第2話灰色の石と不協和音
翌日の昼休み。大学の食堂は、ピークタイムを過ぎてもなお、学生たちの喧騒で満ちていた。俺はトレーの上に乗せたA定食――今日は生姜焼き定食だ――を落とさないように慎重に運びながら、窓際の席に陣取るいつものメンバーの元へと向かった。
「おー、お疲れ」
俺が声をかけると、すでに食事を始めていた三人が顔を上げた。
「航、遅かったじゃん。あんたの好きな生姜焼き、売り切れるとこだったよ」
そう言って口を尖らせるのは、幼馴染の日高莉奈。彼女は自分のカツカレーをスプーンで突きながら、母親のようなことを言う。その隣では、物静かな美少女、月島静が文庫本を片手に、優雅にパスタを口に運んでいた。
「悪い悪い。ちょっと教授に捕まってさ」
俺が適当な嘘をつきながら向かいの席に座ると、銀髪のイケメン、橘蓮がスマホから顔を上げた。
「相田、お前、なんか今日ニヤニヤしてないか? 気持ち悪いぞ」
「はあ? ニヤニヤなんかしてねえよ」
「いや、してる。口角が普段より三ミリは上がってる」
蓮はそう言って、真顔で俺の顔を分析し始めた。こいつは、こういう無駄に論理的なところが面倒くさい。
「気のせいだろ。それより、お前こそどうなんだよ。例のドローン、その後」
俺が話を逸らすためにそう言うと、蓮は待ってましたとばかりに溜息をついた。
「ああ、それが全然ダメなんだ。昨日も一日中いじってたんだが、どうにも飛行が安定しない。モーターの回転数をいくら調整しても、機体が微妙にブレる」
蓮はガジェットのことになると、途端に饒舌になる。彼は自作のドローンで、アマチュアのレースに出場するのが夢なのだ。そのために、バイト代のほとんどをパーツにつぎ込んでいる。
「ふぅん。で、原因はわかったのか?」
「大方、パーツ同士の相性だろうな。特に、フレームとモーターの固有振動数が微妙にズレてる感じがするんだ。共振しちまって、余計なブレを生んでる。新しいフレームを買うしかないか…」
振動数。
その言葉が、俺の頭の中で不意に反響した。昨日、ダンジョンで手に入れた、あの灰色の石のことを思い出したのだ。
『調律の石』
調律、というからには、音や、あるいは今の蓮の話のような「振動」に関係するアイテムなのではないか。だとしたら、あの石は、ただの石ころではない、とんでもない可能性を秘めているのかもしれない。
「…どうしたの、相田くん?」
俺が自分の思考に沈み込んでいると、不意に静が声をかけてきた。彼女はいつの間にか本を閉じ、不思議そうな顔で俺の顔を覗き込んでいる。
「え? あ、いや、なんでもない」
「そう? なんだか、難しい顔をしてたから。莉奈ちゃんが、あなたの分の唐揚げを狙っていることにも気づかずに」
「えっ!? おい、莉奈!」
俺が慌てて自分の皿に目をやると、莉奈がフォークを伸ばして、俺の生姜焼きの隣に添えられた唐揚げをまさに強奪しようとしているところだった。
「あ、バレた。ちぇっ」
「ちぇっ、じゃねえよ! 人のモンを勝手に取るな!」
「いいじゃんか、一個くらい! 航のケチ!」
俺と莉奈がいつものように小学生レベルの口喧嘩を始めると、蓮は呆れたように溜息をつき、静はくすくすと楽しそうに笑っていた。この、くだらなくて、平和な日常。俺は、この日常が好きなんだと、改めて思う。
だが同時に、俺の心の片隅では、昨日手に入れた灰色の石への好奇心が、むくむくと育っていくのを感じていた。あの石は、一体なんなのだろう。俺の日常に、どんな変化をもたらすのだろうか。
◇
その日の放課後、俺は誰よりも早く教室を飛び出し、家路を急いだ。莉奈が「付き合い悪いなぁ」と不満そうな声を上げていたが、今の俺には聞こえないフリをするしかなかった。
家に帰るなり、俺は自分の部屋に駆け込んだ。カバンをベッドに放り投げ、ズボンのポケットを探る。あった。ひんやりとした、あの灰色の石だ。
俺は机の上に『調律の石』を置き、それから、実験台として一つのアイテムを用意した。俺が中学の頃から愛用している、安物のヘッドホンだ。
これは、俺が初めて自分のお小遣いで買った、思い出の品だ。だが、長年使ってきたせいで、最近はめっきり音質が悪くなっていた。高音域はシャカシャカと耳障りなノイズが混じり、低音は輪郭がぼやけてこもって聞こえる。お気に入りのバンドの新譜を聴いても、なんだか迫力が足りなくて、がっかりさせられることが増えていた。
「さて…」
俺はごくりと唾を飲み込んだ。もし、蓮の言っていた「振動数」の話がヒントになるのなら、この石は、このヘッドホンの音質を改善してくれるかもしれない。
俺は祈るような気持ちで、『調律の石』をヘッドホンのイヤーカップにそっと触れさせた。その瞬間、昨日ダンジョンでアイテムを手に入れた時とは違う現象が起きた。
石が、淡い、柔らかな光を放ち始めたのだ。そして、その光がまるで生き物のように、ヘッドホン全体をゆっくりと包み込んでいく。光に包まれたヘッドホンが、かすかに「キーン」という高い音を立てて震えているのが見えた。
光は数秒でふっと消え、後には何の変化もないように見えるヘッドホンと石が残されただけだった。
「マジかよ…本当に何もなしか?」
見た目には、何も変わっていない。俺は半信半疑でヘッドホンを手に取り、スマホに繋いで、いつも聴いているお気に入りの曲を再生してみる。
――その瞬間、俺は耳を疑った。
「なっ…!?」
耳に流れ込んできた音は、今まで俺が聴いていたものとは、全くの別物だった。シャカシャカと耳障りだった高音のノイズは完全に消え、澄み切ったシンバルの音が鼓膜を心地よく震わせる。ぼやけていたベースのラインは、一音一音がはっきりと聞き取れるほどに輪郭を取り戻し、腹の底に響くような重低音を奏でている。ボーカルの声は、まるで目の前で歌っているかのように生々しく、息遣いまで感じられそうだ。
今まで聞こえていなかったギターのリフや、キーボードの細やかなフレーズが、次々と耳に飛び込んでくる。まるで、何万円もする高級ヘッドホンで聴いているかのような、圧倒的な解像度と臨場感。
「すげぇ…なんだこれ…」
俺は言葉を失い、ただ呆然と音楽に聴き入った。これが『調律の石』の力なのか。接触した物質の固有振動数を最適化し、本来の性能、あるいはそれ以上の状態に「調律」する。俺の頭の中に、そんな説明が自然と浮かび上がってきた。
俺は興奮を抑えきれず、部屋にあった古いポータブルスピーカーや、最近どうも書き心地が悪くなっていたボールペン、さらには、切れ味の鈍った爪切りなど、手当たり次第に調律しまくった。結果は、どれも驚くべきものだった。スピーカーはまるで高級オーディオのような深みのある音を奏で、ボールペンは驚くほど滑らかな書き心地を取り戻し、爪切りは新品以上の切れ味になった。
「やばい…これ、やばいぞ…」
この力を使えば、もっと色々なことができるんじゃないか? 古い家電を修理したり、食べ物の味を良くしたり、あるいは…。
俺の胸は、新たな可能性への期待で、張り裂けんばかりに高鳴っていた。ダンジョンという非日常と、この『調律の石』という奇跡のアイテム。俺の退屈だった日常は、もう終わりを告げたのかもしれない。これから始まる、秘密に満ちた新しい日々に、俺は武者震いを抑えることができなかった。
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