第3話幼馴染の涙と、動かない時間

『調律の石』の驚くべき力に興奮した翌日、俺の世界は昨日までとは少し違って見えていた。通い慣れた通学路の景色も、退屈な講義も、食堂の喧騒さえも、どこか現実感のない、映画のワンシーンのように感じられる。俺の意識は、そのほとんどがズボンのポケットの中に鎮座する、あの灰色の石へと向いていたからだ。


この石を使えば、次は何ができるだろう。古くなった自転車を新車同様に? 味の薄い学食のラーメンを、行列のできる名店の味に? 想像は尽きず、そのたびに俺の口元は無意識に緩んだ。この全能感にも似た高揚が、俺の心をすっかり満たし、地に足がついていないような、ふわふわとした気分にさせていた。


そんな浮かれた気分のまま昼休みを迎え、いつものように食堂へ向かうと、そこにいるはずの莉奈の姿が見えなかった。いつもなら、俺より先に席を取って、「航、遅い!」と手を振っているはずなのに。


「珍しいな、莉奈がいないなんて」


俺は特に気にも留めず、トレーを持って蓮と静のいるテーブルへと向かった。


「よう。莉奈は?」

「さあ? 今日はまだ見てないな。トイレじゃないのか」


蓮は新しくインストールしたらしいパズルゲームの画面から目を離さずに答える。その隣で、静が読んでいた分厚いハードカバーからふと顔を上げた。彼女の透き通るような瞳が、俺をまっすぐに捉える。


「日高さんなら、さっき中庭のベンチにいるのを見たよ。なんだか、少し元気がなかったみたいだけど。声をかけたんだけど、聞こえていないみたいで…」

「元気がない?」


静の言葉に、俺の浮かれた気分が、すっと冷めていくのを感じた。あの莉奈が? いつも元気で、クラスの太陽みたいな存在の彼女が? 悩み事があっても、それを表に出さずに空元気で乗り切ろうとするのが、日高莉奈という女だ。そんな彼女が、はたから見てわかるほど元気をなくしているというのは、よほどのことに違いない。


「悪い、先食っててくれ。ちょっと様子見てくる」


俺はトレーをテーブルに置くのももどかしく、二人にそう言い残して踵を返した。背後で蓮が「おい、生姜焼き定食どうすんだよ」とぼやいているのが聞こえたが、今の俺にはどうでもよかった。


中庭の大きな桜の木の下、ぽつんと置かれたベンチに、莉奈は一人で座っていた。その背中は小さく丸まっていて、いかにも落ち込んでいます、というオーラを全身から発している。俺が砂利を踏みしめて近づいていくのに、彼女は全く気づく様子がない。ただ、自分の手元をじっと見つめている。


「莉奈、どうした? こんなところで一人で」


俺がすぐ隣に立って声をかけると、莉奈の肩がびくりと大きく震えた。ゆっくりとこちらを振り向いた彼女の顔を見て、俺は息を呑んだ。その大きな瞳は真っ赤に腫れ、綺麗な頬には涙の跡がくっきりと残っていた。明らかに、長い時間、一人で泣いていたのだとわかった。


「…わたる」

「お前、どうしたんだよ。誰かに何かされたのか? それとも、また課題でも落としたのか?」


俺は努めて明るい声で言いながら、彼女の隣に腰を下ろした。俺の軽口に、莉奈は力なく首を横に振る。そして、俯いたまま、ぽつり、ぽつりと、途切れ途切れに話し始めた。


「…腕時計、壊れちゃったんだ」


彼女が力なく差し出した手首には、いつもそこにあるはずの、少し古風で上品なデザインの腕時計がなかった。銀色の文字盤に、繊細な青い針。革のベルトは、彼女の細い腕に合わせて何度も調整したせいで、少しヨレていた。それは、莉奈が小学生の頃に亡くなったおじいさんから、生前、最後の誕生日にプレゼントされた、大切な形見だと聞いていた。莉奈はそれを、まるで宝物のように、毎日毎日、片時も離さず身に着けていたはずだ。


「今朝、時間を合わせようとしたら、竜頭が、ポロって…取れちゃって…。慌てて、駅前の時計屋さんに持って行ったんだけど…」


そこで莉奈は言葉を詰まらせ、再びその瞳にじわりと涙を溜めた。


「…もう、古すぎて、交換できる部品がないんだって。スイスの、もう無くなったメーカーの時計だから、修理は不可能だって、おじいさんに言われちゃった…。もう、二度と動かないかもしれないって…」


そう言うと、莉奈はとうとう堪えきれなくなり、俺の肩に顔をうずめて、声を殺して泣き始めた。彼女の背中が、小さな子供のように震えている。俺は何も言えず、ただ、その震える背中を、どうすればいいのかもわからずに、優しくさすることしかできなかった。


彼女にとって、あの時計は単なる時間を知るための道具ではなかった。それは、大好きだった祖父との思い出そのものであり、彼女と過去とを繋ぐ、かけがえのない絆だったのだ。おじいさんが亡くなった時も、中学受験に失敗した時も、俺と大喧嘩した時も、莉奈はいつもその時計を握りしめて、悲しみを乗り越えてきた。その時間が、永遠に止まってしまった。その絶望は、俺の想像を絶するものがあるだろう。


俺は、自分の無力さが歯がゆかった。昨日まで、あの『調律の石』の力で、まるで神様にでもなったかのような万能感に浸っていた自分が、ひどくちっぽけで、滑稽に思えた。結局、俺は、目の前で泣いている幼馴染一人、まともな慰めの言葉すら見つけられないのだ。


その日の帰り道、俺の足取りは鉛のように重かった。莉奈の泣き顔が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。彼女の悲しむ顔は見たくない。なんとかしてやりたい。心の底から、そう思った。その時、ポケットの中で、あの灰色の石が、まるで俺の決意を促すかのように、確かな存在感を主張していた。


『調律の石』。


あれは、物質の固有振動数を最適化する力だ。機械の調子を良くすることは、昨日の実験で証明されている。だとしたら、莉奈のあの古い腕時計も、「調律」できるのではないか?


いや、でも、と俺の心にブレーキがかかる。あれは、ただの時計じゃない。莉奈にとって、何よりも大切な宝物だ。万が一、俺が下手にいじって、完全に壊してしまったら? 取り返しのつかないことになったら? そう思うと、急に怖くなった。


俺は、自分のやろうとしていることの重大さに、足がすくむのを感じた。これは、自分のガラクタをいじるのとは訳が違う。他人の、それも、かけがえのない思い出が詰まった品物を、得体の知れない力でどうこうしようというのだ。失敗は、絶対に許されない。


俺は、自分の部屋のベッドに倒れ込み、天井の染みをぼんやりと見上げた。どうすればいい? 何が正しいんだ? 莉奈の笑顔を取り戻したい。でも、リスクが大きすぎる。俺の頭の中で、二つの考えがぐるぐると渦を巻いて、俺を苛んだ。


結局、俺はその夜、ほとんど一睡もすることができなかった。何度も寝返りを打ち、そのたびにポケットの中の石の重みを感じた。そして、東の空が白み始める頃、俺は寝不足の重い頭で、ようやく一つの結論に達していた。


たとえリスクがあったとしても、俺はやるしかない。莉奈のあの悲しい顔を、笑顔に変えられる可能性があるのなら、俺はそれに賭けてみたい。失敗するかもしれない。でも、何もしないで後悔するよりはずっといい。俺は、ただの友人じゃない。彼女の、幼馴染なのだから。


俺は覚悟を決めた。そして、莉那を安心させて、あの時計を預かるための、小さな、しかし重大な嘘を一つ、考えついたのだった。

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