第6話ダンジョン通いと白Tシャツの代償
莉奈の時計を直した一件以来、俺の日常は、昼と夜とで全く異なる二つの顔を持つようになった。昼間は、相変わらずの平凡な大学生、相田航として、友人たちとくだらない話で笑い、退屈な講義で居眠りをする。しかし、太陽が地平線に沈むと、俺はもう一人の俺になる。誰にも知られることなく、コインランドリーの奥に広がる秘密のダンジョンを探索する、孤独な冒険者として。
莉奈のあの最高の笑顔は、俺に大きな自信と、そして新たな渇望を与えてくれた。この『調律の石』の力は、もっと凄いことができるはずだ。もっと人の役に立てるかもしれない。そのためには、俺自身がもっと強くならなければならない。もっとダンジョンの深奥を知り、もっと多くの、そして強力なアイテムを手に入れる必要がある。その思いが、まるで麻薬のように、俺をダンジョンへと駆り立てていた。
「わりぃ、今日、また用事あるから先帰るわ」
その日も、最後の講義が終わるチャイムが鳴るなり、俺は教科書やノートを乱暴にカバンに詰め込み、そそくさと席を立った。その時、俺の腕を、むんずと掴む手があった。
「また、なの?」
振り返ると、そこには案の定、頬をぷくりと膨らませた莉奈が、不満そうな瞳で俺を見上げていた。
「航、最近付き合い悪いよ。この前のお礼の約束だって、まだ果たせてないんだからね」
「悪い。なんか、親父に頼まれてるバイトが立て込んでてさ」
俺は、最近使い始めたこの便利な言い訳を、半ば自動的に口にした。もちろん、そんなバイトは存在しない。俺の本当のアルバイト先は、夜な夜な通い詰めている、あのコインランドリー・ダンジョンだ。
「バイト、バイトって…前はそんなのしてなかったじゃない。一体、なんのバイトなのよ」
「そ、それは…まあ、色々だよ。力仕事とか、そんな感じの」
俺がしどろもどろになっていると、会話を聞いていた蓮が、スマホから顔を上げて、冷ややかな視線を俺に向けた。
「相田。お前、最近、妙に体格が良くなった気がするが、そのバイトと関係があるのか? まるで、毎日ジムにでも通っているかのようだ」
「えっ、そうか? 気のせいだろ」
蓮の鋭い指摘に、俺の心臓がドクリと跳ねる。確かに、ダンジョンでの戦闘とレベルアップの影響で、俺の身体は以前よりも引き締まり、筋肉もついてきていた。友人たちに気づかれるほど、変化が表れていたとは。
すると、それまで黙って本を読んでいた静が、ふっと顔を上げて、静かに微笑んだ。
「秘密は、男の人を魅力的に見せることもあるけれど、隠し事は、時として、大切な人との間に、見えない壁を作ってしまうものよ」
その言葉は、まるで俺の心の中を見透かしているかのようで、俺は思わず息を呑んだ。彼女の言葉は、いつも核心を突いてくる。
友人たちの訝しむような視線が、俺に突き刺さる。莉奈の心配そうな顔、蓮の探るような目、静の全てを見通すような微笑み。その全てから逃れるように、俺は「じゃあな!」と一方的に言い放ち、教室を飛び出した。
背後で莉奈が何かを叫んでいたような気がしたが、俺は聞こえないフリをして、急ぎ足でコインランドリーへと向かった。日が落ちるのが早くなった秋の空は、すでに茜色に染まっている。早くしないと、探索の時間が短くなってしまう。友人たちへの罪悪感と、ダンジョンへの期待感。二つの相反する感情が、俺の胸の中で渦巻いていた。
いつものように「故障中」の洗濯機からダンジョンに足を踏み入れると、ひんやりとした湿った空気が俺を迎えた。もうすっかり慣れた、第一階層の洞窟エリアだ。俺はステータスウィンドウを開き、自分の成長を確認する。
`【相田 航 LV:5】`
`HP: 150/150`
`MP: 50/50`
`状態: 正常`
この一週間で、レベルは5まで上がっていた。最初の頃は、スライム一匹倒すのにも、石を投げては逃げ回るという、情けない戦い方をしていたのが嘘のようだ。今では、そこらへんに落ちている手頃な岩を拾って殴りつければ、一撃で倒せるようになっていた。レベルアップによって、筋力や敏捷性といった身体能力が、確実に向上しているのが実感できた。
今日の目標は、第一階層のさらに奥、まだ足を踏み入れたことのないエリアの探索だ。俺はカッターナイフ――ではなく、最近ホームセンターで新調した、ずっしりと重い鉄パイプを握りしめ、洞窟の暗闇へと進んでいった。
しばらく進むと、道が二手に分かれている場所に出た。右は、今まで何度も通った、スライムや巨大コウモリがうろついている見慣れた道。そして左は、不気味な紫色の光ゴケが壁一面に生えた、未知の道だ。奥からは、生暖かい、カビ臭いような風が吹いてくる。
「なんか面白そうじゃん」
俺の口癖が、自然と口をついて出る。恐怖よりも、好奇心が勝ってしまうのが、俺の性分だった。迷わず、左の道を選んだ。紫色の光に照らされた洞窟は、どこか幻想的でありながらも、同時に得体の知れない不気味さを醸し出している。俺は警戒レベルを一段階上げ、鉄パイプを握る手に力を込め、慎重に歩を進めた。
すると、前方から、今までに出会ったことのないマモノが姿を現した。それは、二足歩行する、緑色のぬめった肌をした小鬼――ゴブリンだった。手には動物の骨か何かで作った、粗末な棍棒を握り、血走った目でこちらを爛々と睨みつけている。ゲームでなら最弱クラスの雑魚キャラだが、現実(?)のゴブリンは、体長こそ俺の腰くらいまでしかないものの、その目つきは明らかに知性と、そして純粋な殺意に満ちていた。
「グルルル…ギャウ!」
ゴブリンは威嚇するような唸り声を上げると、涎を垂らしながら、棍棒を振りかざして、一直線に突進してきた。その動きは、スライムとは比べ物にならないほど素早く、そして獰猛だった。
「うおっ!」
俺は咄嗟に鉄パイプを構え、ゴブリンの棍棒を受け止めた。ガキン!と耳障りな金属音が響き、腕にずしりと重い衝撃が走る。強い。レベル5の俺でも、まともに受け止めれば押し負けそうだ。俺は衝撃で数歩後ずさった。
俺は一度距離を取ると、ゴブリンの動きを冷静に観察した。動きは素早いが、単調だ。ただ、がむしゃらに棍棒を振り回しているだけ。俺は、ゴブリンが大きく棍棒を振りかぶり、体勢が崩れた瞬間を狙い、そのがら空きの懐に、滑り込むように潜り込んだ。
「らぁっ!」
がら空きになった胴体めがけて、鉄パイプを渾身の力で、野球のバットのようにフルスイングで叩き込む。ゴッ、という鈍い、肉を叩き潰すような手応え。ゴブリンは「ギャイン!」という甲高い悲鳴を上げ、くの字に折れ曲がって数メートル後ろまで吹き飛んだ。そして、そのままピクリとも動かなくなり、やがて光の粒子となって消滅した。
`【航は経験値10を獲得した】`
スライムの10倍の経験値。やはり、強いマモノほど、得られる経験値も多いらしい。俺はぜえぜえと息を切らしながらも、自分の勝利に口元が緩むのを感じた。アドレナリンが、全身を駆け巡っていた。
ゴブリンが消えた場所には、魔石の他に、一枚の布が落ちていた。それは、丁寧に折りたたまれた、真っ白なTシャツだった。
「なんだこれ? こんなところに、なんで服が?」
俺がそれを拾い上げると、目の前にウィンドウが現れた。
`【アイテム『絶対に汚れない純白のTシャツ』を手に入れた】`
「絶対に汚れない、か」
見た目は、何の変哲もない、ごく普通のクルーネックの白Tシャツだ。素材はコットンのようだが、触り心地は驚くほど滑らかで、シルクのようでもあった。俺は試しに、そのTシャツを洞窟の地面にこすりつけてみた。紫色の光ゴケの粘液や、泥や砂利で、普通なら一瞬で見るも無残な状態になるはずだ。しかし、Tシャツは、まるで汚れそのものを拒絶するかのように、その一点の曇りもない純白を保っている。
「マジかよ…すげぇなこれ」
これなら、うっかりラーメンの汁をこぼしても、ミートソースが飛んでも、泥水の中を転げ回っても安心だ。まさに、俺のようなガサツな男のためにあるような、夢のアイテムじゃないか。俺は早速、着ていた汗臭いパーカーを脱ぎ、そのTシャツを身に着けてみることにした。サイズは、まるで俺のためにあつらえられたかのように、ぴったりだった。そして、肌触りが最高に気持ちいい。
新しいアイテムを手に入れたことに満足し、俺は今日の探索を終えることにした。ゴブリンとの戦闘は、思った以上に体力を消耗していた。無理は禁物だ。
帰り道、俺は今日の出来事を反芻していた。ゴブリンという新しい敵、そして、新しいアイテム。ダンジョンは、まだ俺の知らないことで満ち溢れている。その事実に、俺の冒険心はますます燃え上がっていた。
しかし、その一方で、俺の心には、先ほど友人たちと交わした会話が、重い影を落としていた。最近、莉奈や友人たちと過ごす時間が、明らかに減っている。彼らとの会話も、どこか上の空になってしまうことが増えた。このままダンジョンにのめり込んでいけば、俺は、大切な日常を、彼らの信頼を、失ってしまうのではないか。そんな、拭い去ることのできない不安が、ふと頭をよぎった。
「まあ、いっか」
俺は、いつもの口癖で、その不安に無理やり蓋をした。今は、考えるだけ無駄だ。俺は、俺のやりたいようにやるだけだ。そう自分に言い聞かせ、俺はコインランドリーを後にした。
その背中を、コインランドリーの向かいの電柱の影から、じっと見つめる鋭い視線があることなど、この時の俺は、まだ知る由もなかった。
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