の瞬間のことを考えると、とてもじゃないが二度寝などできそうになかったからだ。俺はベッドから音もなく起き上がると、勉強机の上に置いた莉奈の腕時計を、まるで壊れ物でも扱うかのように、そっと手に取った。
チク、タク、チク、タク…。
まだ夜の静寂が残る部屋に、時計の針が健気に時を刻む音だけが響き渡る。それは、まるで小さな命の鼓動のようにも聞こえた。俺は、この小さな奇跡の音を、何度も、何度も耳元で確かめた。間違いなく動いている。昨夜、俺がこの手で起こした奇跡は、夢じゃなかったのだ。俺は安堵の息を吐くと同時に、これからこの奇跡をどうやって莉奈に手渡すか、その段取りを頭の中で必死にシミュレーションし始めた。
大学へ向かう足取りは、自然と軽やかになった。スキップでもしてしまいそうな心を、必死で抑えつける。ポケットの中には、莉奈から預かった時と同じ、布の巾着袋に入った腕時計。これが、今日の俺にとっての、いわば最終兵器だ。早く莉奈に会いたい。早くこれを渡したい。そして、彼女の驚く顔と、その後の最高の笑顔が見たい。その一心で、俺は逸る気持ちを抑えながら、いつもより少しだけ早い電車に乗って、大学へと向かった。
教室のドアを開けると、莉奈はもう席に着いていた。窓際の後ろから二番目の席。俺の定位置の、すぐ隣だ。彼女は窓の外をぼんやりと眺めていたが、俺が入ってきたことに気づくと、力なく微笑んだ。その笑顔は、まるで申し訳なさそうに、遠慮がちに浮かべられていて、見ている俺の胸が痛んだ。
「…おはよ、航。早いのね」
「おう、おはよ。まあ、たまたま目が覚めただけだよ」
その笑顔には、まだ昨日の悲しみの色が、インクの染みのように濃く残っている。俺は、そんな彼女の姿を見て、一刻も早くこの状況を終わらせてやりたいと、心の底から強く思った。
俺は自分の席にカバンを置くと、わざとらしく咳払いを一つした。そして、この日のために練習してきた、できるだけ勿体ぶった、しかし自然に見えるであろう仕草で、ゆっくりとポケットから巾着袋を取り出した。
「莉奈、これ。預かってたやつ」
「え…?」
俺が差し出したものを見て、莉奈は一瞬、息を止めた。そして、恐る恐る、まるで怖いものでも見るかのように、震える手でそれを受け取る。彼女は、俺が「やっぱりダメだった」と報告することを、心のどこかで覚悟していたのかもしれない。
「あの職人さん、やっぱり腕は確かだったみたいだぞ。なんでも、歯車が一つ、ほんの数ミクロンだけズレてただけだったらしい。それをちょちょいと直したら、あっさり動いたってさ」
俺は、練習してきた通りの、できるだけ平静を装った声で言った。我ながら、なかなかの名演技ではないだろうか。心臓は、今にも破裂しそうなくらい、うるさく、激しく鳴り響いているが。
莉奈は、巾着袋の紐を、まるで神聖な儀式でも行うかのように、一本一本、指で確かめるように、ゆっくりと解いた。そして、中から現れた腕時計を見て、その大きな瞳を、信じられないというように、さらに大きく、これ以上は開かないというくらいに見開いた。
「うそ…」
か細い、吐息のような声が、彼女の唇から漏れた。
「動いてる…なんで…?」
莉奈は腕時計を手に取ると、自分の耳元にそっと近づけた。そして、秒針が時を刻む、あの小さな、小さな音を、夢中で確かめている。その間、彼女は瞬き一つせず、ただ、じっと時計の文字盤を見つめていた。まるで、その青い針の動きを、目に焼き付けようとしているかのように。
やがて、彼女の瞳から、ぽろり、ぽろりと、真珠のような大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、昨日のような絶望に満ちた悲しみの涙ではなかった。安堵と、喜びと、そして信じられないという気持ちが入り混じった、温かくて、キラキラと輝く涙だった。
「すごい…すごいよ、航…! 本当に、本当に、直ってる…! よかった…! 本当に、よかった…!」
莉奈は、涙で濡れた顔をくしゃくしゃにしながら、満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、俺が今まで見た、どんな彼女の笑顔よりも、何百倍も、何千倍も輝いて見えた。まるで、分厚い雲の隙間から差し込んできた太陽の光のように、まぶしくて、温かくて、俺の心の中にある罪悪感のかけらさえも、すっかりと溶かしてしまうほどの力を持っていた。
「お、おう。まあ、俺は何もしてないけどな。その職人さんが、ほとんど徹夜で頑張ってくれたみたいだから。感謝するなら、その人にしてやってくれ」
俺は照れ隠しに、頭をガシガシと掻きながらそう言うのが精一杯だった。嘘をついている罪悪感は、確かにまだ胸の片隅にチリチリと残っていた。だが、それ以上に、莉奈のこの最高の笑顔を見られたという圧倒的な満足感が、俺の心を支配していた。この笑顔のためなら、どんな嘘だってついてやる。俺は、心の底からそう思った。
「ねえ、航!」
「ん、なんだよ」
莉奈は、涙を手の甲で乱暴に拭うと、いきなり椅子から立ち上がって、俺の腕にぎゅっと、力強く自分の腕を絡めてきた。そして、顔をぐいっと、鼻先が触れそうなくらいの距離まで近づけてくる。
「今度のお礼、絶対にさせてね! なんでも好きなもの、ごちそうするから! それと、その職人さんにも、ちゃんとお礼がしたい。お菓子とか持って、挨拶に行きたいな。今度、紹介して!」
「えっ!? いや、それは、ちょっと…」
まずい。そこまでは考えていなかった。俺は、存在しない職人をどうやって紹介すればいいのか、必死で頭をフル回転させた。
「そ、その人は、あんまり人と会うのが好きじゃない、筋金入りの変わり者なんだよ。だから、お礼は俺からちゃんと言っておくから。気持ちだけで十分だって、きっと言うだろうし。な?」
「えー、そうなの? 残念だなぁ。でも、わかった。じゃあ、航に、倍にしてお礼しないとね! 週末、空いてる!?」
莉奈はそう言うと、さらに強く俺の腕に抱きついてきた。柔らかい感触と、シャンプーの甘い香りが、俺の乏しい理性をぐらぐらと揺さぶる。心臓が、今度こそ本当に、物理的に口から飛び出してしまいそうだった。
「…わ、わかったから! とりあえず、離れろって! 講義始まるし、みんな見てるだろ!」
俺がそう言うと、莉奈は周りを見渡し、顔を真っ赤にして、悲鳴のような声を上げてぱっと腕を離した。教室中の視線が、俺たち二人に集まっていることに、ようやく気づいたらしい。一番前の席に座っていた蓮は、やれやれと首を振りながらも、その口元は明らかに笑っていたし、静は口元に手を当てて、肩を震わせていた。完全に、面白がられている。
その日の昼休み、莉奈は宣言通り、俺に学食の最高級メニューである「スペシャルデラックス定食」をおごってくれた。ハンバーグにエビフライ、唐揚げにカニクリームコロッケまで乗った、まさに夢のような定食だ。そして、食事中も、ずっと、本当に嬉しそうに、自分の手首で再び時を刻み始めた腕時計を、何度も何度も撫でていた。
その幸せそうな横顔を見ながら、俺は、ダンジョンの力の、新しい可能性について考えていた。この力は、ただ俺自身の好奇心を満たし、俺の生活を少しだけ便利にするためだけのものではない。使い方次第で、俺の大切な人たちを、こんなにも幸せにすることができるのだ。
それは、俺にとって、ダンジョンでレベルを上げることや、新しいアイテムを発見することとは、また違った種類の、深く、そして温かい喜びだった。俺は、この秘密の力を、これからも大切に使っていこうと、心に誓った。もちろん、誰にもバレないように、こっそりと。この秘密は、俺と、このコインランドリーだけのものだ。
莉奈との距離が、あの時計の針が一秒進むごとに、ほんの少しだけ、でも確実に、縮まったような気がした、そんな一日だった。
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