川のもう一人の俺
@saikokuya
川のもう一人の俺
私は人が少ない釣り場が好きだ。
Googleマップやストリートビューを駆使して、
誰も知らないようなスポットを探す。
荒川の支流、そのまた支流のS川で
温排水エリアを見つけたときは、
ちょっとした発見だった。
東京と埼玉の境を流れるこの川は、
都会の喧騒に隠れた静かな一角だ。
対岸はコンクリートの急な壁と
茨の茂みに覆われ、
人が立てるような場所ではない。
静かな水面とキャストする音だけが響き、
誰もいないのが心地いい。
その日、夕暮れが近づくS川のほとりにいた。
魚の気配を感じ、
集中してキャストしていた。
ふと、視線を感じた。
対岸だ。
信じられないことに、人が立っている。
釣り人らしい影が、
静かにロッドを動かしていた。
私のキャストを正確に真似しているようだ。
帽子はなく、
顔は影に覆われて見えない。
道具は私と同じくシンプルで、
ロッドだけだ。
だが、その存在感が妙だった。
そこにいるのに、
どこか実体がないような、
奇妙に薄い印象を受ける。
目を凝らしたが、
顔の輪郭すら判別できない。
視線が交錯する瞬間、
空気が一瞬重くなった。
声をかけようとしたが、
喉が詰まって言葉が出ない。
水面が揺れ、
魚がピチャッと跳ねた。
反射的にキャストすると、
対岸の釣り人も
同じタイミングでロッドを動かす。
動きがあまりに正確で、
まるで私の分身のようだ。
でも、影ではない。
この距離でこれほどはっきり見えるのはおかしい。
心臓がドキドキする。
もう一度キャスト。
向こうも同じ動き。
まるで時間がリンクしているみたいだ。
薄暗さが川を覆ってきた。
ロッドを置いて対岸を凝視した。
釣り人の足元が変だ。
コンクリの壁に立っているはずなのに、
足が地面に沈んでいるように見える。
いや、壁がグニャっと歪み、
そいつを飲み込んでいるみたいだ。
スマホでストリートビューを確認しようとしたが、
画面は灰色のエラー。
GPSも反応しない。
この場所が地図から消えたかのようだ。
背筋がゾッとした。
対岸の釣り人が、
初めてこちらを見た。
顔がない。
いや、あるが、
目も鼻も口もない。
ただの黒い闇だ。
慌てて草をかき分け、
その場を離れた。
振り返ると、対岸には誰もいない。
水面も静かで、
何もなかったかのように穏やかだ。
家に戻り、S川を調べ直した。
ストリートビューでは、
対岸はコンクリの壁と茨。
人が立てる場所はない。
あの釣り人の姿が頭から離れない。
あの動き、存在感。
まるで私がそこにいたような、
奇妙な既視感。
あれは本当に人だったのか。
それとも、
私の頭が作り出した何かだったのか。
次の週末、S川に戻った。
同じ場所、同じ時間。
対岸は空っぽ。
水面も静かで、魚の気配もない。
キャストしてみた。
すると、背後でかすかな音。
草を踏む音。
振り返っても誰もいない。
でも、水面に映った私の姿が、
一瞬、知らない誰かのシルエットに見えた。
川のもう一人の俺 @saikokuya @saikokuya
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